第8話 脳科学から見るストレスとの付き合い方
「今回はお悩み相談とは違うんだよな」
ある日の放課後。雑談部で桔梗は悩み相談を持ちかけない。
「何度だって言うけど、ここは雑談部。面白おかしくお喋りする場所。悩み相談は受け付けてない」
雑談部の部室では華薔薇と桔梗が雑談に興じている。つまり真っ当に部活動に勤しんでいる。
「悩みじゃなくて愚痴なんだよ。ペンネームはないから、名前は一旦私の心の友はラベンダーさんとする。内容だが『毎日毎日イライラする、どうしてこんなにストレスが溜まるの』という愚痴なんだ。なんとかならないか?」
「ストレス発散したいなら、遊びにでも連れて行きなさい。リフレッシュしたら治まるでしょ」
「それがさ、一時的に機嫌はよくなるけど、少し経ったらまたストレスに悩まされるそうなんだよ。いい方法はないか?」
愚痴とは言うものの、華薔薇には普段と変わらない悩み相談だ。要はストレス対策を教えてほしい、という悩み相談だ。
「ストレスとは無縁そうよね、桔梗は」
「俺だって毎日ストレス感じまくりだ。舐めるな」
過剰なストレスは心身ともに疲弊するので好ましくない。ストレスで体調を崩す人もいるが、一見すると桔梗が大きなストレスを溜めているとは思えない。
華薔薇にはなんだかんだで桔梗は楽しく映っている。内心ではストレスを抱えている可能性は否定できないが、特に問題になりそうなストレスを抱えているとは思えない。
「桔梗のお気楽さを私の心の友はラベンダーも見習えば、少しはストレスといい付き合いができるでしょう」
「誰がお気楽だ。毎日毎日、とある女性から言葉責めという精神的苦痛に苛まれているんだ。俺の心はボロボロだよ」
「それは大変ね。桔梗をいじめているのは誰かしら、顔を見てみたいわ」
桔梗を心配する華薔薇は満面の笑みを浮かべている。心配しているというより、楽しんでいると表した方がしっくりくる。
「お前だぁ、華薔薇。毎日毎日、雑談という名のいじめを繰り返す悪魔め。俺がどれだけつらい思いをしていると思っているんだ。慰謝料を請求する」
心の奥底に溜まった不満をぶちまける。これまで堪え忍んだ分が一気に爆発したようだ。
「不愉快ね。そして的外れな意見よ。私は桔梗に一度も雑談部に来ることを強制していないわ。雑談部に参加のノルマもないから来る理由はない。辞めたければ、いつでも辞めれる親切設計。桔梗は自分の意思で雑談部に足を運んでいるの。それなのに、雑談をしていて精神的苦痛ですって、違うでしょ」
「違くないだろ」
中身のない反論は意味をなさない。ただ言葉に反応しただけ。
「桔梗は、私にわざわざいじめられに来るドMなのよ。いじめられて喜ぶド変態でしょ」
桔梗は悩み相談を解決する友達思いの学生。しかし見方を変えれば、いじめられるために雑談ネタを持ってくるド変態。
「俺は変態じゃないいいい。俺は至ってノーマルだぁぁぁ」
「否定しなくていいのよ。私は桔梗をいじめて楽しい、桔梗はいじめてもらって嬉しい。利害は一致しているでしょ」
これからもよろしくね、と華薔薇は笑顔で手を差しのべる。
「違うって、俺は相談を解決するために来てるの。いじめられたいなんて微塵も思ってない。最短の解決ルートだから、我慢してるだけ」
「建前はいいわよ、ここには部外者はいないのだから、本音で語りなさい」
「話を聞けえっ! 俺は変態じゃないぃぃぃっ!」
桔梗の魂の叫びが部室を越えて校舎全体に響き渡る。華薔薇もこれには思わず肩を竦めて耳を塞ぐ。
「はぁ……はぁ……はぁ、つ、疲れた」
「あはははは、桔梗面白いよ。本当に雑談部に来てくれてありがとう。心から感謝するよ」
華薔薇は嘘偽りなく桔梗に感謝する。桔梗も見たことのない満開の笑みだ。普段の凛とした姿も美しいが、幼い子供のように無邪気に笑う姿に見とれてしまう。
「……………………かわいい」
桔梗の呟きは残念なのか、喜ばしいのかわからないが、心を踊らせていた華薔薇には聞こえなかった。
「さて、桔梗が変態とわかったところで、私の心の友はラベンダーの雑談に戻りましょう」
横道に逸れるのも雑談の醍醐味。
「ちょい待てぃ。俺は変態じゃないから、誤解したまま進めんな」
「はぁ、実は私にとって桔梗が変態かどうかは興味ないの。私は桔梗で楽しんで、雑談できるなら構わないの。桔梗の性癖なんて微塵も興味ないの。そんなに言うなら、桔梗はノーマルなのね。はいはい」
「まあ、それならいいか」
別の問題が発生したが、誤解が解けたので渋々納得する桔梗。
華薔薇の目的は桔梗で楽しむことと雑談すること。桔梗の性癖が雑談に相応しいなら雑談にする。サドならサドで楽しみ、マゾならマゾで楽しむのが華薔薇だ。
華薔薇と桔梗では目的も価値観も違う。張り合いになるのは少ない。
「毎日イライラしている、つまり過剰にストレスを受けている状態ね。これは、とても体に悪いわ。桔梗も心当たりはあるかしら」
「それは、もちろん。ストレスが原因で自殺したりするニュースは見たことある。俺だってイライラしてる時は物に当たったりするし」
過剰なストレスに晒されていると正常な判断ができなくなる。冷静なら人や物に当たることはない。一見ストレス発散行為に見えるが、実際は脳機能が落ちて冷静な判断が下せていない。
「前頭前皮質には色々な部位があるけれど、現実的な判断を下す部位、意識した思考をする部位、パターンを学習する部位、と様々な部位に別れている」
過剰なストレスは脳の状態を一変させてしまう。前頭前皮質の機能が落ちる。最悪の場合は停止する。
停止した脳機能に期待はできない。
「現実的な判断を下せないなら、間違った選択を取ってしまう。意識した思考がてきないと、思考は停止状態になる。パターン学習を忘れれば、同じミスを繰り返してしまう」
適切に働いている脳と機能停止した脳で同じ働きができないのは明白。
「他にも感情の統制を司る部位にも影響を与えるから、過剰なストレスは感情の爆発を招く」
「それって最悪じゃん」
間違った判断を何も考えずに繰り返す。端的に言ってひとつもいいことがない。
「そうよ、最悪ね。過剰なストレスは脳機能にダメージを与える、デメリットだらけなのよ」
「やっぱストレスってないほうがいいだな」
生活する上でストレスを感じず過ごすのは不可能だ。多かれ少なかれストレスとは必ず対峙する。
「そうでもないわ。ストレスにもメリットはある」
必ずしもストレスは悪者ではない。適度なストレスは脳機能を高める性質もある。
「嘘だろ、ストレスの何がいいってんだよ。ストレスに万歳してる奴なんか見たことないぞ」
何かとストレスの多い現代社会ではストレス解消を謳ったグッズやイベントはあれど、自らストレスに晒されましょうという趣旨はない。
残念ながらストレス=悪、という図式は完成されている。
「桔梗もストレスのメリットは享受しているわよ。意識してなくても」
「いつ、どこで、地球が何回回ったときだよ」
まるで小学生のような反応に少し華薔薇は思案する。
さらっと流して次に進めて無視する。せっかくのボケをスルーされた悲しみの桔梗を見れる。
反対に真面目に計算したら、ちんぷんかんぷんな計算式にオーパーヒートする桔梗が見れる。
ふたつにひとつ。華薔薇はどちらが面白くなるか、刹那で弾き出す。
「宇宙が誕生したのがおよそ138億年前。そこから地球が誕生したのはおよそ46億年前。求めている地球の回転数を公転ではなく、自転とするなら年間の日数、365をかければいい。およそ1兆6790億回回ったときよ」
華薔薇は雑談が大きく横に逸れる選択をした。雑談部は横道に逸れるのも醍醐味だ。
「お、おう、めっちゃ地球回ってんな。目を回さないといいけど」
既に桔梗の頭では数字が大きすぎて、正確に把握できていない。
「でもね、昔の地球は自転が24時間ではなないのよ。地球が誕生した頃は、およそ5時間だそうよ。1年は1800日になるわ。地球の動きと今までの歴史を観測すると、1年が500日辺りが真ん中の落ち着いた数字になる。それで計算すると、およそ2兆3000億回になるわ」
「いや、もういいって、俺が悪かった。ごめんなさい」
桔梗の謝罪を無視して、華薔薇は地球の回転数を求め続ける。
「地球の誕生はおよそ46億年前だけど、もう少し正確にすると45億4000万年、誤差は±5000万年。地球の時点スピードが一定の値で遅くなっているとするなら、地球は誕生してから、3兆回を越える回転をしている」
「全然、意味がわからん」
桔梗は思考を放棄している。だが雑談部の雑談である以上、無視することはできない。
わからないなら、わからないなりに雑談をしないと雑談部の意味がない。意味がないなら、所属する意味もなくなる。雑談を疎かにする部員に価値はない。つまり退部を意味する。
「地球の誕生と自転車スピードが正確でないから、求められるのは範囲なのよ、実際。仮に地球が誕生が45億年前で自転周期が24時間変わらないのなら、閏年を考慮しておよそ1兆6436億回。自転周期が5時間で地球の誕生が最大の46億年前なら、およそ8兆回を少し越えることになるわ」
つまり地球の自転の回数は1兆6436億回から8兆592億回の間になる。
「……ほげぇー」
漫画なら頭から煙を出す桔梗がいただろう。焦点が合わず、虚空を見定めている。
「やれやれ、地球の回転に目を回したようね。不甲斐ない。これに懲りたら、バカな発言は控えなさい」
オーバーヒートした桔梗を見れて内心満足している華薔薇だった。たまになら盛大に横道にそれるのも一興である。
「閑話休題。ストレスにメリットがあるって話だったけど」
「無理、もうちょっと休憩させて」
桔梗の頭は即座にスイッチを切り替えられない。華薔薇は脱線する前の話を覚えているし、即座に切り替えられる。
「よ、よし、完全復活、俺。さあ、待たせたな、雑談を再開しよう。ストレスにはメリットもあるんだったな」
復活した桔梗が仕切り直す。さっきまでくたばっていた桔梗に主導権を握られるのは、華薔薇からすれば不愉快。主導権は簡単に渡さない。
「そうよ、ストレスにはメリットもあってね、桔梗も享受しているという話だったわね。それは確か地球が何回回った時のことか聞いてたわよね」
「わーわー、ストップストップ、その話はもういいから」
あわれ桔梗の主導権は三日天下だ。
「ふっ。ストレスには情報の分類、記憶力の向上、直感、それぞれでメリットがあるわ。順番に説明しましょう」
正確にはメリットではなく、ストレスの役割のが正しい。わかりやすさのため言葉を変えている。
「待ってたぜ……」
盛大に横道にそれたので、普段より雑談が尊く感じる桔梗。
「情報の分類について、情報には安全なものと危険なものがある。安全な情報にはストレスは反応しない。でも危険なものにはストレスとして反応するわ」
ストレスには危険に反応し、遠ざける役割がある。
「たとえば道を歩いていて、自転車が真っ直ぐ走っていたら、危険だと感じて避けるでしょ。何も反応しなかったら、避けなくなるから正面衝突ね」
自転車側にも危険に反応するので、滅多に衝突することはない。
「人間が太古から現在も存命なのはこのおかげよ」
「昔は自転車なんてないぞ」
交通事故は近代に生まれた危険だ。大昔には大昔の危険があった。
「肉食獣よ。肉食獣が危険だと判断できるから、無抵抗で食われずに人間は生きていけたの。生存に欠かせない能力よ」
危険な場所では慎重に行動することで人類は生き延びてきた。
「なるほど、食う食われるの関係か。知ってるぞ食物連鎖だな」
「自然界では危険と隣り合わせ。次に記憶力の向上、危険なことを覚えないと、危険なことを繰り返してしまう。危険を遠ざけるには覚えるしかない。似たような危険に会った際には推測する材料になる」
人間が痛い目に遭うと教訓として覚えるのはこのため。同じ失敗を繰り返せば、生存確率は低くなる。
「危険を回避するために脳はストレスを感じると、覚えないといけないと頑張るのよ。よって忘れないために記憶力が向上する」
「ふむふむ、テストでいい点取ったらご褒美より、悪い点だったら罰ゲームにしたらいいのか。これは使えそうだ」
罰ゲームを回避するために記憶力の向上が望めるかもしれない。
「最後に直感ね」
「直感なんて、当てずっぽうだろ。ストレスと関係あるのか?」
「直感は知識や経験に基づき迅速に判断を下す機能、とでも言えばいいかしら。直感でなんとなくやばいと思えば、危険に手を出すこともないでしょう」
生きるか死ぬかの瀬戸際で悠長に考えている暇はない。その場合、何も考えずに適当に選ぶか、直感を信じるかしかない。
ストレスによる直感が正しい保証はない。しかし直感に助けられた経験は枚挙に暇はない。
「つまり直感は信じていいの?」
「あくまでストレスは直感を補助してくれだけ。だがら直感を信じていいのは、自分の特異分野に限る」
直感は知識と経験に基づいた判断だ。知識や経験の裏打ちがあるなら信じるべきだ。逆に知識も経験もない不勉強な分野なら直感は意味をなさない。
「得意分野なら論理をすっ飛ばした結論。未知の分野ならただのギャンブル」
「だったら俺の得意分野は、得意なのは……俺の、得意って何?」
自分を客観視するのは慣れていないと難しい。桔梗も得意なことを検索するが思い当たらない。
「私が知っているわけないでしょ。仮に知ってても教えないけど」
「そんなぁ、助けてくれよ」
「情けない声を出しても私の意見は変わらない。自分の強みくらい自分で見つけなさい、見つけられないなら自分で作りなさい。だから自分にしかわからないの」
自己省察。自分で自分を知る技術。
いずれ華薔薇が雑談ネタに取り上げるかもしれない。桔梗はそれまでお預け。
「さて、ストレスのメリットとデメリットは説明したわね。ここからはストレスとの付き合い方を雑談しましょう」
「ストレスと、付き合う……?」
桔梗は思いを巡らす。擬人化したストレスちゃんと腕を組みデートしている姿を。街を歩いて、小料理屋で昼食を摂り、ショッピングでプレゼントする。
単なる妄想のデートだった。
「気持ち悪い妄想をしてないで、戻ってきなさい。鳥肌の立つ気味の悪いニヤケ顔を今すぐやめなさい」
腸をぶちまけるわよ、と続きそうな表情を浮かべる華薔薇。
「は、はいぃぃぃ。ただいま、戻りました。……ああ、レス子ちゃん」
妄想に未練タラタラな桔梗。
「ストレスとの付き合い方が恋人のような付き合い方とは違うに決まっているでしょ。過剰なストレスとは距離を置いて、味方になるストレスと友好にする。桔梗の妄想は気持ち悪い」
「最後に付け足したのはいらないよね。わざわざ俺をいじめる必要ないだろ」
「気持ち悪くて、気味が悪くて、おっかなくて気色の悪いものを見ないといけない私の身にもなりなさい。男なら少しくらいの愚痴を許せる度量を見せなさい」
絶対少しじゃなかった、と思う桔梗だが、口にしたらとんでもない口撃に襲われるため、口を閉じる。
少し妄想しただけなのに、どうしてこんなに責められないといけないのか腑に落ちない桔梗だった。
理不尽が嫌なら距離を取るしかない。だが、次の放課後も桔梗は雑談部を訪れるだろう。
「ストレスとの付き合い方、まずは、ストレスは脳からの警告」
ストレスは普段とは違う状況の際に発生する。まずはストレスを感じたら、異変を探る。
「ストレスだって、何もない場所からは生まれないのよ。体の内側か、外側か。異変がある場所からストレスは生まれる」
「ストレスが内側から生まれるって、どーゆーこと? 外側はわかる、誰かに怒られたり、もしくは振られたり、とか。でも内側の意味がわからん。自分でストレスを生み出すのか?」
体の外側のストレスは人間関係以外でも生まれる。運動中に怪我をした、目の前に殺人鬼がいるなどだ。自分ではどうしようもない外部からの刺激で発生する。
「自分で生み出すストレスは、確かに内側のストレスに当てはまる。たとえば、人や物を見て嫌な記憶を思い出したり、天気が悪くて古傷が疼いたりね」
経験や知識から、自ら生み出すストレスもある。ふとしたきっかけで嫌な過去を思い出し、気分が落ち込む。
逆に楽しい思い出、幸せな記憶が甦ることもある。この場合は心地よさに浸ればいい。
「大事なのはストレスの原因を見極めること。闇雲にストレス発散してはダメ。ストレスに見合った対処をしないと意味がない」
ストレスはそれぞれ違う。処置を誤れば悪化する原因になる。
風邪の患者に冷水を浴びせたら悪化するように、間違った対策は百害あって一利なし。風邪なら休息と栄養を摂り、薬を飲めば治るように、適切な処置なら快復する。
「そっかぁ。言われてみれば、道理だな。俺ならストレス溜まったら遊ぶ以外の選択ないけどな」
「それでストレスが解消できてるなら、問題なし。やり方は人それぞれよ」
ストレスは適切に対処しなければならないが、誰もが同じやり方で解消できるとは限らない。華薔薇と桔梗でやり方が違うように、最善の方法は各々で変わる。
大事なのは自分にあった方法を見つけること。
「ストレスの出所がわかれば、次にするのは付き合うか、別れるか」
ストレスにはメリットもデメリットもある。全てを遠ざける必要はない。
「過剰なストレスは心身ともに害悪といつのは先に雑談した通り。だからストレスの根元から離れるのが最善ね、人なら話さない、近づかない。物なら触らない、物置にしまう」
物理的に距離を離すのがシンプルな対処になる。
「なーる。最初に原因を突き止めて、その後にさよならか。でも付き合うストレスもあるんだよな」
「新しいチャレンジ。自ら選んだ困難でもストレスは感じるの。体にとっては異変だから」
自発的な行動から生まれるストレスは歓迎すべきだ。体に必要ならストレスが手助けしてくれる。
ストレスで記憶力が向上するのは記憶しないと都合が悪いから。体が必要と感じれば、ストレスは強力な味方になる。損失を発生させないために体は頑張る。
「損失は最小限に、利益は最大限に。人間の体は都合よくできてるのよ」
「ほへー、よくできてんだな。人類の神秘って奴だな」
人体はまだまだ解明されていない部分が多いが、研究の成果は年々着実に増えている。
ストレスの原因、ストレス解消法、ストレス耐性、と研究されている。
「人類の神秘、だからこそ人間は面白いと思うのよ。わからないことを次々に解き明かす、これこそ至福よ」
もし人体の全てを理解したなら、行動の全てが予測できてしまう。予想外が一切起こらなくなる。
華薔薇の楽しみは予想外の出来事、全てを知り得る世界は華薔薇には地獄だ。とてもつまらない。
華薔薇が生きている間に、全てが解明されるブレイクスルーは期待できない。天寿を全うするまで、未知がなくなることはない。
「ストレスと付き合う方法はまだあるわ。雑談を続けましょう。高すぎる期待はやめましょう」
「期待したらダメなのか。でも華薔薇がはいつも期待以上の結果を出してくれるぞ」
「あくまで、能力値以上を期待したらいけないの。期待より低かったときに裏切られたと思ってしまう。これがストレスになるの」
勝手に期待して、勝手に裏切られる。自業自得でしかない。得てして気づかず、こんなこともできないのか、もっとはやくできるだろ、と怒りをぶつける。
自分も相手もストレスになる。必要以上な期待は厳禁だ。
「桔梗も、私ならこれくらい雑談できるだろうという期待はやめなさい。私にも限界はあるから」
「ふーん」
桔梗は話半分に聞き流す。今までなんだかんだ華薔薇は答えている。桔梗には華薔薇が知らないことはない、とうっすら感じている。
華薔薇も人間である。知らないことはない、なんてことはない。むしろ知らないことの方が多い。桔梗の持ってくるお悩み相談がありふれた内容だから、雑談できているにすぎない。
それに華薔薇も誤魔化したり、意図的に話題を逸らすことはある。演出で惑わしているのも否定できない。カリスマに見せるテクニックも証明されている。
知らず知らずに雰囲気に騙される。知らぬは桔梗だけ。
「過剰な期待がダメでも、相手に期待していないことを告げるのは言語道断。期待してないことが伝われば、やる気の低下は免れない」
あなたには全てはできないから、できるとこまででいい、と言われてやる気は上がらない。あくまで期待しないのは自分自身の問題。
心の内に予防線を張って、大きな被害を防ぐ手段だ。
「俺は期待されてなかったら、見返してやるって思うけどな」
「残念ながら、桔梗みたいな負けず嫌いは多くないのよ」
桔梗は平然と言ってしまうが、誰も彼もがポジティブ思考の持ち主ではない。大抵は期待されなければ、やる気が下がる。
「特殊な桔梗は置いておいて、次に進めましょう」
「褒めてんのか? 貶してんのか? どっちなんだよ……」
「ストレスを俯瞰で見て、自分のストレスを小さくする」
桔梗を無視して華薔薇は説明を続ける。
「過剰なストレスはこの世の終わりみたいに深く考えるけど、実際は取るに足らないのよ。私の心の友はラベンダーのストレスだって贅沢よ。世界中には勉強したくても勉強できない人たちがたくさんいる。悪いけど今日食べるものに苦労する人たちからすれば、勉強できるのはとても幸せなことよ。自分が恵まれた環境にいることを自覚なさい」
世界から見れば私の心の友はラベンダーより劣悪な環境で過ごす人々の方が多い。衣食住が満たされ、多少頭が悪くても生活でき、余った時間に娯楽で楽しむことができる。
これを恵まれたと言わずしてなんという。
もちろん桔梗も華薔薇も恵まれた側だ。
「世界と比べても仕方なくないか。俺たちとは関係ないし」
「あくまでストレスとの付き合い方の一例よ。言っちゃ悪いけど、自分より下がいると思ってストレスとおさらばできるなら、利用しない手はないでしょ」
自分は恵まれた人種だと吹聴すれば反感を買う。心の中で思う分には誰も傷つけない。
「下に見るのが嫌なら、感謝にしなさい」
「病院にお世話になってる人?」
それは患者よ、桔梗のボケは流れるように処理される。桔梗、がっくしである。
「感謝よ、感謝。生んでくれてありがとう、食べさせてくれてありがとう、学校に通わせてくれてありがとう。日々の風景に感謝するのも、ストレスの俯瞰になる」
「つまり、雑談してくれてありがとう、華薔薇。でいいのか?」
「どういたしまして。常日頃から感謝して、恵まれた環境を忘れなければストレスももっと減るでしょうね」
日常的に感謝すると幸福度が上がるという研究もある。感謝はストレス対策に有効かつ幸福度にも影響する一石二鳥な手段だ。
他にも感謝すると運動量が上がったり、貯金するようになる。一石二鳥どころか一石三鳥、一石四鳥である。
何より簡単にできるし、時間も場所も問わない。お金もかからないのでお手軽にできる。思い立ったら感謝、の気持ちでストレスとうまく付き合えるようになる。
「それなら毎日華薔薇に感謝したらいいな」
「いじめてくれてありがとうって」
「そうそう毎日言葉責め……って違う。俺はドMじゃない、ノーマルだ」
「あー、はいはい、ノーマルね、ノーマル」
気のない返事にさらに疲れる桔梗だ。何を言っても通じない相手は大変苦労する。
「ハグも効果ありね」
「はぐ? 抱き合うことか」
「そうそう。愛してる人と抱き合うと愛情ホルモンと呼ばれるオキシトシンが分泌される。オキシトシンはストレスを和らげる効果がある」
ハグをする相手は恋人でなくとも、家族や友人でもいい。大切なペットでも問題ない。
オキシトシンは愛しい存在との繋がりを強く感じると量が増える。
ただ日本では日常的にハグする習慣がないので、相手を見つけるのは苦労するかもしれない。
「なら華薔薇、ハグしよう」
「嫌に決まってるでしょ。冗談は存在だけにしなさい」
桔梗の提案はすげなく却下される。雑談する間柄は確かだが、ハグするような親密な関係には至っていない。
「ショックだ。冗談な存在ってなんだよ……」
ハグが拒否されるのは想定しても、存在が冗談な発言は予期できない。何もかもが認められていないことに桔梗はひどく落ち込む。
「ネガティブバイアス」
「ん?」
「人間にはおかしなことやマイナスなこと、ネガティブなニュースに意識を向けてしまう性質がある。それがネガティブバイアス」
ニュースやワイドショーが不倫や殺人事件を大々的に扱うのは、この心理を利用しているからだ。動物園でイルカの赤ちゃんが生まれた、少年の難病が完治した、では引きが相対的に弱いのだ。
「人はね、無意識の内にネガティブに引き寄せられる。だから、意識しないとポジティブはやってこない」
広大なサバンナで人類が生き延びるには危険に強く反応しなければならなかった。ネガティブに反応し、ネガティブを覚える、人類が長い年月をかけて身につけた機能だ。
楽しいや面白いというポジティブな感情は生存戦略に必要ない。故に後回しにされてきた。人類の最大の目的は子孫を残すこと、毎日楽しく生きることを優先していたら人類は滅びていた。
「どうしようもないけど、長年かけて培った能力は覆せない。だから桔梗がネガティブに反応するのは仕方ない。でもね、私はストレスのメリットや付き合い方も話していたでしょう」
落ち込むくらいなら実践しない、と華薔薇は諭す。
「なるほど、実践の機会をくれてたのか、サンキュー」
「……」
話の流れに身を任せただけで、華薔薇は実践の機会を与える意図はなかった。
「最初はストレスの原因を見つけるんだよな。これは簡単、華薔薇の言葉責めだ」
桔梗は今日の雑談を思い出す。
「ストレスの原因がわかったら、付き合うか、別れるか。ストレス対策は教えてもらったから、付き合う必要はない。だったら今すぐ部室から出ていく、なんだろ上手く脱出できるイメージが浮かばん」
どのような結論を出すか華薔薇は見守る。
「このまま付き合うなら……新しいことにチャレンジしててもストレスなんだよな。新しい知識を得ようとしてるから、ストレスを感じてる。これは大丈夫なストレスだよな。だったら、このままで問題ない?」
「そろそろ結論は出たかしら?」
タイミングを見計らって華薔薇が声をかける。
「おう、もっと話そうぜ」
桔梗は雑談を続ける決断をした。
「ならもう少しストレスに有効な手立てを雑談しましょう。βエンドルフィンという脳内物質を知っていて?」
「いや全く知らない」
恥ずかしげもなく桔梗は無知をさらけ出す。
「βエンドルフィンはストレスがかかった状態からストレスのない状態に戻してくれる物質よ」
「ストレスの医者か」
元の状態に戻すという意味では、医者と表現するのもあながち間違っていない。単なる脳内物質としか捉えられない華薔薇にはない考え方だ。
「このβエンドルフィンはね、笑うとたくさん分泌される」
「笑うだけでストレス解消になる。つまり深夜のバラエティ番組を見ても、ストレス対策してる言い訳になる」
バラエティ番組で笑えばストレスは発散される。しかし深夜のバラエティ番組をリアルタイムで視聴していると睡眠不足となり、別の問題が発生する。
桔梗が万全の体調を手に入れるのは遠いのかもしれない。
「単純に笑っている間はストレスに目を向けないでしょ。些細なストレスなら、そのまま忘れてしまう」
「笑うってすげーんだな。教えてくれてありがとな、華薔薇」
ルンルン気分の桔梗はバラエティ番組を見る大義名分を手に入れた。視聴する番組に思いを馳せていた。
「さて、今回の雑談はこんなものかしら」
「えっ、終わりか?」
「ストレス対策なんて雑談しだしたらキリがないわよ。これ以上は桔梗も、覚えられないでしょ。ゆっくり着実に進めていくのが大事よ」
「何を進めるん?」
「ストレス対策に一番効くのは、ストレス対策をたくさん知ることよ」
ストレス対策において大事なのは質より量だ。たくさんのストレス対策を知っているだけで、ストレスそのものに強くなる。ストレス対策をして効かなくても、別の方法があると知っていれば心に余裕が生まれる。この余裕がストレスを遠ざけてくれる。
「なんじゃそりゃぁ」
「驚きついでにもうひとつ、ラベンダーって不安やストレスにとっても効くのよ」
ラベンダーオイルをディフューザーなどで吸い込む、ラベンダーオイルのサプリを摂取する、ラベンダーオイルを使ってマッサージをする、いずれもストレス対策になる。
「それが、なんだよ」
華薔薇の意図がわからず桔梗は首を傾げる。
「深い意味はないから、安心しなさい。ともかく今日の雑談部の活動は終わり。桔梗はさっさと帰りなさい」
「なんなんだよ、まったく。今日もありがとな華薔薇、また明日」
「ええ、さようなら」
手早く身支度を整えた桔梗は挨拶をして部室を出ていく。華薔薇も部室に残る用事はないので、すぐに部室を後にする。
私の心の友はラベンダーは既にストレス対策を実践していた。なら効果がなかったのか、それとも方法が間違っていたのか。華薔薇にもその答えはわからない。
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