第一話 革靴は蜜の味

尊き方々

 イブ=ベルベットが王立キルティング校に転入して早くも一週間が経つ。手続きに手間取ったとはいえ転入時期が年始だなんてついていない。ただでさえ二年生からの転入で馴染みにくいというのに、収穫祭もハロウィーンもクリスマスも……親睦を深めるチャンスをほとんど逃してしまった。

 二年生から転入した他の学生はこの数か月ですっかり皆と仲良くなっているのに、イブにはまだ一人も友達と呼べる人間がいない。完全に出遅れた。いや、出遅れたからであって自分の性格には何の問題もないと思いたい。

「——これを渡せばいいのか?」

 イブは差し出された封筒をまじまじと見つめた。愛らしい花柄の封筒に赤い封蝋が押してある。ほのかに高級そうな香りもする。

 何が目的のどんな手紙なのか、一目瞭然である。

「この恋文を?」

「ええ、そうよ」

 目の前のご令嬢は腕を組み、顎を上げ、あからさまに見下しながら告げた。人にものを頼む態度ではない。ご令嬢の後ろには取り巻きが三人ならび、練習でもしたかのように揃って腕を組んでいるものだから、イブは咳き込むことで笑いを誤魔化した。

「あー、君からってことでいいの?」

「言わなくても大丈夫よ。しっかり書いてあるもの。……それで、どうするの? 渡してくださる?」

 ご令嬢と取り巻きの目が鋭く光る。断ったらどうなることやら分からない。それも面白そうではあるけれど。

「……まあ、分かったよ」

「ありがとう、渡してくださるのね」

「個人的には、こういうのは自分で伝えるべきだとは思うけど……うん、いいよ」

「余計なお世話だわ」

 人が折角引き受けようとしているのに、ご令嬢はつれない。場所だけ告げて、取り巻き共々さっさと教室を出てしまった。あんまりだ。

 ぽつりと一人残された教室でいつまでも夕日を独占していたって仕方がない。イブはため息をついて、ご令嬢に頼まれた場所に向かうことにした。

 放課後のキルティング校では部活動が活発に行われている。楽しそうな生徒たちの声が聞こえて、いつかあの中に混ざることができるのだろうかと先行きが不安になった。キルティング校の生徒の大半は貴族の子女であり、イブのような平民出身は依然として少数派だ。この伝書鳩で少しでも仲良くなれるといいのだが。

 イブは生徒手帳を開いて構内図を確認した。丘一つまるまるキルティング校の敷地であるため、頼まれたガラスの温室がどこにあるのか見当もつかないのだ。

 構内図によればガラスの温室は中庭の中央に位置していた。案外近かったのでイブはほっと胸を撫でおろす。特に迷うこともなく、歩いて十分ほどで辿り着くことができた。

 ——そして、その壮大な外観に唖然とすることになった。

「……」

 イブの目の前には貴族のお屋敷かと見紛うほどの大きなガラスの建物がそびえていた。三階建てほどの高さで、横幅だって五部屋分くらいありそうだ。それが全て吹き抜けの一間になっており、ガラス越しにイブの知らない植物が見える。

 想像していたお洒落な小屋とは全く異なる。どこがガラスの温室だ。ガラスのドームかガラスの宮殿に改名したほうがいい。

 ガラスの温室には北校舎の通路を通って入るらしい。しかしイブはもう中庭に降りており、一か所くらい中庭からの入口がないかと外周を回ると、思った通り通用口を見つけた。ありがたくガラスの温室に入っていく。

「……おお」

 すぐにイブは感嘆の声をあげた。

 温かい。温室というものがそもそもよく分かっていなかったのだが、これで分かった。なるほど、この冬場に沢山の植物で彩られているのもこの仕組みのおかげなわけだ。

 温室内は一間しかないが、植物によって迷路のように入り組んでいる。とりあえず道なりに進んで、中央の開けた空間に出た。

 高級そうな机と椅子がならび、机の上には花瓶が、椅子の上にはクッションがある。流石、貴族の子女が通う名門校だ。

 しかし不可解なのは、机の上にティーセットが用意されていることだった。三段のティースタンドに菓子が並び、ガラス製のドームで覆われている。それぞれの椅子の前に空のティーポットと伏せられたカップがあり、まさしくこれからアフタヌーンティーが始まりそうだ。

 イブは遠慮なく一番分厚いクッションが置かれた椅子に座って相手を待つことにした。ご令嬢曰く、ガラスの温室で待っていれば来てくれるらしい。イブは相手が誰なのかも知らないが、この温室の静けさを思えば紛らわしい候補は現れないという事なのだろうか。

 待っていると、温室が温かく心地よいので眠気が襲ってきた。しかしここで眠りこけるのは自分でもどうかと思うので、膝をつねってみる。

「……——」

 一生懸命眠気に逆らっていると、どこかから微かに声がした。

「——が、————……」

「でも——!」

「……——だ」

 人の気配だ。きっとご令嬢の相手が来たに違いない。

 イブは気を引き締めて顔を上げた。

 植物のアーチをくぐって現れたのは、天使と見紛うほどの美しい顔をした男子学生だった。染み一つない真っ白な肌で、柔らかな金の髪が天の光のようである。そして少年と青年の狭間にある体が彼のミステリアスな魅力を増長していた。

「……あれ、今日は先客がいるんだ」

 見惚れてしまったイブを見つけて、天使は首を傾げた。美しく微笑んだまま、どうも人間味がない。

 ひとまず挨拶だ、とイブは立ち上がった。

「あ、どうも、はじめま——」

 しかし、言い終わる前に天使の横から飛び出した男子生徒に腕を掴まれ、あっという間に地面に転がされてしまった。

 とりあえず挨拶を最後まで続けておく。

「……はじめまして、二年普通科のイブ=ベルベットだ」

「誰だ貴様!」

 すると同時に、イブを押さえつけながら男子生徒が怒鳴ったので行き違いになってしまった。

「……イブ=ベルベットだ」

 もう一度名乗っておく。話すと砂利が頬に擦れて少し痛い。

 黒髪の男子生徒の拘束がきつく、上手く顔を上げることが出来ない。だが、どうやら四人の学生がイブを取り囲んでいるようである。そのうち、椅子に座って寛ぎ始めた長い銀髪の男の襟にきらりと輝くものを見つけた。

 純金で出来たヒナギクの徽章である。

「エドワード殿下! この女、即刻処分いたしましょう!」

 エドワード殿下。

 頭の中で復唱し、イブは全ての状況を把握した。

 天使、もといエドワードはイブの側に座り込み、じっとイブと目を合わせる。

「ねえ、イブ。ここが何処か知っているのかな?」

「……もしかしなくても、クラブロイヤルのサロンルームか?」

「ふふっ、大正解」

 楽しそうにエドワードの青みがかったグレーの瞳が細められた。

 イブは乾いた笑いを浮かべるしかない。一般生徒、すなわちイブの立ち入り禁止区域だ。

 クラブロイヤルについては転入時に説明を受けた。このキルティング校の中でも特に高貴な生徒が所属する特権階級で、全てにおいて優先権と特権が認められている。サロンルームもその一つで、クラブロイヤルのメンバーしか足を踏み入れることは許されていない。

 そんな獅子の集団であるため、転入して間もないイブでさえクラブロイヤルの人間は頭に入れている。天使の微笑みを浮かべているのはエドワード殿下——クラブロイヤルで最も高貴なこの国の第一王子殿下である。

「エドワード、君の従者は物騒すぎないか。いきなり女生徒を組み伏せるなんて」

「いいえジェイデン様。己の身分も分からぬ愚図は本校に不要でしょう」

 助け舟を出してくれた生徒にも厳しく反論が飛び、イブを拘束する手がむしろ強くなる。

 クラブロイヤルのジェイデン、となれば有名な軍人一家であるオックス伯爵家の長男だ。イブを拘束している男子生徒がエドワードの従者なのだとすれば、こちらはカイだろう。

 ジェイデンの苦言を聞いてエドワードは、ふむ、と頷いた。

「カイ、離しておやり」

「……はい」

 エドワードの鶴の一声で、イブは自由を取り戻した。体を起こし、頬の砂利をさっさと払うと、目の前に手の平が差し出される。

 イブをじっと見つめていたエドワードの手ではない。助け舟を出してくれたジェイデンの手だ。体格に恵まれ帯剣していることもあって、まさに騎士といった出で立ちだ。模範的な軍人一家なだけはある。

 ありがたく手を取り立ち上がったところで、ふと違和感を持った。何かを忘れている。

 ——その時、イブの横から伸びた手が、ひらひらと花柄の封筒をふった。

「あ」

「これってラブレター?」

 イブが新たな声に振り返ると、視界に銀色が広がった。先ほど椅子に座り込んでいた生徒が、イブの肩を抱くようにして立っている。後ろで纏めて正面に流した長い銀髪がイブの視界を遮ったのだった。

 すこし、距離が近い。イブはくるりと体の向きを変えて銀髪の生徒から離れた。そして丁寧に頭を下げる。

「すまない。返してもらえないか」

 ご令嬢の大切な恋文だ。ガラスの温室で待っていれば現れるはずのお相手とは、おそらくエドワード王子殿下である。この場には他にも銀髪の生徒、軍人一家のジェイデン、従者のカイがいるが、相手が自明ということなら間違いない。

「ルーベン。その封筒、僕に頂戴」

 伝書鳩の役目を果たそうとしたイブをエドワードが遮った。

 ルーベン=フライス。これまたビッグネームだ。フライス侯爵家は歴代有能な大臣を輩出している。実際、現侯爵はこの王国の宰相である。

「いいよ、どうぞ」

 ルーベンはイブなんて無視をして、エドワードに封筒を渡してしまった。過程はどうあれ渡るべき相手に渡ったので良しとする。

 エドワードは天使のような微笑みを浮かべたまま、一番分厚いクッションが置かれた椅子に座った。すぐにカイが紅茶をサイドテーブルに置き、いわゆるサロンらしい光景が広がる。魔法でも使ったかのような早業だ。ティースタンドのガラスドームが取り払われると同時に甘い香りが漂い、口の中が湿った。

 場違いなのは一目瞭然だが、帰るタイミングもいまいち分からなかった。恋文の返事を受け取るところまでがイブの仕事なのだろうか。エドワードときたらペーパーナイフを使う姿さえ絵画のようであるのに、イブはそわそわと落ち着かない。

 いや、やっぱり返事をもらってこいとは言われていない。イブは思いきって、手紙を読むエドワードに声をかけた。

「じゃあ、そういうことだから。私は失礼させてもらうよ」

「……これ、本気なの?」

 エドワードは便箋を指さした。ほのかに色のついた便箋で、とても可愛らしい。

「本気なんじゃないか? 封筒も便箋も高級だし、いい香りがするだろう?」

 平民出身のイブには到底考えつかない恋文だ。これなら直接告白したほうが安あがりでいい。

 しかしエドワードの微笑みに、何故か困惑が混ざった。

「『貴方の犬にしてください』って書いてあるのだけれど」

 わお。意外と過激派の令嬢だった。イブは驚いたものの、他人の性癖には口を出さない主義である。

「なにそれ、俺にも見せてよエドワード」

 顔を輝かせてねだるルーベンにエドワードは便箋を渡した。当然、カイとジェイデンもそこに加わる。

 一同が恋文を読み進めるたび、「うわ……」だとか「えっぐ……」だとかいう言葉が聞こえてきたので、それはそれは情熱的な恋文なのだろう。それより、エドワードの従者であるカイがどぶの汚水を見るような目でイブを睨んでくるのが気になる。もっと言えばルーベンは面白そうに、ジェイデンは憐れみを込めてイブを見ていた。

 ……そこまで察しは悪くない。

「私の名前が書いてあるってことなのかな」

「そうだね」

 エドワードがしっかりと頷く。イブは深く溜息をついた。

「嫌がらせだろうな。友人は選んだ方がいい」

 ジェイデンが同情を込めて忠告してくれた。そう言われても、と反論したいところだが甘んじて受け入れる。ご令嬢がイブにいい感情を抱いていないことに気付いていたからだ。

 この伝書鳩で仲良くなれるかもしれないと思ったのに、とんだ茶番である。

「弁明しておくけれど、便箋の内容は知らなかったんだ。迷惑をかけたね。忘れてくれ」

「うん。イブ=ベルベット、だね」

 エドワードはまっすぐにイブを見つめて微笑んだ。

 もしかして使う言語を間違ったのだろうか。不安になるくらい会話が成立していない。先ほどからずっとそうではあるが。

「……それじゃあ、今度こそ失礼するよ」

 イブはジャンパースカートの裾を掴んで、貴族っぽいお辞儀をした。同じクラスの女学生達が確かこのような礼をしていたはずだ。とくに引き留められることもなかったので、そのままガラスの温室を退散した。



 ガラスの温室の正規の出入口は北校舎からの通路だがそれも憚られたので、イブは来た時同様に中庭側の通用口を通った。

 ひとまず、無事に生きて出られてよかった。正直あのまま不興を買って退学になってもおかしくない場面だった。クラブロイヤルはそれが許される特権階級である。

 イブが小さくガッツポーズをしたところで、後ろから声をかけられた。

「イブちゃん!」

「……ルーベン」

 追いかけて手を振っているのは名門侯爵家のルーベンだった。小走りに近寄るたび、一つに纏めた見事な銀髪が揺れる。日も落ちてきたのに、きらきらと眩しい。

「なにか用かな。忘れ物はしていないよ」

 手提げ鞄ならちゃんと持っているし、ハンカチはポケットの中だ。例の恋文を引き取れということなら、引き取ってごみ箱に捨てるのだが。

「カイが結構強く押さえつけてたから気になってね」

「ああ、それなら問題ない」

「でもほら……頬が切れてる」

 ルーベンはそっとイブの頬に触れた。少し沁みる程度の傷はイブにとって“問題ない”にカテゴライズされるが、ルーベンにとっては違うようだ。

「保健室に案内させてくれないかい」

「大袈裟だな」

「だって気になるんだよ。さあ、俺を助けると思って」

 ルーベンは憐れっぽく額に手を当てて、嘆いて見せた。天使とまでは言わないが、彼も非常に美しい学生だ。そして自分の容姿の使い方をよくわかっている。

「ね、付き合ってくれる?」

「……わかった」

「ありがとう」

 イブは諦めて保健室に向かう事にした。クラブロイヤルがお願いしているのだ。それが命令に変わる前に従った方がいい。

 それに、まだ見ぬ保健室の場所を覚えたい。イブは生徒手帳を開いて構内図を開いた。保健室は西校舎の端だ。

「うわ、生徒手帳なんて久しぶりにみたよ。ちゃんと持ち歩いてるんだ」

「何かと便利だからね」

 こうして構内図を広げることもできるし、ちょっとしたメモもできる。街に下りたら身分証だ。まあ、クラブロイヤルなら身分を問われるなんて無礼を働かれることもないのだろうが。

 生徒手帳に縁のないルーベンには真面目な生徒に見えたらしく、ひゅう、と口笛を吹いた。

「さっすが、噂の奨学生」

「……噂の、だって?」

「季節外れの転入生、それも奨学生では歴代初の女性! イブ=ベルベット——……イブちゃんは結構有名人だよ」

 知らなかった。自分としては貴族に馴染めない庶民であって、空気のように存在しているのだと思っていた。

 噂の奨学生。いいではないか。空気よりは有名人の方がクラスメイトと仲良くなれそうだ。ルーベンがそれを言うのがおかしな話なだけで。

「有名人というなら君の方が有名人だろう。フライス侯爵家なんて貴族の中の貴族じゃないか」

「なんだ知ってたんだ。じゃあ俺が三年ってことも知ってるのかな」

「ああ、一つ上の先輩だね」

 イブは曇りなき眼でルーベンを見上げた。

 平民階級に敬語は難しい。口調が不適切であることを認識してはいるものの、正すのはもう諦めた。堂々と話すことで、庶民は野蛮なのだと納得していただきたい。

「……ふはっ、イブちゃんって面白いね」

 ルーベンは楽しそうに肩を揺らした。ご機嫌で何よりだ。

 保健室にはあっという間に辿りついた。放課後の西校舎は人が少なく、昇降口で数人とすれ違ったら後は誰とも出会わなかった。

 保健室の木造扉はルーベンと二人並んでも余裕の幅広サイズである。その内側には清潔でシックな空間が広がっていた。カーテン付きのベッドが四つ並び、ソファも二つある。どれも空席だ。

 書類作業を行っていた保険医は、入口のドアベルに顔を上げた。そしてルーベンを見ると、片眉をあげて意味ありげに微笑んだ。

「先生、この子の体調がよくないみたいで」

「……そう、分かったわ」

 保険医は手を止めて、イブに着席を促した。とりあえず近くにあったソファにルーベンと並んで座る。

 イブはこんなことで保険医の仕事を中断してしまって申し訳ない気持ちになった。何しろ別に体調は悪くないし、精々頬を擦りむいただけなのだ。手当てするにしたってガーゼが勿体ない。

 保険医は机を離れてイブを診察——することはなかった。

「……え?」

 ソファに座ったイブを一瞥して、そのまま保健室を退出してしまう。他に体調の悪い生徒はおらず、広い保健室に二人が残された。

 するり、とルーベンの腕が腰に回る。

「……ルーベン」

「説明が必要?」

 ルーベンの笑顔は、非常に胡散臭かった。

 本当にルーベンがイブの体調を心配するような優しい生徒なら。ジェイデンのように、カイの暴行を止めて然るべきである。

「君はそういう目的で私を追いかけてきたのか」

「そうだよ。平民出身の奨学生なんて中々出会えない。いち早く手を付けたいじゃないか」

 イブの体は呆気なくソファの上に押し倒された。柔らかな革張りのソファに、押さえつけられた手首が沈む。あまり痛くはなかった。きっと高級なソファだ。 

 ルーベンは先ほどまでと何一つ変わらない笑顔を浮かべていた。豹変したわけではない。暴力的でもなければ、理性を失っているわけでもない。しっかりと本人の意思をもってイブを組み伏せている。

「こう見えて、初めては恋人とがいいタイプなのだけれど」

「俺に関係ある?」

「……無いな」

 目を見てはっきり拒絶したのだが、無意味だった。

 こういうとき、どうすればいいのだっただろうか。イブは頭の中で解決策を模索した。

 押さえつけられた手首はびくともしないし、全力で押し返してもルーベンには余裕が見られる。助けを呼ぶしか、ない。

「……先生!」

 イブは慣れない大声で叫んだ。

「先生! 誰か……!」

 放課後の西校舎に生徒はほとんど残っていなかった。期待は薄い。それでも声をあげる。

「誰かいないか……!」

「分からない子だな。俺はクラブロイヤル——このキルティング校の特権階級だよ」

 しぃ、とルーベンは人差し指を唇に当てた。

 ああそうか。イブはやっと理解した。

 イブの声が誰かに届いていたところで、クラブロイヤルに逆らう人間はいない。生徒教師を含めたこの学校の全ての人間はクラブロイヤルを優先する義務を負う。

 言葉を失ったイブに、ルーベンは微笑みかける。

 さらりと流れた銀の髪が、イブの頬に落ちた——。

「——何をしてらっしゃるの!」

 その時、鋭い声が響いた。鈴を転がしたような、凛としたソプラノだ。

 今のイブにはあの天使のようなエドワードよりも天使に思える。大天使の声だ。

「ああ、面倒くさいのがきた」

 ルーベンが呟くと共に、イブを押さえつけていた手が離れた。すかさず体を起こして大天使の姿を目に納める。

 それは愛らしい巻き髪の女生徒だった。凛々しい立ち姿は淑女のお手本のようだ。

 女生徒は目つきを鋭くした。

「もう一度伺うわ。何をしていらっしゃるの」

「……何もしてないよ、リラ嬢」

 うんざりした顔でルーベンは答えると、流れるようにイブの肩を抱いた。クラブロイヤル、という単語がイブの頭をよぎる。

「だよね、イブ」

「……ああ」

 ルーベンに合わせて頷くしかなかった。行動が読めない以上、事を荒立てるにはリスクが伴う。万が一にでもリラ嬢とやらにとばっちりを食らわせたくない。

 依然としてリラは訝しんでいたが、イブに否定されてはそれ以上追求出来なかった。

 ルーベンはイブの回答に満足して、ふふ、と笑うと耳元に口を寄せた。

「金に困ったらいつでもおいで」

「!」

 リラには聞こえないように囁く。

 最低だ。耳がくすぐったくて、イブは身をよじった。

「じゃあリラ嬢、イブちゃん、ごきげんようまた明日」

 ルーベンは軽薄な口ぶりで立ち上がり、リラとすれ違うようにして保健室を退出した。一つにまとめた銀の髪がさらりとなびいて、やはりきらきらとしていた。

 助かった。

 イブはリラに深く頭を下げた。

「あの、ありがとう」

「……クラブロイヤルには気を付けたほうがよろしいわ」

 リラは同情するような目をしていた。クラブロイヤルを相手に助けてくれた恩人の言葉なので、イブも素直に頷く。

 ——クラブロイヤルを相手に。

 はたと思い至り、イブはリラをまじまじと観察してしまった。小柄な女生徒である。立ち居振る舞いが優美で、間違いなく貴族階級だ。だが、貴族であるならば余計にクラブロイヤルやフライス侯爵家の高貴なる血を熟知しているはずだ。逆らうことが何を意味するのかも。

「どうして君は……」

「リラよ。私がリラ=ジャガードだと言えば納得してくださるかしら」

 ジャガードと聞いて、イブはとっさに徽章を探した。クラブロイヤルはブレザーにヒナギクの徽章を付けているはずだ。

 ジャガード侯爵家といえば、王妹殿下の降嫁相手ではないか。フライス侯爵家とは対等以上である。

 イブの視線に気付いて、リラは苦笑する。

「私、クラブロイヤルじゃないわよ。あの方々、人として最低なんですもの」

 あまりにはっきり言うので、イブは面食らった。なるほどジャガード侯爵家のご令嬢ともなればクラブロイヤルを恐れる必要は無い。

 イブは今日一日されたことを振り返って、リラと同じ結論に至った。

「……うん、そうだな」

 クラブロイヤルの連中は、いい人だとは言い難い。

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クラブロイヤルの狂麗な日々 朝研(早蕨薫) @asalabo0307

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