リーベルタース

光闇 游

1.ルークス・カリドゥス


 よく晴れ渡った夕暮れ空だ。

 腰かけていたベンチから立ち上がり、黒髪の少年は空を見上げて、そう思考した。

 一つに結った腰まである髪が風に揺れる。切れ長の真紅の瞳には、今は同じ空の色が映っていた。

「アハート」

 おもむろに腕を掲げた彼が呟くように言うと、その声に応えるように空から甲高い鳴き声が返される。程なくして滑空してきたその影は、何度か羽ばたいた後に少年の腕に着地した。

 降りてきたのは一羽の鷹である。艶やかな茶色の羽毛に、頭の一房だけが鮮やかな翡翠色をしている、少年の細腕でも支えられるぐらいの小柄な鷹だった。

 少年は慣れた様子で鷹を見やり、やはり呟くように声を発する。

「帰ろう、アハート。時間だ」

 少年が言う。「アハート」とは、この鷹の名なのだった。アハートは少年の言葉を理解しているのかいないのか、忙しなく首を動かした後、ふいに少年の腕から羽ばたいた。

 いつものアハートならば、そのまま帰路の方角へ我先にと飛んでいくのだが、この日は様子が違った。何か伝えたいことでもあるのか、少年の頭上を旋回してなかなか飛び立とうとしない。

 暫く少年はそれを見ていたが、やがて懐から一本の横笛を取り出した。特に曲を奏でるでもなく、一息吹いて音を鳴らせば、アハートはそれを合図にある方角へと翼を向ける。少年が座っていたベンチの後ろ側にある、小さな森の方角だ。少年も後を追って森へと入り、時々笛を鳴らしてアハートの姿と方角を確認しながら、木々を掻き分けて進む。

「……」

 やがて、それを見つけた。頭上の木の枝に留まり、それを伝えたかったのだと言わんばかりに騒ぎ立てるアハートを見上げ、少年は小さく息を吐く。

 一人の女性である。呼吸はしているようだが意識はなく、柔らかい地面の上に倒れ込んでいる。黒く長い髪と、小柄だが女性らしい身体つきをしているようである。

 少年は暫く思考した。その間にもアハートは枝を揺らして主張している。

「わかった。そうする」

 主張する鷹にそう返事をし、少年は女性に手を貸してその背におぶさった。


×××


(鳥の、声……?)

 ぼんやりと考えながら、彼女はゆっくりと重い瞼を持ち上げた。

 柔らかく差し込む日の光に、爽やかな配色のカーテンが揺れている。それを見つめながら、ようやく彼女はここが見知らぬ部屋だということを認識した。

(何をしていたのだったかしら……私……)

 身を起こして、己を見下ろす。手首や腕、首に包帯が巻かれているが、大きな怪我ではなさそうだ。打ち身特有の鈍い痛みは感じるものの、その他に己の体に変化はなく、彼女は一人、首を傾げる。

 この部屋に至るまでの記憶が、どうやっても思い出せないのだ。軽く混乱しながらも、彼女は頭を働かせる。

(私……そう、屋敷にいて……)

 と、ふいに部屋にノックの音が鳴り響いた。沈みかけていた思考を浮上させて扉を見やると、応える前に扉は開かれた。

「あら、起きていたのですね。ごめんなさい、驚かせちゃったかしら」

 顔を覗かせたのは少女だった。長く伸ばしている金髪が日の光を受けて輝いて見える。清潔な白いワイシャツにゆったりとしたボトムスといった服装で、髪は腰の辺りで纏められている。澄んだ青い瞳は優しげで、思わず身を固くしていた彼女はホッと息を吐いた。少女は手に持っていた水差しをベッド脇のサイドテーブルに置くと、近くから椅子を引いてきて彼女の側に腰かけた。

「まずは自己紹介からさせてもらいますね。私はミスティル。リーベルタースという店を運営している者でして、今貴女がいるこの場所はリーベルタースの事務所兼、私たちの家。ここまではわかります?」

「え……あぁ、はい。わかりました」

「良かった。それで、どうして貴女がここにいるかという話だけれども。昨日の夕方頃、森で貴女が倒れているのを仲間が見つけまして。目を覚ます様子がなかったので、勝手ながらこちらで休んでもらったというわけです」

「はぁ……」

 丁寧な説明は有り難いが、同時に記憶の混乱は大きくなっていく。

 森にいたという記憶も、どういう理由で倒れたのかも、思い出せないのだ。

(森の、中で? いえ、そもそも、森って……?)

 考えるも、違和感ばかりが大きくなっていく。そんな不安感を察したのか、少女、ミスティルは彼女の顔を覗き込む。

「何か思い出せそうですか? せめてお名前だけでも」

 言われて、まだ彼女は名乗っていないことに気付く。

 気付いたが……すぐに応えることはできなかった。

 目が覚めてからようやく、今更になって、彼女は自覚してサッと顔を青ざめさせた。

「わ……わからないのです」

「わからない?」

「私の、名前……私のこと……全部、思い出せないのです」

 いくら探っても、記憶の全てに靄が掛かっていた。確証が持てず、自信が持てず、不安ばかりが大きくなっていく。

 対するミスティルはというと、一瞬呆気に取られたようだがすぐに行動を開始していた。立ち上がって部屋の窓を開くと、唐突に声を発する。

「フォーゲル! フォーゲル、こっち!」

 何事かとミスティルを見たが、少女は尚も呼び続ける。

 どうやら上の方に誰かいるらしい。窓から少し身を乗り出しつつ、上を見上げている。

「悪いけれど、レオウを呼んできてくれる? ……そう、目を覚ましたの……うん、お願いね」

 少女の声だけしか聞こえなかったが、交渉はできたようだ。間もなく天井から物音が聞こえ、次いですぐに部屋の前を横切る軽い足音を聞いた。その音を聞きながら、ミスティルは彼女を振り向く。

「うちには医学に心得がある仲間がいるの。心得と言ってもちょっとだけなのだけれど。レオウという名前よ。すぐ来ると思うから、少し待ってくださいね」

 少女の笑顔に、思わず頷いて返す。ミスティルは再びベッドの側へと戻ってくると、こちらが尋ねる前に答えてくれた。

「さっきのフォーゲルというのが、貴女を見つけた仲間の名前。後で会わせますね。だから心配しないで」

 気を遣ってくれているのだ、とすぐに気付く。確かに少女の笑顔は心が落ち着くようだ。そうしている間に、本当にすぐに扉がノックされた。

「失礼いたします。御嬢、お呼びですかな」

 入ってきたのは、屈強な体躯だが少女と同じ優しげな青灰色の瞳を持った男だった。白髪混じりの灰色の髪を短く纏め、フレームが細い眼鏡をし、顎に髭を蓄えている男性である。丁寧な態度で一礼し、ベッドに座る彼女を見て眼鏡の奥にある目元を緩ませた。

「目を覚ましたと聞いて安心しましたぞ。私はレオウ・レントゥスと申します。して、私が呼ばれたということは、何か問題でも起こりましたかな?」

 現状をすぐさま察した様子で、男――レオウはミスティルを見やる。少女は軽く頷いてから、ごく簡単に説明した。

「こちらの彼女、昔のことが思い出せないみたいなの」

「おや、それは難儀な。もしや名前も思い出せないのですかな?」

 尋ねられて、おずおずと彼女は頷く。

 レオウは顎髭に手をやり、少し考えてから口を開いた。

「所々打ち身があったものの、目立った怪我はありませぬし、目が覚めたばかりで少々混乱しているだけかもしれませぬぞ。まだご自身の状況も把握しきれていないことでしょうし……御嬢、どうでしょう。先に朝食に致しませぬか。心が落ち着けば、自然と思い出すかもしれませぬぞ」

 ニッとレオウが愛嬌のある笑みを見せる。ミスティルはその提案に乗った様子で彼女へと顔を向けた。

「それもそうかも。私たちもこれからだし、良ければご一緒しませんか?」

 少女からも笑顔を向けられては、断ることはできない。流れに乗せられたままに頷けば、二人とも安堵したようだ。早速レオウは先に朝食の準備に向かい、ミスティルはあらかじめ用意していたのか棚から服を持ってきた。

「よければ着替えに使ってくださいな。サイズが合えばいいけれど」



 寝かされていた部屋は建物の二階にあり、どうやら二階はそれぞれの私室が並んでいるようだった。また、廊下の突き当たりには梯子が掛けられており、そこを登れば屋根裏部屋があるという。

 その屋根裏部屋の方角から、微かに鳥の鳴き声が聞こえていた。思わず立ち止まって耳を澄ませていれば、様子に気付いたミスティルから説明を受けた。

「屋根裏部屋はフォーゲルとアハートの部屋なの。今鳴いているのはアハートの声ね」

「アハート?」

「彼の友達の名前。これぐらいの小さな鷹で、ヒスイコタカという種の鳥で……私は詳しくないのだけれど、珍しい鳥なのだそうよ」

 そう言いながらミスティルは手を動かして大きさを示す。肩に留まれそうなほどに小さい鳥のようだ。彼女はもう一度天井の方へと目を向けた。

「あまり、聞き慣れない鳴き声ですね……」

「そう? なら、貴女はこの辺りの人ではないのかしら。貴方が倒れていた森にしか生息しない鳥なのですって」

 こっちよ、とミスティルが手招きをする。建物の一階はリビングと来訪者用の応対室を兼ねているようで、空間を仕切る壁は取り払われていて広々とした空間になっている。玄関から入ってすぐのところに来客用のソファーと机が置かれており、その奥のカウンターを挟んでキッチンスペースと食事をするためのテーブルや椅子。更に奥に続く廊下の先にはもう一室、ミスティルの執務室があるという。それら一通りの説明をした後に、ミスティルはテーブルを拭いている人物に声をかけた。

「フォーゲル、ちょっとこっちに来て」

 その名は確か自分を見つけてくれた人の名だったはずだ、と彼女はその人物を見る。そして名を呼ばれて振り返ったその姿を見て、思わず息を呑んだ。

 綺麗な人だ、とまず思考した。存在感は薄いのに、一度視界に入ると目が離せなくなりそうな、不思議な魅力があった。年は若く、おそらく性別としては少年なのだろう。乱雑に腰元まで伸ばされた黒髪を髪紐で一つに結っており、性別の割には細すぎるぐらいに華奢な身体つきをしている。

 そしてその両の目には、紅いガラス玉が嵌め込まれているかのように、透き通った深紅の瞳があり。

 そこからは感情が読み取れず、故に綺麗で、余計に不安にさせられて。

 どことなく……恐ろしい。

「彼がフォーゲル。フォーゲル・フライハイト、ね。ほらフォーゲル、ご挨拶!」

 ミスティルが促すが、少年――フォーゲルは口を開こうとはしない。ただ小さく頭を下げただけで、すぐに背を向けてしまう。彼女の隣でミスティルが「んー、やっぱり駄目ねぇ」と呟いた。

「ごめんなさい、彼は喋るのが苦手なの。あまり気にしないで。準備の方は二人に任せて、先に席に着いちゃいましょう」

 そう言い終わるや否や、ミスティルは彼女の手を引いてテーブルへと案内する。椅子を引かれて進められるままに着席すれば、タイミングを計ったようにレオウが朝食を運んでくる。そうやって食事は実に和やかに始まった。

 聞けば、食事はいつも三人揃ってとるのだという。容姿から察するに三人とも血縁者ではないのだろうが、こっそりと家族のようだと思考する。

「そういえば、ミスティルさんは店を営んでいると言っていましたが……」

 彼女の問いに、少女は簡潔に答える。

「リーベルタースっていう事務所を構えていて、簡単にいえば、何でも屋ね」

 そうは言われてもすぐにはわからない。少女の説明を受け継ぐように、レオウが補足する。

「人探しや物探し、要人の護衛や、ボランティア……まぁ、そういった種々多様な依頼を受けて活動しているということですな。依頼人の頼み事を解決する手助けをし、無事解決すれば内容に見合った報酬を頂く。と、そういった仕事を生業としておるのです」

「とは言え、三人だけだから、やれることは限られてきちゃうのだけれど。今のところは目下、貴女のことね」

 ミスティルが顔を覗き込むように身を乗り出してくる。

「連れ帰ったのはフォーゲルだから、目が覚めたら責任をもってご自宅までお送りしようと思っていたのだけれど……どう? 何か思い出せそう?」

「あ……えっと……」

 食事の手を止めて、彼女は俯く。確かに食事をすることでぼんやりと宙を漂っていた思考力が戻ってきたようには感じる。だが、記憶は相変わらず靄が掛かった状態ではっきりと思い浮かべることができず、確信を持つことが出来ない。

 屋敷にいたのだと、それだけは思い出せる。暖かな光が窓から差し込んでいて、手足が冷たくて。

 ……手足が冷たい? なぜ?

「……ルークス」

 自然と口から言葉が漏れていた。その言葉が自分から発せられたのだと一瞬遅れて自覚し、ハッとなって自分を見ている少女へと顔を向ける。

「ルークス?」

「えっと……名前、だと思います」

「貴女の名前? なんだか……あぁ、いえ、じゃぁルークスさんと呼んでもいいかしら」

 首を傾げられて、彼女は小さく頷いた。

 けれどそれ以外のことはすぐに思い出すことは叶わなかった。頭の中がぐるぐると掻き回されるような感覚がして集中が出来ないのだ。もちろん、自分がどこから来てどこに住んでいたのかも今すぐには答えることができず、彼女――ルークスは申し訳なく眉を下げる。

 自分のことなのに、どうしてこんなにもわからないのだろう。

 ルークスのそんな弱音を受け、ミスティルは腕を組んだ。

「んー、そうねぇ……じゃぁ、こうしたらどうかしら」

 席を立って、少女はルークスの隣に立つ。そして彼女の手を取ると、にこりと笑った。

「ルークスさんの記憶を思い出す手助けを、依頼として私たちリーベルタースに任せてはくれないかしら? こう見えて情報収集は得意分野なの。時間は多少かかってしまうかもだけれど、貴女が誰だったのかを突き止めて、ちゃんとご自宅まで送り届けてあげますよ」

「え……い、いいのですか? でも私、思い出したところで、お金を支払えるかどうか……」

「報酬なら、そうね。依頼を受けている間、レオウの手伝いをして頂けないかしら。恥ずかしい話なのだけれど、うちでまともに家事仕事ができるのがレオウしかいなくって。私も練習はしているのだけれど、どうにも料理の腕がね」

 つまり家事仕事を任せたいということらしい。唐突な申し出に戸惑いながらも、自分にできるだろうかと思考してみる。以前の自分が何をしていたのかは思い出せないが、不思議とそれならばできるような気がしてきた。実際にやってみないとわからないが、と前置きをつけることにして彼女は頷いた。

「お願いできるのでしたら……」

「それじゃぁ契約成立ね。貴女のこと、調べさせてもらいます。情報が集まるまではあの部屋を使って下さいな。レオウとフォーゲルもそれでいいわね?」

「御嬢がそう決断されたのでしたら、私共は構いませぬぞ」

 レオウが快諾し、隣に座るフォーゲルも小さく頷いて了承を示す。

 と、少年の紅い瞳がルークスに向けられた。思わずビクリと肩を震わせたが、フォーゲルは口を開くことはない。ただ暫く見つめた後、首を横に振った。

 どういう意味だろう。おずおずとミスティルを見れば、少女も不思議に思ったらしくフォーゲルに問いかけた。

「どうしたの、フォーゲル。何かあるの? ……わからないの? そう、じゃぁ何かわかったら教えてくれる?」

 少年は一言も言葉を発していなかったが、ミスティルはわかるらしい。最後にフォーゲルが頷くのを見て、話を早々に切り上げたのだった。

×××


 この時より、記憶喪失中のルークスと、記憶を捜索するミスティル達による奇妙な共同生活が始まった。

 最初にミスティルが言っていた通り、家事仕事はレオウがほとんどを担っているらしい。一度ルークスの側でミスティルが包丁を手に取ったことがあったが、あまりに危なっかしい手つきで見ている側がヒヤヒヤする程であった。その代わりに、情報収集については少女が中心となってテキパキと動き回っていた。多方面に聞き込みをしているようで出かけたと思えば大量の資料を持ち帰り、執務室でそれらをレオウと共に整理している姿がよく目についた。

 一方でフォーゲルはというと、どうやら彼は自発的には行動ができない様子だった。レオウやミスティルに言われればその通りに……むしろやり過ぎるぐらいに完璧にやり遂げるのだが、それ以上の行動をしようとはせず、次の指示を都度待つのである。

 その様子はまるで、機械仕掛けの人形のようだ。

「あやつは、少々特殊な出自でしてな」

 気にするルークスを見かねたのか、共同生活も三日目になった頃にレオウがそう切り出した。

「申してしまえば、フォーゲルは元々奴隷としてあちらこちらを転々と人身売買されていたようでしてな。全てを問い質したわけではありませぬ故、私も御嬢も詳細までは知らぬのですが、まぁ、酷い扱いを受けていたのでしょう。フォーゲルを迎え入れてかれこれ一年程が経ちますが、未だにあやつの笑顔を見たことはありませぬ」

「……もしかして、私に口を利いてくれないのはそのせいなのでしょうか?」

「いやいや、そうではないですぞ。私もあやつの声は滅多に聞きませぬし、ただフォーゲルは口よりも目で語るところがありましてな。しかし、そうですなぁ」

 その時、タイミング良くフォーゲルが階段を降りてきた。キッチンまでやってくると、じっとレオウを見上げる。レオウは苦笑いを浮かべた。

「アハートの散歩だな。御嬢には伝えておこう……そうそうフォーゲル、少し良いか?」

 ルークスが見守る中、レオウは少し腰を屈めてフォーゲルと視線を同じにする。

「おぬしはもう少し、言葉を喋るようにした方が良かろう。私と御嬢は目を見ればおぬしが言いたいことが大体わかるとはいえ、今はルークス殿もおることだ。返事だけでも良いから言葉で返すようにしないだろうか? それに声を出すというのも、リハビリの一環になろう」

 そんなレオウの言葉をじっと聞き終え、少年はルークスを見やる。思わず身を固めたが、一瞬だけですぐに視線をレオウに戻して頷き……暫し間を開けてから口を開いた。

「わかった」

 たった一言だけだったが、ルークスにとってはようやく耳にした少年の声だった。華奢で一見少女にも見間違える外見とは裏腹に、変声期を過ぎた少年らしい声である。

 よしよし、と満足そうにレオウが頷いて少年の頭を大きな手でわしゃりと撫でた。

「おっと、アハートの散歩であったな。引き留めてすまなんだ。暗くなる前には帰るのだぞ」

「行って、くる」

 返事はするが、その言葉はどことなく拙い。ミスティルが「喋るのが苦手」だと言っていたのを思い出す。そのまま背を向けて外へと出かける後ろ姿を見送りながら、レオウは言った。

「いやはや、どうにも私はあやつを甘やかしてしまうようでしてな。しかし、それではいけませぬ。ルークス殿、あやつで何か困ったことがあれば、遠慮なく言ってくだされ」

「あ……えっと、ありがとうございます」

 咄嗟に頭を下げたが、その内では別のことを思考していた。

 きっと声を聞く機会は増えるだろうが、現状は変わらないだろう、と。

(フォーゲルさんは目で語るというけれど……)

 ルークスとしては、その為に少年の目を見るのが酷く恐ろしいことのように感じるのだ。

 他の二人の喜怒哀楽がはっきりとしている分、余計に少年の無表情が目立ってみえるからなのか。それとも少年の近付き難い雰囲気が苦手に感じてしまうのか。

 否、おそらく初対面の時に見た、あのガラス細工のような紅い瞳がどうにも苦手なのだ。

 純粋過ぎて濁りがなく、そのまま自分の深層まで見抜かれてしまっているかのような。

(見抜かれる? 何を? 別に悪いことなんてしていないのに……)

 ふいに眩暈を感じて、側の壁に手をつく。すぐに眩暈は治まったが、驚いた様子でレオウが肩を支えてくれた。

「ルークス殿、如何された」

「少し、眩暈が……いえ、もう大丈夫です」

「顔色が悪く見えますぞ。少し休まれてはどうですかな」

 大丈夫だとは言いたかったが、事実この三日間、妙に体がだるくて仕方がない。ミスティルに家事手伝いを条件に出されている以上、体を動かしていたかったのだが。

「ご無理は体に障りますぞ。ルークス殿は依頼人でもある故、倒れてしまわれると我々の顔も立ちませぬよ。今日はもうゆっくり休まれてくだされ」

 そうまで言われると、無理することができない。有り難く休むことにし、二階の借り部屋へと戻ることにする。

(本当にどうしてしまったのかしら、私)

 記憶は相変わらず靄が掛かっているし、体調も良くならない。時間が経てばその内治るのだろうかと期待していたのだが、どうやらそうでもないようだ。不安だけが大きくなっていく。

 部屋に戻ってベッドに腰掛け、彼女は思考する。これでは駄目だ。どうにかしなければ。

 その時ふいに思い至った。果たして、自分はかつてどうであったのか。こんなにぼんやりと日々を過ごすような人であったのだろうか。ルークスという人物は。

(違う気がする。そこを思い出せば、この不安な気持ちもなくなるのかしら)



 それからさらに数日が経ち、気付けばリーベルタースで世話になり始めて一週間が経とうとしていた。

 その頃にもなればルークスも家事仕事を一通り覚え切り、一人でも任してもらえるようになっていた。暫くは付きっきりで仕事を教えてくれていたレオウも安心した様子で、二日前よりミスティルと共に外へ情報収集に出かけている。ミスティル一人でも十分な働きではあったが、やはり二人の方が効率がいいのか、日に日に持ち帰る資料の数が増えているのが素人目でもよくわかった。

 ただ、一週間が経ってもフォーゲルという少年への苦手意識を、彼女はどうしても払拭できなかった。簡単な挨拶ぐらいは交わせるようにはなったが、やはり顔を見れない。正確には、少年の瞳を。

 そんなフォーゲルは、ミスティルとレオウの仕事にはあまり関わらないようだった。二人も彼に対して仕事を教えている最中であるらしく、彼にどう動いてもらうか悩んでいるようだ。何にしろ、少年自身はこれといった行動をするわけでなく、時々二人から小さな用事を受ける以外は屋根裏部屋に引きこもるかアハートの散歩に出かけるか、そのどちらかしか自発的には行動を起こさないようだった。


 そんな日々が続いたある日のことだった。慌ただしく、出かけていたはずのミスティルが玄関の扉を開けて戻ってきた。

 何事かとキッチンから顔を出すと、少女の後ろから一人の女性が入ってくる。質の良さそうなドレスを着ているところから、貴族の婦人のようだ。その婦人を執務室へ案内しながら、ミスティルはルークスを見つけて声をかけてきた。

「ルークスさん、執務室に紅茶を二つお願いできる?」

「あ、はい、わかりました」

 咄嗟に返事をすると、ニコリと笑って少女も執務室に入ってしまう。慌てて紅茶の準備をし始めていると、間を空けず今度はレオウが帰ってきた。

「すみませぬな、ルークス殿。そのままお任せしても宜しいですかな」

「それは大丈夫ですが、えっと……」

「あの御婦人のことですかな? フィークス婦人は我らリーベルタースに支出をして下さっている、所謂スポンサーにあたる方ですな。あぁいやいや、そんなに構えなくても宜しいですぞ。スポンサーと言っても、私と御嬢の古くからの知人でもあります故、世間話が主体になっていることでしょうからな」

 そう聞かされると慌てない方が無理である。

 急ぎ紅茶を淹れておそるおそる執務室へと向かったルークスだったが、中の二人はレオウの言っていた通り、実に和やかな雰囲気であった。内心ホッとしながらテーブルに紅茶が入ったティーカップを出していると、婦人と目が合った。

「貴女がルークスさん? ティルちゃんから話は伺ったわ」

 ティルちゃん? とミスティルに視線をやれば、少女はニコリと笑う。どうやら少女の愛称のようだった。婦人はミスティル伝手に自分のことを聞き知っているようで、興味津々といった様子でこちらを見つめてくる。

「あのフォーゲル君が見つけて連れて帰ってきた、という話にはびっくりしちゃったけれど……そうそう。実はここに来る前にフォーゲル君を見かけて声をかけてみたら、珍しくあの子からも会話を続けてくれたのよ」

 ご婦人は嬉しそうに笑う。察するに、フォーゲルは婦人にも無口無表情で通していたのだろう。そんな婦人の言葉にはミスティルも驚いたように食いついた。

「フォーゲルが、ですか?」

「えぇ。息子の様子とかを聞いてくれたわ。妊娠していた時はフォーゲル君にも随分お世話になったし、あの子なりに気にかけてくれていたのかしら」

「あぁ、そういえば彼、赤子を見たのは初めてだと言っていましたよ」

「あらそうなの。だったらまた今度、息子を連れて遊びに来させてね。息子もフォーゲル君の笛を聴いたら喜ぶだろうし」

 どうやら二人にとって少年は格好の話題の種のようだ。楽しげな雰囲気にルークスも小さく笑みを浮かべながら、部屋を後にしようとする。

 と、ふいに婦人が何かに気付いたようにルークスを見上げた。

「そういえば、貴女……」

「? な、なんでしょう……?」

 まさか引き留められるとは思ってもなく、たじろいでしまう。

 が、婦人は頬に手を当てて小さく首を傾げるのみ。

「気のせいかしら……ううん、もしかしたらフォーゲル君、彼なりに仕事のつもりだったのかもしれないわね」

「どういうことです?」

 問い返したのはミスティルだ。婦人は愛嬌のある笑みを見せた。

「フォーゲル君自身に聞いてみた方がいいわ。ティルちゃん、彼も、もう立派なリーベルタースの一員になっているのかもしれないわよ」



 そのフォーゲルだが、この日は珍しく帰りが遅かった。もうすぐ夕食の時間だという頃合いになって、ミスティルが執務室から顔を出した。

「レオウ、ルークスさん。フォーゲルはまだ?」

「まだですぞ、御嬢。今日は良い天気でした故、アハートが飛び回っているのやもしれませぬな」

「聞きたいことがある日に限ってこれなんだから、もう……とはいえ、私ももう少し書類の整理をしておきたいところなのよねぇ」

 僅かに考える素振りを見せるミスティルだったが、すぐにニコリと笑った。なんだか嫌な予感を察したルークスだったが、その予感は的中する。

「ルークスさん、ちょっとフォーゲルを探してきてもらえる? 事務所を出てすぐのところにある広場にいると思うの」

「えぇ? で、でも……」

「大丈夫。たぶん笛を吹いているだろうから、すぐにわかると思うわ。それに彼だってコツさえ掴んだら可愛いところもあるんだから」

 言っている間に、事務所から追い出されてしまっていた。ミスティルは悪戯っけな笑顔で道を指差した。

「そっちに真っ直ぐ行ったところよ。宜しくね」

「は、はぁ……」

 良い笑顔で見送られてしまい、渋々とルークスは事務所を後にする。実はここに来てから、ちゃんと外に出るのは初めてでもあるのだ。体調不良が続いていたのもあるが、この一週間ずっと事務所に引きこもっていたのだと改めて実感する。

 街の風景はやはりと言うべきか、目に馴染みが無く、本当にこの方角でいいのかと頭の隅でミスティルを疑ってしまう。が、すぐに前方に開けた場所が現れた。

 どうやら小さな広場になっているらしい。中央には小規模ながら綺麗な水が流れる噴水があり、丁寧に手入れされている花壇がその周りをぐるりと囲っている。そして広場の奥側は木々が生い茂り、この時間帯は薄暗くなっている。

 ミスティルが言っていた場所はここの事だろう。見渡していれば、夕焼け空に澄み切った音色が聞こえてくることに気付く。

(笛を吹いているはず、だったから……)

 音を頼りに歩けば、広場の中央にある噴水の側のベンチに長い黒髪が風に揺れているのを確認する。

 フォーゲルで間違いなかった。吹いているのは横笛のようで、一心に吹いている様子に近づいて声を掛けようかどうか躊躇っていると、唐突に少年は演奏をやめて顔を上げた。

 まさかルークスが来るとは思っていなかったのだろう。依然として無表情だが、口から横笛を離した状態のまま、少年は小首を傾げる。ルークスは途端に緊張しつつ、口を開いた。

「えっと……そろそろ夕食の時間なので……」

 なんとかそう伝えれば、フォーゲルは納得した様子で頷いた。

「アハート」

 おもむろにフォーゲルが呟いて、片腕を宙に掲げる。え、と聞き返す間も無く、真上から何かが飛んでくる羽ばたきの音が聞こえてきた。

「きゃ……っ」

 驚いて声を上げたが、その何かはルークスを通り過ぎてフォーゲルの腕に騒がしく止まる。

 一羽の鷹だった。猛禽類特有の鋭い嘴に、勇ましい顔付きをしている。頭には一房の鮮やかな翡翠色の羽根を有していた。

「アハート」

「え?」

 フォーゲルがこちらを向いている。一瞬遅れて、その鷹を紹介してくれたのだと気が付いた。

「あ、あぁ……ミスティルさんから伺っています。じゃぁ、そちらがアハートさん?」

「アハートが、最初に見つけた」

「見つけた?」

 聞けば、フォーゲルは己の背後を指差す。その方向にあるのは、どうやら森のようだ。そういえば自分は最初、森で倒れていたのだったか、とにわかに思い出す。

「アハートさんが先に見つけて、フィーゲルさんに知らせてくれた……ということでしょうか」

 少年は頷いてみせる。そういうことで間違いないようだ。

 その時になってようやく、自分を見つけて連れて帰ってくれたというフォーゲル自身に何も礼を言っていないことを思い出す。苦手意識が先行してしまい、ずっと言い出す機会を失くしていたのだ。ここぞとばかりにルークスは一人と一羽に向かって頭を下げる。

「あの、お礼が遅くなってしまいましたが、助けてくれてありがとうございます。私……」

「気にしない」

 首を横に振って、フォーゲルは言う。同時に彼の腕に止まったままの鷹も一声鳴いた。いつも天井から聞こえてくるあの鳴き声である。

「アハートも、気にしないって」

「そ、そうですか……」

 まるで鷹の言葉がわかるかのような物言いだ。当の鷹――アハートは、少年の腕の上で何度か鳴いた後、翼を大きく広げて飛び立った。

「先に帰る、って」

「はぁ……」

 やはり言葉がわかるのか。呆気にとられながらも、事務所がある方角へと一直線に飛んでいくアハートの姿を見送る。

「ルークス」

 と、ふいに少年から名を呼ばれた。この一週間で初めてのことである。驚きながらも振り返れば、フォーゲルはじっとこちらを見つめていた。

 紅いガラス細工のような瞳に、自分の姿が映り込んでいる。

「気になること、二つ」

「ふたつ……?」

「ルークス、でいいのか」

 どういうことなのか。何を言われているのかわからず、思わず怪訝な顔をしてしまう。

 少年は更に言葉を口にする。

「ルークスに、なりたいのか」

「どういう……」

「名前、が」

 そこで一度、少年は口を閉じる。

 自分でも言葉が足りないと思ったのかもしれない。僅かに目を細めながら、再び口を開いた。


「名前が、違う。ルークスでは、ないんじゃないか。ルークスに、なりたい、のか?」


 彼の言葉を理解した瞬間、まるで頭から水を被ったように全身から血の気が引いていくのを感じた。

 目が覚める思いで、思考する間もなく、思い出した。

(そうだ、ルークス……ルークス様、は……もう……)

 気付けば涙が溢れ出していた。急激な眩暈を感じて足がふらついたところに、少年がそっと肩を支えてくれる。

「ごめん。でも、名前は、大切だから」

 少年が言う。

 首を横に振って、それでも涙は止まることなく、その場に膝をついて彼女は泣いた。


×××


「ルークスさん、大丈夫なの?」

 ゆっくりと階段を降りてくる彼女を見て、ミスティルが心配そうに駆け寄る。

 彼女は泣き腫らした目をしていたが、少女に向かって小さく微笑んでみせた。

「いろいろを思い出したので、頭の整理が必要だったんです。今はもう大丈夫。落ち着きました」

「! 良かったぁ……まさかそうなるとは思ってもみなくって。体調が悪化しないか心配だったの」

 心底ホッとした様子でミスティルは胸を撫で下ろした。

 一階を見渡せば、レオウとフォーゲルも集まっているようだった。皆一様に彼女を気にかけていたらしく、レオウはもちろんのこと、部屋の隅にいるフォーゲルすら小さく息を吐いて安堵するのが見えた。そんな彼らを代表して、ミスティルが心配そうながらも彼女へと問いかけた。

「ルークスさん。無理強いはしたくないのだけれど、今、話せそう?」

「はい、大丈夫です。むしろ聞いてください。私も、話しながら改めて整理したいので」




「フォーゲルからある程度は聞いたわ。それで改めて尋ねるのだけれど、ルークスという名前は貴女の名前ではないのね?」

 テーブルを囲んで全員が席に着いたところで、ミスティルが切り出した。テーブルの上には大量の書類が運ばれており、聞けばこの一週間でミスティルとレオウが活動した成果であるという。その量に内心驚きながら、彼女は頷いた。

「先に言ってしまいますと、まだ全部を思い出せたわけではないのです。落ち着いて思い出したことを振り返ってみたのですけれど、まだ記憶が途切れ途切れになっているというか……なので、私の名前が『ルークス』ではないことは、思い出せたのですが……」

「御自身の本当の名前はまだ思い出せない、ということですかな?」

 言い淀んだ彼女の言葉を引き継ぐように、レオウが尋ねる。

 彼女は苦笑いで肯定した。

「お恥ずかしながら、その通りです。あまり良い名ではなかったのかも……思い出したというのは、私のご主人様のことです」

 そっと目を伏せて、記憶の糸を手繰り寄せる。

 脳裏に浮かんだのは、自身へと向けられた優しい眼差しだ。

 ミスティルが促すように問いかける。

「そのご主人様の名前が、『ルークス』?」

「ルークス様と、お呼びしていました。男の方です。今思えば、私は男性の名前で名乗っていたのですね」

 どうして自分で違和感を持たなかったのだろうか、と彼女は自身に疑問を持つ。それにはミスティルも気にかけていたらしく、身を乗り出した。

「実は私も最初に名前を聞いた時、男性の名前のようだとは思っていたの。失礼になるかもと思って言えなかったのだけれどね。でもどうにも気になって、調べてみたのだけれど」

 少女はテーブルに広がる書類の中から一枚だけ引き抜き、彼女に差し出す。

 そこには一人の男性の顔写真が載せられており、彼女は思わず声を上げた。

「そう、この方です!」

「調べておいて損ではなかった、というわけね。名前はルークス・カリドゥス。ここから随分離れたところの街に住んでいる貴族なのだけれど、カリドゥス家といえばその筋の商人にはそれなりに名が通っているみたい。ルークス氏は、そのカリドゥス家の次男にあたるわ」

 次いで、ミスティルは大きな地図を書類の上に広げる。彼女に見えるように地図の一箇所を指差した。

「ここが、今私たちがいる街。そしてここが最初に貴女が倒れていた森ね。その直線上を辿って……ここ。この街が、カリドゥス家がいる貴族街。それから……」

 今度は別の書類を出してくる。また男性の顔写真が載せられているが、ルークス氏とは別の男性のようだ。

「ルークス氏にはお兄さんがいるのだけれど、現在のご当主はご兄弟のどちらに跡を継がせるか悩んでいらっしゃったみたいね。というのも、兄弟仲は周囲から見てもわかるぐらいに悪いそうよ。おまけにお兄さんの方は悪い噂が飛び交う程の過激派。この辺りから推測して、貴女はこの兄弟の相続問題に、何かしら巻き込まれてしまったのではないかしら」

 ミスティルは腕を組み、椅子の背に身を預ける。

「そのルークス氏なのだけれど、一週間前から今現在まで行方がわかっていないらしいの。フォーゲルが貴女を見つけたのも一週間前だから……」

「ルークス様は……もういらっしゃいません」

 考えるミスティルの言葉を遮って、彼女は言う。

 その場の全員が彼女を見た。彼女は、目を伏せて言葉を口にする。

「私とルークス様は馬車に乗っていました……ルークス様が、私をどこかに連れて行きたかったようなのです。私は目的地を聞かされてはいませんでしたが……そう、それで、突然馬車に何かが、ぶつかってきて」

 大きく揺れた車内と、馬が驚く鳴き声と、前に座っている彼の緊迫した表情。鮮明に思い出し、彼女の肩は震える。

 もしや、と口を開いたのはレオウだった。

「ぶつかったとなると、馬車が転倒したのでは。では、ルークス氏がもういらっしゃらないというのは」

「ルークス様……ルークス様は、私を庇われて……馬車の下敷きに……」

 それ以上は声が続かなかった。やっと止まったと思っていた涙が再び溢れ出し、慌てて彼女は袖で目元を拭う。と、いつの間に立ち上がっていたのか、ミスティルがそっと抱きしめてくれた。

「悲しい記憶だったのね。ごめんなさい」

「っ、……いいえ、大丈夫、です……っ」

 気丈に振る舞うつもりだったのだが、涙はすぐには止まらない。己よりも年若い少女に抱きしめてもらって少し気恥ずかしく感じながらも、彼女は言葉を続けた。

「転倒した馬車から、なんとか抜け出して……すぐには、現状が理解できませんでした。ただ、ルークス様は最後に私に逃げるように申し付けて……息をお引き取りになりました」


 ――■■■、早く逃げなさい。

 ――君さえ生きてくれたのなら、私は……


 それは最期に聞いた、あの方の言葉だった。目の前で冷たくなっていくあの方に、理解が追いつかず、後ろ髪を引かれながら、けれども彼女はその場を後にした。

 生き延びることが、あの方の最後の願いだったからだ。

「ルークス氏はこの街に向かっておられたのかもしれませぬな」

 じっと地図を見つめ、レオウが口を開く。森から少し離れた道を指差した。

「どういう状態で転倒されたかにもよりますが、この辺りは道が悪く野獣も多い為に、街からの整備も追いつかない状態だったはずですぞ。よっぽどの急ぎでなければ、馬車は避ける道であるはず。ですが此処、ウィータの街は、周辺の地域の中で医学が特に発展しているところでしてな。もしも何かしらの治療を目的にこの街を訪るつもりであったのならば、あるいは……」

「治療……?」

 自身の体調不良を考えると、にわかに不安になってくる。思い出せない記憶の中で自分は何か病気でもしていたのだろうかと思うと、途端に心配でじわりと手のひらに嫌な汗が浮かんだ。察したミスティルが慌てて首を横に振る。

「でも、見たところ大きな怪我をしていたわけでもないし……」

「違う」

 ふいに、それまで黙っていたフォーゲルが声を発した。やけにはっきりとした言葉だった為に、ミスティルが言葉を途切れさせて少年を見る。

 と、唐突に彼女は思い出した。

「そういえばフォーゲルさん、確か私について気になることが二つあるって、言っていましたよね」

 尋ねれば、少年は頷く。

 彼女とミスティルは顔を見合わせた。

「フォーゲル、話してくれる?」

 ミスティルが促す。少年はまた言葉を探しながら口を開いた。

「婦人と、一緒」

「婦人? えーと……フィークス婦人のこと?」

 少年は二度頷く。ちょうど今日やって来たあのご婦人のことを言っているらしい。ただ、それだけではわからない。次の少年の言葉を待つと、少年は途切れ途切れに単語を並べだした。


「婦人」

「病院」

「子供」


 真っ先に理解したのはレオウだった。

「……おぉ! そういうことですかな?」

 少し遅れてミスティルもわかったらしい。驚いた様子で少年と彼女を見比べた。

「え、えぇ? あ、そう、フィークス婦人に質問してた内容って、そういう?」

 ただ一人わかっていない彼女が、回答を求めてミスティルとレオウに視線を向ける。

 それに応えたのはミスティルだったが、少女自身まだ半信半疑の状態で、困惑した表情のままで回答を口にした。

「あのね、落ち着いて聞いて欲しいんだけど……いえ、私も落ち着けていないのだけど……フォーゲルは、貴女が妊娠しているのではないか、って言ってるの」


×××


 翌日になって、フォーゲルが気にしていたことは見事的中していたことが判明した。

 妊娠してもうすぐ二ヶ月になることがわかったのだ。

「幸いにも胎児に異常はナシ。体のだるさや眩暈ってぇのは、つまり妊娠の症状なんだな。本人が忘れちまっている状態で自覚がなかったのは仕方ない所もあるがなぁ。そういうことならもっと早めに連れてきて欲しかったところだぜ、所長さんよ」

 そう言ったのは、彼女を受診した医者の男だった。リーベルタース全員でお世話になっている医者のようでもある。所長と呼ばれたミスティルは苦笑いを浮かべた。

「次回からの教訓にしますよ、アルム先生。フォーゲルが気付いてくれて良かったというべきか……でも、先に一言だけでもいいから私に知らせて欲しかったわ」

 むすりとした様子でミスティルは後ろにいるフォーゲルを睨みつける。フォーゲルは僅かに首を傾げたのみだった。

 詳しく聞けば、少年自身この二つ目の問いかけにはあまり自信がなかったようだ。ちょうど一年前にリーベルタースの仕事としてフィークス婦人の出産に関わったことがあり、その時に見たご婦人の様子や雰囲気を、少年は鮮明に覚えていたらしい。ただの直感だったのだが、彼女と当時のご婦人の雰囲気が似ていると思った、とのことだった。

「今回のことでわかったけれど、フォーゲルの観察眼は予想以上だわ。認識を改めないとね。というか、ここ最近はビックリすることばかりよ。まぁ、良いことには違いないのだけれどね」

 やれやれ、と少女は腕を組む。フォーゲルはやはり無表情だったが、ふと診察室の入口を見やる。そこへちょうど看護師が扉を開けた。

「失礼します。ミスティルさんにお電話が入っていますよ」

「私に?」

 呼ばれて一旦席を外したミスティルだったが、すぐに足早に戻ってきた。

「ごめんなさい、レオウからの連絡で、何か進展があったみたい。フォーゲル、彼女をお願いできる?」

 レオウは昨日聞いた彼女の証言をもとに、森近辺を捜索しに行っていたはずだ。急ぐ様子のミスティルにフォーゲルが頷いて了承を示す。少女はアルム医師に一礼すると、慌ただしく診療所を後にした。

「所長さんは相変わらず多忙だなぁ。まぁ、日を改めてから詳しく診察をするとことにして、今日のところはこれにて終了だ。特にお前さんは無自覚でいたのが長かったから、少し精密な検査になるだろうし……そうさなぁ、二日後に診察の予定を入れておこう。もちろん、何か少しでも違和感を感じたらいつでも受け付けるから、遠慮しないようにな」

「あ、はい……ありがとうございます……」

 内心まだ実感が湧かないまま、彼女はおろおろと頭を下げる。確かに全ての記憶を思い出したというわけではないのだが、それにしたって、一体全体これはどういうことなのか。

 ぼんやりとしてしまう傍ら、アルム医師は思い出したようにフォーゲルに声をかけた。

「そうだ坊主、ここ最近通院をサボっていただろう。今日のところは見逃してやるが、坊主も日を改めてちゃんと診察に来るように。それと、看護師が薬を用意しているから、受付に声をかけてから帰るようにな」

 医師の言葉にフォーゲルはこくりと頷く。キョトンとしてしまう彼女だったが、次の患者が待っており診察室を出るように促されて慌ててフォーゲルと共に部屋を後にする。

 小さな診療所だが、活気はあるようだ。部屋の前にはまだ何人もの診察待ち患者がおり、アルム医師の腕の立ち具合がよくわかる。

 医師に言われた通りに受付で薬を受け取り、彼女とフォーゲルは街へと出る。ゆっくりと歩きながら、彼女はおずおずと問いかけた。

「フォーゲルさんは、あそこの診療所に通われているのですか?」

 少年は頷いて返事をする。それから少し間をあけてから口を開いた。

「先生に、お世話になってる。ここが、悪い」

 少年は己の胸元を指差した。心臓か、肺の辺りだろうか。そういえば前にレオウが、少年に向かって「声を出すのもリハビリの一環」と言っていたのを考えると、呼吸器官に何かしらの問題を抱えているのかもしれない。

「それじゃぁ、さっき頂いていた薬は?」

「苦しくなった時に、飲む。でも、近頃は、平気」

 言いながらフォーゲルは目を眇める。平気だから診察に行かなかったのだ、と少年の訴えが聞こえたような気がして彼女はこっそりと微笑んだ。なるほど、確かにこの少年は口よりも目で物を言うタイプで違いないようだ。

 そう考え、ふと少年の目を見ても平気である自分に気付いた。

(ルークス様のことを思い出したおかげ? そうか、無意識だったけれど、私は負い目を感じていたのね)

 内心では名前を偽っていると、自分で自分を責めていたのかもしれない。そんな後ろめたい感情が、少年のガラス細工のような瞳にそのまま映り込んでしまうのを恐れていたのだ。

 今ならば、そうだとわかる。

「……そういえば、よく私の名前が違うとわかりましたねフォーゲルさん。私自身、無意識だったのに」

 この問いかけには、少年は答えるのにたっぷりと時間をかけた。どう答えるか、言葉を選んでいるらしい。歩を進めながらも辛抱強く待っていれば、やがて少年は言葉を発した。

「……同じ、だったから」

「同じ?」

「名前がなかった」

 一言で言い切ってから、少年はすぐに言葉を続ける。

「今の名前は、ミスティルがくれた」

「えーと……『フォーゲル』という名前を、ミスティルさんがつけたということですか?」

「それまでは、名前がなかった。だから、俺は俺にならないと、だったけど、あなたは違うだろうから」

「……えっと」

 少年の言葉の意味を飲み込むのに、少々時間がかかった。が、彼女は今になってようやくフォーゲルという人の成りをはっきりと見た様に感じていた。

 この寡黙で感情表現も希薄な少年は、元からこうであったわけでなく。つい最近になってようやく自己を持ったばかりの、まるで赤子のような存在で、つまり今現在において自己を作成途中である為に寡黙で感情表現も希薄に見えるだけである、ということなのだ。ミスティルやレオウが彼を過保護気味に扱うのも、そうだとわかれば理解できる。

(フォーゲルさんが言っていた、ルークスになりたいのかっていう言葉は……つまり、あのままだと私は私自身を忘れ去って、ルークスという人を作ろうとしていたから、なのね)

 否、あの時すでに自分は自分を捨てている最中だったのかもしれない。現に、今、自身の名前がどうにも思い出せないのは、その後遺症だとは考えられないか。

 そんな、あれやこれやを考えていた時だった。ゆっくりとした歩みはそのままに、ふいにフォーゲルが自ら口を開いた。

「こっちは駄目」

「え? って、あの」

 唐突に手を取られ、慌てて少年に歩幅を合わせる。フォーゲルは道を大きく逸れて人通りの多い道に分け入った。その方角だと事務所まで大回りになるのではないか、と彼女は少年を見やる。

「あっちは、人が少ないから」

「でも行きはあっちの道から来ましたよね?」

「今は駄目」

 フォーゲルが僅かに目を細めた。

「誰かが、ついてきてる」

 後ろを振り返るが、彼女の目では確認することはできない。だが、よくよく注意して辺りを探ってみれば、背後から視線を感じることができた。

 刺々しい、嫌な感じの視線だ。手を引いて歩いているフォーゲルの様子を見るにしても、交友的ではないらしい。

「走ったら、駄目だっけ」

「えぇっと……激しい運動は控えるようにとは言われましたけれど……」

「じゃぁ、こっち」

 少年はできるだけ人気のある道を選んでいるようだった。懸命な判断ではあるが、事務所は遠くなる一方だ。その頃になって、ようやく彼女も追跡者を視界に捉えることができた。

 ハンティング帽を目深に被って顔を隠している男である。しかも、どうやら一人だけではないらしい。別方向にも似たような男を見つけ、彼女は顔を青ざめさせる。

「なぜ私たちを……」

「馬車」

 フォーゲルが声を発する。

「馬車が、倒れた時、誰かいた?」

「え……」

 そういえばあの時、ルークス氏は自分に「逃げろ」と言っていたのだった。

 それはつまり、あの方は馬車が突然転倒した理由を知っていたというわけで――

 と、ふいにフォーゲルが足を止めた。ハッとして顔を上げると、前方にまた別の男がいる。いつの間にか囲まれてしまっていたらしい。まずいと思った時にはもう遅く、じりじりと人気の無い路地へと追いやられてしまう。

 さらに運が悪いことに、この路地は袋小路になっているらしい。それに気付いた少年がすぐに懐から横笛を取り出し、一吹き鋭い音を鳴らす。が、男たちはすでに路地の出口に立ち塞がっていた。

「助けを求めても無駄だぞ。他にお仲間はいないんだろう?」

 男の一人が笑いながら口を開く。どうやら彼がリーダーらしい。他の男たちも不気味な笑みを浮かべている。危ない奴らだということは一目瞭然で、フォーゲルは彼女を庇うように己の後ろに下がらせた。

「おい坊主、俺らはそこの女に用があるんだ。痛い目を見たくなければそこを退きな」

 そう言って、リーダーの男はおもむろにナイフを取り出した。白昼で堂々と突きつけられる鋭利な刃物に彼女は思わず息を呑んだが、少年はそんな中でも無表情を貫き通している。

 刃物を怖がっている様子も、警戒している様子すらもない。むしろ、何だそれはと言いたげに小首を傾げるのみで、ただじっと男たちを見据えている。ナイフを持つ男は不快そうに口許を歪めた。

「なんだ、この不気味なガキは……おい、殺されたいのかお前?」

 男たちが口々に脅しの言葉を発するも、それでもやはり少年は感情を表すことはなかった。それどころか、ナイフを持つ男に不用意にも近付いて距離を詰めた。男がギョッとしたようにたじろぐのが彼女にも見える。

 フォーゲルは男の目を見て、呟くように声を発した。

「ナイフで人を殺したことは?」

 少年にしてはやけにはっきりとした言葉だった。男が思わず後ろに引き下がる。開いた距離を、再び歩を進めて近付き、フォーゲルはさらに言葉を続ける。

「あなたは人を殺したことがあるだろう。何を怖がっている。持っているのがナイフだからか、その手で直接突き刺したことがないからなのか」

 ガラス細工のような瞳に、男が映り込む。

 紅く、深く、全てを見通すような、何もかもをも暴き出すかのような、透き通りすぎている、まるで鏡のような瞳。

 男が驚いた表情を見せた。途端にナイフを持つ手が震えだす。

 次いで、少年は取り巻きの男たちにも目を向けた。どの男も虚を突かれたように動揺し、逃げるように足を引く。と、ふいにフォーゲルは空を見上げた。

「アハート」

 呼びかけと共に、路地中に甲高い鳥の声が響いた。彼女にもすっかり耳に馴染んでしまったその声の主は、上空から勢いよく滑空してきて男たちのすぐ真上で激しく羽ばたいた。

「なんだ?!」

「鳥?!」

 突如として舞い降りてきたアハートに慌てふためく男たちに紛れて、いつの間にか彼女のすぐ近くにまで戻ってきていたフォーゲルが。

「つかまってて」

「え? きゃっ?!」

 足が地から離れたと思った時には、すでにフォーゲルに抱き抱えられていた。アハートの働きによって男たちが混乱している隙に、彼女を抱えたままフォーゲルは袋小路を抜け出る。慌てて落とされないようにフォーゲルにしがみつきながら、散々男たちを引っ掻き回したアハートが意気揚々とフォーゲルの頭上に飛び上がるのを見た。少年の背後から男たちの怒鳴り声が聞こえてくる。

「逃げたぞ!」

「追え!!」

「おい、立てよ!」

「早く追いかけろ!!」

 もたつきながらも追ってくる男たちに、女性一人を抱えている少年の足では間に合わない。だが。

「フォーゲル! そこだったか!」

 前方から駆けつけてきたのはレオウだ。彼は一目で現状を把握したらしい。フォーゲルはすれ違い様に短く声を出す。

「四人、ナイフ」

「承知した」

 直後、抱えられている彼女からは見えなかったが、何かを殴り倒す生々しい音が聞こえ出す。何がどうなっているのか、と考えている間に少年は走るスピードを減速し、やがて立ち止まって彼女を地面に下した。

「フォーゲル、お疲れ様!」

 声をかけて来たのはミスティルだった。息を切らしながらも駆け寄り、彼女の手を握る。

「大丈夫? 怪我は? 何ともない?」

「え、えぇ……だ、大丈夫です」

 思考が追いつかないが、どうやら助かったらしい。レオウはどうなったのかと後ろを振り返れば、なんと彼は男四人を叩きのめして地面に転がしていた。フォーゲルはアハートを腕に留まらせてその背を撫で付けている。ミスティルが安堵の息を吐いて笑顔を見せた。

「レオウと合流してすぐに診療所に引き返そうとしていたところに、アハートが飛んでいくのが見えたの。間に合って良かったわ」

 少女が説明している間に、辺りから街の自警団らしき人々が駆けつけてきて地面に転がっている男たちを捕まえていく。その手際と段取りの良さに半ば呆然としてしまう。自警団に男たちを引き渡し、レオウがこちらに帰ってきたところでミスティルは言った。

「詳しい話しは事務所でするわ。今は帰りましょう。大事な体なのですもの、ゆっくり休まなきゃ」


××××


 彼女の証言を元に現場を調べに行ったレオウによると、転倒した馬車らしきものは見当たらなかったらしい。一週間経っているとは言え本当に馬車が転倒したというのならばその残骸は何かしら残るはずだが、事前の調べで近隣住民に馬車の転倒に関する情報は広まっておらず、事故があったことすら知る者はいなかった。街外れとはいえ決して人が通らない道ではないことから、彼女の証言を信用するならば何者かが事故を隠蔽したと考えるのが妥当である。より詳しく周辺で聞き込みをすれば、近頃この辺りでは見かけない怪しい人物が複数人うろついているのが目撃されていた。レオウは事態を察し、すぐさまミスティルに連絡を入れたというわけだ。

「昨日の時点で考慮に入れて、もっと用心するべきだったわね……フォーゲルがいてくれて事なきを得たのはいいのだけれど。でも、それにしたってフォーゲルは無茶しすぎよ。今回はなんとかなったけれど、逆に襲いかかってこられていたらどうするつもりだったの」

 そうミスティルに説教されるフォーゲルであった。

 詳しく聞き出せば、袋小路での少年の発言に確証は全くないらしい。ただ相手の目を見て、浮かんだことを口にしただけだという。まるで読心術かのような観察眼だが……

「つまり……ルークス様は……」

 他殺されて、亡くなられたのだ。

 犯人は察するに、あの男たちだろう。フォーゲルの言葉に動揺を見せていたことが何よりもの証になっている。

 申し訳なさそうにミスティルが口を開いた。

「残念な報告になってしまって、ごめんなさい」

「いいえ、そんなこと……」

 言いかけて、笑顔を取り繕うとして、それが出来ずに曖昧に彼女は俯いた。

「皆さんが、謝ることではないですし。ただ……その、まだ実感が持てなくて。悲しんだらいいのか、怒ればいいのか……」

 まだ全部を思い出したわけではないのだ。あの方の顔も、ぼんやりとしていて、はっきりとしない。だからなのか、尊い方のはずなのに、今は涙が流れてこない。

 昨日のように、いっそ思いっきり泣けばこのもやもやとした心も多少はマシになるだろうに。

「御嬢、話はそれぐらいに致しませぬか」

 そう言いながら湯気立つカップを差し出してきたのはレオウだった。

「明日になれば詳しい情報が入ってくることと思われます故、今日のところは体を休ませることを優先した方が宜しいかと」

「うん……そうね。今は落ち着かないと。あぁでも、私は途中で席を外しちゃっていたけれど、あれからアルム先生との話はどうなったの?」



 その後はお互いに連絡事項を確認し合うだけに終わり、借り部屋に戻ってきた頃には日が傾きかけていた。

 レオウとフォーゲルに夕食の支度を任せ、彼女は大事を取って休ませてもらうことになった。今日だけでいろいろなことがあった為、頭の中を整理したくもあり、ベッドに腰掛けて彼女はようやくホッと息を吐き出した。

 落ち着いてみれば、どっと疲労感がのし掛かってくる。赤く染まり始めている空を窓越しに見つめ、暫しぼんやりとする。

「ルークス様の、こと……」

 独り言を声にする。

 窓の外は時計を早めるかのごとく、急速に色を失っていく。


 ――よい名だね。私は夜よりは朝の方が好きだよ。■■■。


 連れてこられた時は、柔らかい日が差し込む朝の時間帯だった。

 手足が冷たくて、重たくて。引きずって歩いていたところに、手を差し出して頂いて。


 ――その枷はすぐに外してあげよう。この屋敷には奴隷はいらないからね。まぁ、居場所が出来たとでも思って、ゆっくりしなさい。


 あぁ、そうだった。私は貧しさ故に奴隷市に売られていた身で。


 ――君の名は?


 幼い頃に死んでしまった母がつけてくれた名前だけが、その時の私の唯一の財産で。


 ――よい名だね。私は夜よりは朝の方が好きだよ。


 ――マーネ。


 日が沈みきって暗くなってしまった部屋の中で、気付けば彼女は涙を流していた。

 声はなく、ただ涙だけがぽろぽろと頬を伝っていて、彼女はそっと自身の腹部に手を触れた。

 そこにいる新たな命を、今この瞬間にしっかりと感じて。

「ルークス様……」

 彼女はようやく、彼を想って泣いたのだった。


×××××


 後日談として、彼女の身はフィークス婦人の元に預けられることになった。

 身寄りのない彼女が妊婦であると知ったフィークス婦人自身からの申し出によって、である。妊娠経験者で、おまけに世話好きな婦人としては居ても立ってもいられないニュースだったようだ。ミスティルからの信頼の言葉も送られたこともあり、彼女は有り難くこの流れに乗ることにした。

 事件の方はというと、犯人たちの取り調べをもとに森周辺の捜索がすぐに始まった。転倒した馬車であろう残骸は、森からすぐそこの崖の下に落とされていた。そこから馬車の御者と思われる者の死体と、衣装から貴族だと思われる男性の死体が見つかった。さらに男たちは雇われて犯行をしたことを供述したという。現在、カリドゥス家の長男は殺人の容疑で事情聴取にかけられている。被害者である彼女にも何度か事情聴取がかかったが、事前のリーベルタースの調べもあり、事件はすぐに解決すると予測される。

 けれど、すでに起こってしまい、終わった事だ。全てを思い出し、悲しみも怒りもあるが、今は落ち着いて静かに時が流れるのを待ちたいという彼女の申し出に、事件の騒ぎはすぐに収束していった。



「マーネ? 良い名前じゃない!」

 目を輝かせてミスティルは言う。そう言われた彼女――マーネは少し照れたように小さく笑う。

「えぇっと、そんなに良い名前ですか?」

「とっても良い名前よ。ね、レオウ」

 少女に話を振られて、レオウは頷き返した。

「この国の古い名付け言葉で、マーネとは『朝』という意味ですな」

「あぁ、それで……」

 彼に言われた言葉を、今一度思い出す。ふっと胸の奥が温かくなるのを感じて、マーネは微笑んだ。

 と、ふいにそれまで黙っていたフォーゲルが口を開いた。

「わかった」

 少年に顔を向ける。フォーゲルはいつものように、拙いながらも口を動かす。

「あれから、いろいろ考えたけど、今わかった。ルークスに、なりたかったのは、マーネの子供のほう、かな」

 あ、と彼女は思わず、赤子がいる腹部へ手を添える。

 すぐにマーネはレオウを見た。

「もしかして、ルークスという名前にも意味があります?」

「これも古い名付け言葉で、『光』という意味ですぞ」

「じゃぁ、もう決まりですね」

 マーネは満面の笑みを浮かべた。


「この子の名前はルークスです。たぶん、男の子ですよ」



                    1.ルークス・カリドゥス 完

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る