恋、変、愛
炬燵
私と彼の放課後
「君はさ、恋と愛の違いって何だと思う。」
そんな彼の問いかけに呼応するかのように遠くでホイッスルが鳴った。
放課後、いつものように教室で勉強していた時のことだった。
そして、彼が突然一種哲学とも呼べる問いを投げかけるのもいつものことだった。
「うーん、どちらも他者に好意を向けた状態だとは思うんだけど…」
「違いを聞かれると困る?」
「う、うん。」
彼は長い睫毛を夕日に反射させながら、何もかもを吸い込んでしまいそうな瞳で私の顔を捉え、真っ直ぐに見つめた。彼に正視される度、私なりに真摯に応えなければと思う。
「でも、そうだな、えっと重さ、深さ、どれもしっくりこないな。
あ!そうだ、密度だ。密度が違うと思うな。愛はぎゅーと詰まっているけれど、恋のほうはなんだか地に足のついていない、ふわふわした感じ。」
我ながら抽象的で擬音ばかりの答えだったとは思うが、哲学なんて抽象的で曖昧な学問なのだから、精一杯考えたこの返答で十分だと思いたい。
「なるほどね、そっか。」
そう言うと、彼の中で反芻したいのか、黙り込んでしまった。私は大したことも返せていないのに。
ふと校庭を見やると、サッカー部が練習試合をしていた。さっきのホイッスルはどうやらここから聞こえてきたらしい。
「君はいつも真剣に応えてくれるね。あの時を思い出すよ。」
“あの時”とは彼とこうして親しくなるきっかけとなった、小説の感想を言い合った現代文の授業の時のことだろう。もし同じ班になっていなかったなら、彼とは卒業まで私的に言葉を交わすことすらなかったかもしれない。それくらい、住む世界が違う存在だった。
「そうだね、あなたの考察はとても面白かった。私の中には全くない考えだったけど、なぜだかすごくしっくりきた。
ほら、早くあなたの解釈を教えてよ。」
と、話の続きを促した。彼と話しているとつい彼に似た口調になってしまう。あなた、なんて他の誰に対しても使ったことのないのに。
彼は軽くうなずいて、
「最近、好きって、好意って結局何だろうと、どうも悩んでいてね。だから、僕なりに好意を分類すれば、少しすっきりするかと思ってね。それで、『恋』と『愛』の二つに分けることにしたんだ。
まず、辞書で意味を調べてみたんだ。参考にしようと思って。すると、驚いたことに恋の対象は異性としか書かれていなかったんだ。
でもさ、友人に抱く友愛以上の、嫉妬、憧憬、独占欲が入り混じった感情なんて大概が恋だろうに。そこにおいて性別がどうとか論じる必要すらないよ、むしろ無粋さ、そんなもの。
それでいて、愛はとても広義的だね。たくさんの意味が包括されいたよ。おそらく、他言語では言い分ける愛の形を日本語では一括りにしてしまうからなんだろうな。
そんな訳で調べたけれど、僕にはあまり参考にならなかったよ。恋の対象にも納得がいかなかったし。
それで、まだ話を続けてもいいかな?」
もちろん、と答えた。いつも彼の話は新鮮で面白くて、私の視野を広げてくれたし、彼の辞書への感想には賛成だった。私の彼に対する感情を恋と呼べないなんて歯がゆかった。
「ありがとう。とりあえず好意を向ける対象は特に決めないことにしたんだ。
で、まず『恋』だけど、『恋』はね、相手に理想像を押し付けて勝手に憧れて好きになっている状態だと思うんだ。
そして、そう実に対照的だね、『愛』は対象を真っ直ぐに見つめて、長所だけでなく欠点も含め熟知したうえで、それでも一緒にいたいと思える、そんな感情だと思うんだ。」
はて彼は本当に同い年だろうか。彼の考えは私よりずっと深いことは百も承知なのだけれど。単純な読書量だけならあまり大差ないはずなのだ。彼を考えさせるのは触れてきたものの種類だろうか、人を惹きつける彼の外見と性格の美しさなんだろうか。
「なるほどね。相変わらずあなたはすごいね。今回もいい解釈だと思うよ、しっくりきた。恋の話なんて付き合ってもすぐ分かれちゃう私たちの周りの子たちをよく表してる。」
彼の話に比べ、私の返答のなんと冴えないこと。
「そうかい?同意してもらえると嬉しいな。そうだね、そんな実例も思い浮かべながら考えたんだ。結びつけてくれて嬉しいな。
ほら、『恋は盲目』って言葉。そこから連想していったんだ。」
案外、私の返答も的を射ていたらしい。
校庭からは歓声が聞こえた。どちらが優勢なのだろう。
「そうだったんだね。でも、あなたの話す愛を体現するのは難しそう。ほら、妥協もあるじゃん。一緒にいる人を選ぶのって。」
「うん、君の指摘した通り、果たして実在するのか、言った僕ですら疑問に思うよ。
でも、恋だって悪いものって訳じゃないよ。冷めるまではお互いが都合の良い夢を見ている状態なんだから、ある種、愛より幸せで文字通り夢見心地だろうね。」
試合終了を告げるホイッスルが聞こえた。
私と彼の間には長い、少しの時間が流れた。
そして、チャイムが最終下校時間を知らせるために校内を渡り歩いた。
「もうこんな時間か。長いこと話を聞いてくれてありがとう。少し待ってて。」
そう言うと彼は教室を出た。
私は待っている間、校庭を眺めた。ちょうどサッカー部が片付けを行っている最中だった。勝敗はわからなかった。
「ごめん、お待たせ。いつもごめんね。」
スカートへ履き替え、戻ってきた。
そう、あのチャイムは彼にとって午前0時の鐘であった。変身が解けて、クラスのみんなから好かれている『彼女』へと戻る合図。
「ううん、別に気にしてないよ。」
気になって、前に一度着替えるのが手間ではないのかと尋ねたのだが、切り替えるトリガーとしているので、むしろ必要なことらしい。確かに、前まで綺麗な子という印象以外は彼女に抱いていなかったので、この切り替えはうまくいっているのだろう。
でも、だからこそ今日こそは彼女に聞いてみければならないと思った。
「あの、さ。今更かもしれないけど、あなたの家族とか、あと、ほら、他のみんなには、」
どうにも二の句が継げなかった。内容のせいもあるし、彼には心を開けても、まだ彼女に対しては別の人のような気がして、緊張してしまっていて、そして相変わらず好きになれない自分の性格のせいでもあった。
「あぁ、打ち明けなくていいのかって話ね。私としては別に構わないのよ。
だって、結局あなたの言うところの“みんな”は私に恋してるだけじゃない。クラスで上手く荒波を立てずに過ごしているだけの、『私』に。」
そんなの私だって同じとは言えなかった。
「それにね、別にいいの。大好きな友達や家族と仲良く円満に過ごせるなら、いくらでも道化を演じてやるわよ。それが私自身の『幸せ』であり、みんなへの愛よ。まだ愛の完成形には程遠いけれど、結局ただのエゴと言われてしまえば、それまでよ。
でも、言ったでしょ、恋も悪いものじゃない、ある種の幸せだって。」
彼女は真剣に答えてくれた。もうこれ以上は危険と脳内でアラームが鳴り響くが、私はそれを無視して、彼女へ再び問いを投げる。
「でもさ、その大好きな人達にずっと大事なことを隠しているんでしょ、それは辛いことではないの。それに、彼は…彼は幸せなの。」
一息に吐き出した。私が踏み込みたくて、でも怖くて言えていなかったこと。
「慌てないで、落ち着いて聞いてね。
まず一つ目ね。そうね、心苦しさはあるけど、打ち明けた後の反応が怖いのよ。受け入れてくれても、そうでなくても、今の関係とは変わってしまうに違いないって思ってしまって。この現状が私なりの精一杯なのよ。
じゃあ、二つ目ね。これは完全にイエスよ。別に私は二重人格ではないし、彼は私であり、僕は彼女だからね。
ちょっとわかりにくいかしら。あくまで私は彼の一面に過ぎなくて、これは人間関係を円滑にするために建前と本音を使い分けることの延長線上にあるのよ。僕が私を内包していて、だから私の意見と彼の意見は同義と捉えて欲しいかな。
それに加えてもう一つ。私には君がいる。僕のことを知っている人がね。このことを忘れないで。また明日もこうして話を聞いてくれる?」
「うん、もちろん。」
警報を無視して良かった。
あなたが幸せと感じるなら、もう何も言うまいと思った。
少なくとも私の前では幸せに見えるのだ。
「あら、もうこんな時間。帰ろうか。」
「あ、本当だ、ごめん、色々聞いたから。」
「大丈夫だよ。」
そう言葉を交わしながら校舎を出た。
また明日と言って、彼女の後ろ姿が闇に飲み込まれるまで見送った。
「私のこと、買いかぶり過ぎだよ。」
そう独り言ちた。
それに、きっともっと曖昧でいい。恋と愛の線引きとか、性別の違いとか、そういったもの、全部。
そんなことを考えながら大きく息を吐いた。数回深呼吸をして、どくどくと騒ぐ心臓の音を抑えながら、一人帰路へついた。
校庭には一つ、サッカーボールが残された。
恋、変、愛 炬燵 @yunopi
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