第3話 街角に凍雨



電車を降りるとホームには人が少なく、冬の終わりの冷たい風が全身を打った。同じ車内から降りた数人が寒そうに背中を丸めて階段を降りていくのを眺めながら、ゆっくりと歩き始める。


人の出入りの少ない駅で待ち合わせをするのは知り合いの目を避けるためだけじゃなかった。大学もお気に入りの店も友人の家もない歩き慣れた街は、不思議といつも理性的でいようと思える。


改札横の自販機で温かいレモンティーを買ってから外へ出ると、少し前に流行った映画のポスターの前に恵介がいた。


「よ、一ヶ月ぶり?」


「そんなことよく覚えてるな」


ろくに挨拶もせず通り過ぎるように歩くと後ろから恵介がついてくる。「相変わらずきっついね」と少しの傷ついた風もなく応え、当然のように車道側を歩きはじめた。


彼氏かよ、と言葉にせずに毒づき、しかしそれ以上は無理に踏み込んでこない距離感にほっとした。これから行く先は誰が見たって関係を疑うようなところなのに。


普段都内でも一等地にある大学に通っていると、電車でたった20分の郊外もずいぶんと遠くまで来たような気になる。


はじめて駅に降りたときは誰もぼくを知らないのだという安心があって、それでもやはり人目につくことが怖くて、隣に恵介がいてもどこか心細くて、自分の混乱に正しい判断がつかないままホテル街へ進むとどうでも良くなった。


代わりに帰り際は妙に腹立たしくなって八つ当たりして別れ、三ヶ月は会わなかった。遠いところへ行くというのは目まぐるしいことなのかもしれない。


今でも道行く人たちに自分の姿がどう映るだろうと考えれば恐ろしくなるけど、この街でだけ、と思えばやはりどうでも良くなった。「律希、いい?」と少し遠慮がちに聞かれるのも、薄暗い気持ちが重なり合うのも、あからさま過ぎるホワイトローズの芳香剤も、この場限りのことだ。あなたのことだって、きっといつかはそうなる。


華奢な体が嫌だった。男らしく、と他人に言われるまでもなくそうありたかった。でも自分の性が嫌いだった。矛盾し合う感情が自分の芯の部分に絡みついて離れなかった。性別という生き物の大きな枠組みに嫌われている。何度も吐き気が腹の中を揺さぶった。


人を好きになったところでその気持ちに始末がついたりはしない。そんなことは痺れるほどわかっていた。でも楽しそうに話す横顔が少し上にあること、「似合わないだろ」と言いながら煙草を挟む指先、それらひとつひとつが特別に思えた。


ちぐはぐだったものが、あなたといるとひとつになるような、曖昧だけど確かな輪郭のある手触りを感じた。


いや、でも、だから、


「これ以上は望まない」


そうつぶやくと煙草の煙を吐き出した恵介が振り返ってこちらを見た。すっきりと肉付きの薄い背中は彼の陽気さとは不似合いに繊細そうだった。


「大地さんはこっち側の人じゃないんだよ。それなのに、これまで十分すぎるほど優しくしてもらったんだ」


「だから振られるために好きでいるって?」


ふられるためにすきでいる。喉に詰まったような異物感を無理やり飲み込んだ。窓のない部屋の息苦しさは換気ができないことだけじゃないらしかった。


「なんか身も蓋もない話だな」


恵介は短くなった煙草の火を灰皿に押し付け、ベットの下に落ちていたカーディガンを羽織った。


「そうやって物分りの良いふりして、苦しくね―の」


「ぼくは恵介みたいに強くないんだよ」


言い終えてからはっとした。ベッドに浅く腰掛けた恵介は苦笑いするだけで何も言わない。


「ごめん」


「良いって、俺は好きでやってんだから。付き合わせてるのは俺の方だって言っただろ」


そうは言っても、と口にしかけて止めた。どう見たって都合のいい身体の関係でしょ、なんて言葉を投げたところで何を変えられるわけでもない。


ぼくは恵介の優しさに甘えている、いや付け込んでいるのだ。どうなれるわけでもないくせに、落ち着かない朝の陽光に嫌気が差したときばかりに頼って、会いに来させて。そのうえで「強いね」なんてぼくが言っていい台詞ではなかった。


恵介とふたり分の距離を開けてベッドに深く座り、顔を見ないまま小さくつぶやく。


「でも、苦しくないの、こんなの」


毛足の短い絨毯の模様を目で追っていると、恵介がスローモーションみたいにゆっくりと体制を変えるのがわかった。ベッドのスプリングがわずかに軋んで頼りない音がする。


「そう思うなら俺にもちょっとくらい優しくしてほしいもんだけどな」


「、ごめん」


「ちょ、バカ、本気にするなよ」


そう言いながらふたり分の距離を詰めずに腕だけでぼくを抱き寄せる。しかし手触りの良い生地越しの肌は少し震えている気がして、顔を上げる。


蝋燭のように弱々しい灯りの浮かぶ恵介の顔には、何もなかった。悲しみも、切なさも。ただ少しの諦めがあって、肩越しにぼくだけが飲むレモンティーが寂しげに2本並んでいた。


それが恵介が努力をして手に入れたものなら、いつからこんな風だったんだろう。強いと思っていた彼も、かつてはぼくみたいだったんだろうか。それとも恵介が強いんじゃなくて、ぼくが弱いんだろうか。


「身体の関係だっていいじゃん」


耳元で囁かれた空虚な台詞に甘えてしまわないように、ぼくは恵介が気に入って吸っている煙草の強いメントールの煙が嫌いだと思い直す。大地さんが、あなたが吸う煙草の香りには安らぎすら感じるのに。


しかしこの気持ちすらも明日粉々になるためにあるのだと思うと、自分の不毛さに少し呆れた。


中途半端に隙間風の通る肌の間が冷えないようにエアコンの温度を上げ、もどかしさを抱えたまま眠った。夜はいつも短くて長くて、うんざりした頃にようやく朝が来る。あなたの待つ朝が来る。


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