第20話

〈バイト二十七日目〉

「いらっしゃいませぇっ」

「いらっしゃいませー」

 狭い店内に二つの声が響く。先輩と私はレジカウンターで隣り合う。

 先輩と知り合ってから、もう四ヶ月経つ。


 一月中旬、久し振りの出勤。覚える気の無い新商品が正面から迎える。正月ムードの有無さえ知らないがぱったり大人しい店内。初めて入店した九月のレンズから覗けばその変わり様は確かに思えた。

 前回私は店長に「辞めたい」と伝えた。突然の宣言に態度を改めた店長から「……それは何か理由があるの?」と訊かれたので「受験の準備が忙しくなってきて」高一に似つかわしない口実を発表した。職場の空気が吸い辛いとは口を捌いても言えなかった。

「あぁ、そうなんだ……」少し考え込んだ店長は「ゆずさんがそう言うなら分かった」と食い下がる執念を持ち合わせず認めてくれた。「受験ってまだ早くない?」「もう少し頑張ってくれない?」「ゆずさんまで辞めないで欲しい」あるいは「辞めそうな気がしていたわ」「他の仕事の方が向いているよ」「実はゆずさん来る前の方が売上良かったんだ」と想定していた告白には「最近成績が酷いんです」または「仰る通りだと思います」の答えを用意していた。けれどこの質素な手続きは店長の優柔と私の強情、二つが重なった自然な結果だろう。

 本来はその場でオサラバしたかったけど「この日は出勤出来るよね?」既に入れてしまった一日のシフトは「はい、それは出来ます」辞める人間とは思えない快さで受け入れた。「最後に制服だけロッカーに仕舞ってくれれば良いから」名札の指示は無かったので記念品として持ち帰ることにした。辞めるに当たって辞表は要されず口頭で済んだ。ここで教わったことは全て機密情報、と脅されもしなかったのでいつかエッセーにでもしてやろうかと思った。この惨めな精神を忘れてしまうのは勿体無いから。

「おはようござい、ます」最終日の対面。明けまして、と言おうにも一切めでたい状況ではない。店長としては去年は最悪の年になったのかな。

「あぁおはようー。じゃあ今日も一日宜しく」これまでより丁重さを増して言う。

「宜しく、お願いしますっ」黙り込むのは変だと思って不似合いな溌剌さが出た。けどそれから店長と話すことは無かった。相変わらず裏で万引犯の監視でもするのだろう。彼も結局辞めたのだよね。これ以上この店に来るか分からないけどまた出会えると良いね。

 ローラさんが子供用かパックジュースを二本置いてくる。四ヶ月通して私が自店で商品を買うことは無かった。義務外の交流に腰が引けて。こんなの私だけか?社員側からは薦められない中、気の効かない奴だと思われていただろうか。

 他の人が私が辞めることを知っているかは知らない。「お疲れ様です。では」颯爽と去る姿からして少なくとも彼女の情報網には掛かっていないようだ。それを確かめられる相手もこの場に残る二人に限られる。最近シフトのズレていた何とかさんが知ればどう感じただろう。表面上、と言っても裏表の無い彼女は「サビシイデス……」と心込めて呟いてくれる、のではないか。最後に会いたかった、なんてどの口が言えるの。留学生の彼女の負担が増える、居心地が悪化するとなれば本当にごめんなさい。

 勤務期間が半年に満たない、これは世間の眼にどう映るだろう。あの糞コーチには根性無しと罵倒され店内五十周を命じられそうな案件だ。それならイケるけど。給料については来月十五日に振り込まれたら合計十八万円弱。これと僅かな小遣いを全て漫画及び小説に費やした。その間成績は死んだ鰻のように下がり、虚しい読書体験だけが糧となった。輝かしい数字が印字されていたはずの通帳に想いを馳せる。

「コーヒーミルク取ってくれる?」いつも自主的に話し掛けてくれる伏見さんは、今の所既知の臭いを漂わせはしない。けれど声が明るく思えるのは認知の誤りか。正しいとするなら晴れやかな見送りなのか晴れての解放感なのか。

「これですね」手が触れながら嫌悪は向けられない。着替えの件は不問と考えて良いですか。

「ありがと」最後とは言え事務的なやり取りに尽き、それ以上盛り上がることは無い。結局遊びには誘われなかった。原田さんから何とかさんから富岡ちゃんから池内さんから、何より伏見さんからも具体的には企画されず、同じ写真に収まることさえ無いまま終わった。普通はそうじゃないでしょう。そんな華に塗れた生活、私には似合わないけどさ。

 振り返って私が店に与えたものは何だろう。何も無い。マイナス面にしか寄与してない。これは他のバイト先に移った所で同じ事だろう。今後バイトと受験のストレス過多を選ぶ予定は無いけど。大学生で次の職を選ぶとしたら、配達と書店員はリベンジを果たさないとして飲食、塾講師、イベントスタッフ、リゾート、チラシ配り、治験とか。客の視線で卒倒しかける私に治験は向かないか。あぁ、それこそ漫画喫茶の店員、になったら私みたいな同僚がゴロゴロ集まって、最悪を上塗りしそうだから止めておこう。そう言えば毎度引用する学校の知人、因みに同じ部活のピッチャーだった彼女はいつしかコンビニを辞め、居酒屋で働いていた。その上仲間内から厚い信頼を得ているらしい。私はいつだって人の踏んだ道で躓いている。

「お待たせしました」それも今日で終わるなら良しと反省に蹴りを付けようとした。

「これSサイズ?M頼んだんだけど」だけど事は下手にしか進まない。四ヶ月前から成長しないコーヒー絡みのミス。最後もまた、ミスをした。

「申し訳ありません!今お取り替えしますので!」慌てる姿に伏見さんは口を挟まずただじっと見た。シンク脇に失敗作を置いて、会計金額はSのまま、やり直しはもういいかと思って修正版を渡した。横から突っ込みが来る気配は無い。その後誰からも何も言われなかった。そりゃそうだよね。本当に最後なんだね。

「柏木さん、ここで働いて楽しかった?」

 回復を待ったような時間差で彼女が訊いてきた。お別れ会の企画発表かと思ったのは過度な期待だった。何だ、聞いていたんだ。直接的表現を避けるのは日本人の美徳かい。

「……えぇ、まぁ、そうですね」正直にしか答えられない私は的を射た感動詞で表現する。研修期間までの心情が希望に偏っていたのは事実だ。

「伏見さんは最近どう、ですか?」この場面の質問返しは可笑しいかもしれないけど彼女は真摯に答えてくれた。

「まぁまぁかな」この彼女の放った矢は恐らく私の外側。やっぱり原田さんが辞めたのが大きかったか。

「来月、暮沢さんも辞めちゃうんだよ」

 しかしそれだけでは無かったようで、私の耳にも衝撃の未来が告げられた。弁当コーナーを点検する暮沢さんから嚔が聴こえた。

 どんどん人が消えていく。

 まず原田さんと竹内さんが辞めた。池内さんは辞めようとした。阿久津さんは消失した。何とかさんは私のシフトを避けた。常連の爺さんは来なくなった。私を励ましてくれた客は一人も居ない。そして精神面の支柱を担っていた暮沢さんが店を出る。

「別の店舗に配属されるんだとさ」

「そうなん、ですか」漏れなく私のせいだと思って気の利いた台詞は出なかった。

 やはり私は害悪だ。私はここに居ない方が良かった。店員が減ったのは私のせいだ。客が減ったのは私のせいだ。売上が落ちたのは私のせいだ。皆の表情が陰を帯びたのは私のせいだ。店長が禿げたのは私のせいだ。万引犯が気を起こしたのは私のせいだ。全部全部私のせいだ。私が上手くやれないから、話せないから、呼吸出来ないからこうなった。自意識過剰?それならまだ良かった。だって学校でも塾でも同じだから。せめて私の穴を埋める新人はミスの無いムードメーカーでありますように。この店が息を吹き返すようにとだけ、善心を捧げた。

 廃棄無し。暮沢さんが裏に居ると思えば「これ良かったらどうぞ」最終日の土産としてまた缶コーヒーを貰った。最後まで何一つ用意しなかった手が暖まる。

「今までお世話になりました。ゆずさんのお陰で年末も無事乗り切れました」

「そんな、とんでもないです」お世辞だろうと皮肉だろうとその言葉は身に沁みた。あなたが居なかったら年明け前に辞めていましたよ。伏見さんで二ヶ月分、何とかさんで一ヶ月分耐えたと言った所だ。

「暮沢さんこそ異動されるんですね」

「本部の指示で隣町のお店にですね」その速度に私が影響していませんよね、とは聞けない。異動先ではその人間性に見合った対価が得られるよう願います。

「ゆずさんは学校活動が忙しくなるとの事で、そちらの方に励んでくださいね。応援していますから」

「……有難うございます」終幕まで心の臓から良い人だったと知らされる。そんな彼に見送られながら裏を脱け、伏見さんの前で立ち止まる。

「受験頑張ってね」

 これが彼女の選んだ最後の挨拶。あと一歩踏み出せていれば展開は違ったかもしれないけど、私なんてこんなもんだ。

「……まだ先ですけどね」

 だからこんな言葉しか出ない。私の表現は何て拙いのだろう。四ヶ月経つのに、あんな簡単な四字さえ言えないのはこの体質のせい。意味分からないよね、本当。


 店を出てゲームセンターの脇、伏見さんを遠くから見つめる。

 ねぇ伏見さん。

 あなたは私にとって特別な先輩です。先輩の優しさ、しっとりとした冷たさに見惚れていました。先輩と出会ってから、もう先輩のことしか考えていません。

 先輩はどうですか?

 私のことどう思いますか?

 例えば一年後、三年後、十年後。

 私のことを覚えていてくれますか?

 お店に入ったら迎えてくれますか?

 それまでここで待っていてくれますか?

 そしたら今度こそ、一緒に出掛けませんか?

 いつか再び話せる日を夢見ながら、ここで先輩のこと見守っています。

 バイトを辞めた。


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