特別な勉強会
恋文事件の翌日は平和だった。いつも通り移動教室は面倒で、午後の授業で眠気に耐える。小テストは問題なくこなしたけれど、課題は山のようだ。
おかしな話である。普通科の、それも平民がクラブロイヤルに関わったのに平穏な日常を送っている。ルーベンを拒絶したことで報復があるかと予想していたが、何もなかった。恋文を託した令嬢だって、取り巻きたちとイブを遠巻きにしているだけだ。こちらから抗議をするほど関心はなかったので、イブも無視を決め込んだ。
終礼の鐘が鳴ると同時に、教室は賑やかになる。楽しく歓談する学生たちの横で、イブは一人教科書を鞄にしまった。寮生活なので放課後は時間を持て余してしまう。そろそろクラブ活動の見学をしたいところである。
どんなクラブがあるんだったか、と生徒手帳を開いたところで、教室が沸き立った。
それはまさに、沸き立つという表現がぴったりの状況だった。ある女生徒が悲鳴をあげたと思ったら、次々に悲鳴が増えていく。よく聞けばそれは悲鳴というより黄色い声で、やがて大きな歓声となって教室中を支配した。
イブも当然その方向に目を向ける。
——そして、天使の微笑みを浮かべたエドワードと目が合った。
「どうしてここにエドワード殿下が⁈」
「カイ様もいらっしゃるわ!」
「どうだっていいわ、とにかく素敵!」
男女問わず教室は大興奮の渦にあった。エドワードが歩けば、その前方でおしゃべりに興じていたはずの生徒がさっと道をあける。人垣で出来た花道を堂々と歩く姿は未来の国王そのものだ。ヒナギクの徽章が輝かしい。
エドワードはまっすぐにイブの元へやって来て、やあ、と片手を上げた。
「奨学生なんだってね、イブ」
「そうだよ」
イブは最低限の返事を返した。エドワードの後ろでカイが人でも殺せそうな雰囲気でイブを睨んでいる。不穏だ。
「ついてきて」
「え?」
イブは眉を寄せた。エドワードは背中を向けてさっさと教室を離れようとしており、何の説明もない。唖然としているイブを置き去りにした。
エドワードに付きそうカイが、心底不愉快だという顔をする。
「さっさとしろ。退学になりたいのか」
「……分かったよ」
あからさまにクラブロイヤルの特権をちらつかせてくるので、イブは言われた通りエドワードの後ろを追いかけた。カイの暴言は聞こえているだろうに、エドワードはすまし顔でマイペースに廊下を歩いている。
横から苛々したカイの舌打ちが聞こえた。従者というのは主人を敬愛するものなのだなあ、と納得してイブは気にしないことにした。
教室、廊下、昇降口——何処を歩いても生徒の反応は似たようなものだった。歓声、歓声、歓声だ。エドワードの一挙一動に歓声があがるもので、何に喜んでいるんだかもはや分からない。
仕方がない側面もある。普通科の校舎にだって貴族は多いが、クラブロイヤルはいない。校外でクラブロイヤルに面会できる上流階級の生徒なら、特進科で学友になれただろう。単純に憧れのクラブロイヤルに会えて感激した、という新鮮な反応だ。
きゃあきゃあ騒ぐ生徒の視界にイブは入っていない。イブの後ろはカイが監視していて、居心地が悪かった。
エドワードが向かったのは東校舎をさらに進んだ場所にある東講堂だった。学年集会が行われる講堂で、壁の本棚には課題で使う持ち出し禁止の資料が保管されている。
放課後は合唱部が美しい歌声を響かせていたのに、エドワードが入室すると喜んで場所を譲った。練習場所を奪われて嬉しそうにするなんて、まさしくキルティング校の生徒だ。カイはというと講堂の入口で待機するらしい。
エドワードはようやく足を止めて、イブに向き合った。椅子と一体になった長机が並ぶ講堂は教会にも似ていて神々しい。エドワードのほのかに色付いた形のいい唇が弧を描いた。
「これで邪魔はなくなったね」
「……手口が同じだな」
「手口? よく分からないけど、勉強するのに気が散るだろう」
エドワードは青みがかったグレーの瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「……勉強」
「奨学生に教えて貰おうと思って。数学なのだけれど……君、得意だって聞いたよ」
「あ、ああ」
イブは自分の愚かな疑惑を反省した。昨日の二の舞になるわけではなかったのだ。考えてみれば、イブのような美人でも何でもない平民に手を出す理由なんて物珍しいから以外にない。ルーベンほど無節操な人間がクラブロイヤルに二人もいたら学校が修羅場まったなしだ。
「分かった。数学なら特進科の内容でも問題ないと思う」
「ふふっ、頼もしいな。ほら、席へどうぞ」
エドワードは恭しく長机まで案内した。そして、イブが座った長椅子の隣に腰かける。一つの長机に二人分の教科書が広がった。
特進科の教科書は普通科よりも重厚だ。上流階級の生徒が通う学科なだけはある。名目上、特進科は学業が優秀な生徒が普通科よりさらに発展した内容を学ぶための場だ。しかし実態は上流階級しか所属することができない学科である。発展した内容とは領地を治めるための政治学、神学や哲学だ。数学の授業内容はさして変わらない。
そもそも覚えるだけの内容なんて優秀な教師を雇えば身につくのだから、上流階級しか特進科に進めないのも当然の帰結だ。
勉強していると息がぴったりと揃った合唱が講堂にまで届いた。移動した合唱部の面々は、芝生の上で練習することにしたようだ。
存外、エドワードは真面目に勉強に取り組んでいた。講堂の入口に立つカイは門番や警護の役割のようでぴくりとも動かないし、エドワードも全く気にしていない。
いまいち、よく分からない生徒である。クラブロイヤル、第一王子、天使の微笑み——本人を示す情報は沢山あるのにその人間性は見えてこない。今だって触れられる距離で話しているのに、人間らしい感情の一つも感じられなかった。理想的な王子殿下は崩れず、底知れぬ笑顔に包まれている。
「ここはどう解けばいいの」
「ああ、それは……」
エドワードに問われたら、イブはすぐに答えた。返事に窮する質問も飛んでこない。ごく一般的な質問ばかりだ。
「新しい記号が多いから躓く人が多いんだけど、やってることはシンプルだよ。ほら、こうして——」
「そうか、さっきの例題と同じ意味になるのか」
「そうそう、記号が変わっただけだよ」
イブはすらすら図を描いて説明する。伝わっているのか表情を確認してみると、しっかり頷いてくれた。
「分かりやすい説明だったよ。さすが奨学生」
「はは、私の他にも奨学生はいるよ」
「そうだね」
「——優秀な教師もだ」
イブははっきりと口にした。
クラブロイヤルのエドワードが頼めば、最優先でいくらでも授業してくれる。それか優秀な家庭教師を雇ってもいい。
イブの言いたいことを察して、エドワードは考え込む素振りをした。
「……学校に通うのはただ知識を得るためではないよ」
「ルーベン=フライスとジェイデン=オックスもいる」
彼らは一つ上の三年生だ。十分に交友関係を深めればいい。
「狭い輪の中で完結するなら同じだよ」
エドワードは相変わらず微笑んでいた。
面白いことを言う人だ。平民のイブなんて卒業したら赤の他人になるのに、まるで彼のとっておきの時間かのように見える。確かに交友関係を広くしたいならイブは適任だ。奨学生の座を勝ち取った初めての女性であり、平民である。
言ってしまえば結局、物珍しいだけではあるのだが。
「まあ、納得したよ。毛色の違う猫は価値があるというしね」
「君はどちらかというと犬じゃない?」
「ふはっ、どうかな」
イブは声をあげて笑った。口元を隠すこともせず、淑女失格の笑い方だ。だがエドワードが叱責することはない。講堂入口のカイから殺意が飛んできた気がするだけだ。
「ルーベンはいつもああなの?」
イブは気になっていた点を聞いてみた。
保健室での一件から一日。今のところ報復は受けていないが、今後は分からない。どう見たって常習だったわけだが、その都度生徒を追放するなんて馬鹿なことはあるまい。
「そうだね今月は君を入れて四人かな」
「!」
イブは目を丸くした。
「おや、その様子だと本当に手を出されたのかな」
「未遂だ……」
「そうなの?」
エドワードは全く意に介していない。さらりと鎌をかけられた。ルーベンはイブの後を追いかけたのだし、日頃の行いから推測したようだ。
「問題になるんじゃないか。私はともかく、この学校の女生徒は大半が貴族のご令嬢だろう」
「あれは比較的いい男だよ。ご令嬢方に優しいし、手切れ金だって潤沢だ」
文句なんて出てこない、と続ける。
ルーベンがちゃんとご令嬢の支持を得ているなんて、にわかに信じられなかった。銀髪は美しかったけれど、顔も整っていたほうだけれど、人間として最低限のところが出来ていないのに。
考え込んでしまったイブの横で、エドワードは教科書を片付けた。
イブも荷物を纏め、来た時と同じように鞄を抱える。
講堂を出た時には東の空がかなり暗くなっていた。合唱部の姿はなく、歌声も聞こえなくなってしまった。夕刻よりも冷たい風が二人の間を抜けてイブはぶるりと震えた。エドワードにはカイからそっとストールが差し出されている。いつ用意したのかさっぱり分からない。
「それじゃあ、さよなら」
告げたイブにエドワードは微笑んだ。
「うん、またよろしく」
「……うん?」
これ続くやつなんだ。
反射で発した声は多分、肯定として受け取られた。
ほのめかされていた通り、放課後の勉強会は何度か続いた。次の週もその次の週も続いた。だがエドワードが普通科の教室に来たのは初回きりで、以降はカイが不本意そうに呼び出した。二週間も経つとそれも面倒になって、勉強会は週二回、火曜と金曜に行うことになった。
盆暗貴族の放蕩息子の話ならよく聞くが、エドワードはというと理想的な王子殿下であるように思えた。基本的に人当たりはいいし、勤勉だ。教えた内容を忘れていることも勿論あるが、着実に身に着けている。相変わらず人間味に欠けた底知れない笑顔なのは気がかりだが、少なくとも努力できる人間が将来の国王だなんて喜ばしいではないか。
問題はイブにあった。
クラスメイトたちに話しかけても返事をしてもらえない。聞こえなかったのかと思って大きな声で繰り返しても一瞥さえくれないので、無視されているらしいと気付いた。最近よく持ち物がなくなるのも、イブがおっちょこちょいになった訳ではなかったのだ。もしかして、とよく舌打ちしている生徒を物陰から眺めてみるとイブがいない場所では一度も舌打ちしなかった。何ということだ。
もう転入してひと月になるのに、友達ができるどころか嫌われはじめている。
おそらく原因はエドワードとの勉強会である。クラブロイヤルに目をかけられている奨学生、それも普通科の平民となれば、鬱憤晴らしの格好の餌食だ。寮の部屋が鍵付きでよかった。寮は部屋のグレードによって費用が違うので、嫌がらせをしてくる貴族の子女とは離れられる。貴重な安全地帯だ。
少し、生傷が増えた。無視や窃盗のような非接触の嫌がらせが、付き飛ばしたりチョークをぶつけたりといった直接的なものに変わっていった。黒板にでかでかとイブを貶める言葉が書かれた時は、お貴族様がよくこんな言葉を知っていたな、といっそ感心したものである。
年明けのテストが返却された日、クラスメイト達は結果に一喜一憂していたけれどイブはさっさと校舎を離れた。嫌がらせを避けるための賢明な選択だ。
——と、一人で歩くイブの上から、バケツ一杯の水が降ってきた。
「……」
振り仰いだ校舎の窓から、くすくすと笑い声が聞こえる。ぱたぱたと離れる足音の、なんと無邪気なことか。
鞄の中身は無事だった。お優しいことに綺麗な水だったので乾かせばいいだけだ。ハンカチで顔と手だけを拭いておく。
大雨に降られたとでも思って忘れよう。
頭を切り替えたのに、イブはぶるりと震えた。春は遠く、冷たい風が体温を奪う。制服の上で水が凍ってしまうのではないかとぼんやり思った。
「……クラブロイヤルが何だっていうんだ」
独りごちる。身分を忘れてただの生徒同士として接しては駄目なのだろうか。王立キルティング校は貴族も平民も通う学校で、特進科には貴族しか入れないとはいえ、普通科は両者が共存しているのに。
——狭い輪の中で完結するなら同じだよ。
なぜかエドワードの言葉を思い出した。はあ、と吐いた息が白く空気を染め、イブは足を早めた。
そこで、後ろから声をかけられた。
「どうかなさいましたの……って、貴女!」
「……リラ」
リラ=ジャガードが目を丸くして、ずぶ濡れのイブの背に手を添えた。仕事なんてしたことがないご令嬢の美しく小さな手が、こうも温かく感じる。
「ど、どうして濡れて……はっ、そんな、まさか」
「いや、ルーベンは関係ないよ」
ルーベンにとんでもない濡れ衣が着せられそうだったのできちんと訂正しておいた。困惑しているリラへの説明を考えている間にイブの鼻がむずむずして大きなくしゃみがでる。
「……ひとまず、保健室に行きましょう。放課後でも温かくしてあるはずよ」
「あー……じゃあ、お言葉に甘えて」
「こんなの甘えるって言わないわよ。ほら、はやく」
リラはイブの鞄を奪ってつかつかと歩き出し、イブも早歩きで追いかけた。西校舎まではそう遠くない。
保健室の扉には不在の表示がなされていた。保険医は職員会議にでも行っているようで、誰もいない保健室に勝手に侵入する。鍵がかけられてないからいいのよ、とリラは頼もしかった。
二度目となる保健室は心休まる場所だった。トラウマになってもおかしくない場所なのに、リラと二人だとこうも違うものかと驚く。リラが言っていた通り保健室は温かく、高級なソファも安らぎに一役買った。
リラはふかふかのタオルと、温かい紅茶まで用意してくれる。
「ありがとう」
「困っている人を助けるのは当然のことだわ」
「助けてもらうのは当然のことじゃないから」
久しぶりに触れた人の優しさに、心が凪いだ。少し疲れていたのだな、とイブは気付いた。そもそもエドワード以外の生徒と話すのも久しぶりな気がする。心に沁みるわけだ。
「……何を笑ってらっしゃるの?」
「嬉しくてね」
「変な方ね」
「ふふっ」
少しでもお返しがしたくなる。
イブは鞄を膝にのせて何かいいものでもないかと漁った。先週はキャンディ缶を入れていたのだが、もう空だ。我ながら教科書ばかりのつまらない鞄だった。
ふと顔を上げると、リラは鞄に釘付けになっていた。
「随分沢山持ち歩いているのね……?」
「ロッカーに置くと取られてしまうからね」
「!」
みるみるリラの目が見開かれた。その視線がイブの膝の擦り傷や傷のついた靴を追う。本来、ジャガード家のご令嬢に見せていいものでは無いのだろう。
「あー……みっともなかったかな」
イブは明るい口調で誤魔化した。リラが言葉を失っていて、申し訳ないようにも思った。嫌がらせはされているもののやり口がぬるく、そんなに深刻に捉えていない。
「……放課後と昼休み、一緒に過ごしましょう」
「えっ?」
ぽつりとリラは呟いた。
「私のところにいらっしゃいなイブ。少しは守ってあげられるわ」
「いや、悪いよ」
「悪いのは奨学生を煩わせている方ではなくて?」
「そうだけど」
リラに奨学生だと認知されていてイブは驚いた。ルーベンの言う通り、女性初の奨学生として知名度が高かったりするのだろうか。
リラは溜息をつき、紅茶を口にした。
「テストで落ち込んでたなんて馬鹿みたいだわ……貴女、そんな状態でテストは大丈夫だったの? 奨学生って常に上位五位に入らないといけないんでしょう?」
「そうだよ。だから私を追い出したいなら勉強すればいいだけなんだけどね」
五位以下になったら、学費を払えないイブは退学するしかない。今回も当然一位だったのでまだまだ余裕である。それに授業に出席しているのだから、ちょっとした嫌がらせで成績が落ちる気がしない。
「イブは凄いのね。私なんて二十三位よ。そんな成績でイブの順位を心配するだなんて、恥ずかしい……」
「十分優秀だと思うけど」
「特進科五十人の中で、よ? ああ、もう……どうして天文学ってあんなに難しいのかしら」
リラは頬を両手で押さえて、顔を赤くしていた。眉を下げて、本当に恥ずかしがっているのだと分かる。なんだか可愛らしい人だった。
助けてくれたから、という単純なきっかけではあるけれど、イブはリラとの時間が心地よく感じた。
「苦手なのは天文学だけ?」
「ええ……いつも赤点なの。どうにか例題を覚えて受けるようにしているのよ」
「私でよければ教えるよ」
いい恩返しを見つけた。イブは天文学も得意な方だ。
「ええと、でも、私三年よ?」
「天文学だよね。教科書を読んだら分かると思う」
「まあ」
リラは口元を手で押さえて、目を丸くした。期待にきらきらと輝く瞳が可愛らしく、鼻が高くなる。
「任せてくれ。最近はエドワード殿下にも数学を教えているんだよ」
「殿下にも教えてらっしゃるの……?」
「うん。見かけによらず学生らしい学生だよね」
はは、とイブは笑った。しかし反応がないので、ド滑りしたのかと様子を窺った。
リラは困惑を浮かべている。
「殿下はご学業にも優れた方よ?」
「そうだね。努力家なんだろうね」
勉強会での姿を思い出すと微笑ましい。一歩一歩着実に進んで、優秀な成績を修めているのだから立派なものだ。
「違うわよ、ほら見て」
リラは鞄から取り出した羊皮紙を突きつけた。特進科のテスト結果が一覧できるようになっている。
さっとイブの表情が曇った。
「……あいつ」
エドワードの名前は特進科二年の一番上に記載されている。
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