第2話 窓際に霧雨



二階の講義室の窓から外を眺めていると、真下にある出入り口からわっと人が出てきた。4時限目の講義が終わったあとの人だかりは、次の講義へ向かう人とサークルやバイトへ行く人で散り散りに別れていく。


曇り空の寒々しい学内が束の間忙しくなって、静かに閉じていた気持ちがにわかに騒ぎ出すのがわかった。


20人分の机と教卓、黒板があるだけの講義室は大学というよりも小学校の教室のようだった。前の時間の講義をとっていないぼくは、まだ誰もいない部屋の窓際の席にもたれて何をするでもなく待っている。あなたが窓の下を通るのを眺めるために。


まるでストーカーのようだけど、それを教えてくれたのは紛れもないあなた自身だった。


出入り口に人だかりができるのと同時に、手狭な教室も徐々に埋まり始める。その中には同じ学科の友人も何人かいて、テキストも出さずにいる呆けていたぼくの席の周りを陣取った。


「律希、誰か可愛い子いた?」


「ここからじゃわかんねーよ、バーカ」


隣の椅子を引いた山下が外を指差しながら言った台詞に、表情を強張らせながらもおどけた調子で言葉を上塗りした。すると短い笑い声とともに話題は自然と別の方向へと移っていく。


思っていたよりもずっとうまく取り繕えていたことに安心を覚えながら、山下の話に耳を傾けた。


「絶対にいけると思ったんだよ」「思わせぶりなことしやがって」。言葉こそ物騒な響きだったが扱う口調は軽く、みんなが笑っているからぼくも笑う。別のやつが「あたしはそんなつもりなかったのにぃ」と裏声で合いの手を入れると更に場が湧いた。背筋に冷たい汗が走った気がした。


誰かに気持ちを伝えるのに勝算が必要なら、あのときのぼくはなんだったのだろう。小指の先ほども受け入れてもらえるなんて思っていなかった。


ただ、もう耐えきれなかった。


夜のサークル室であなたとふたりきりになるなんて、珍しいことではなかった。だけどあの日の暗闇はやけに濃くて、静かで、前触れもなく胸騒ぎがした。突然今まで抑えていたものが吹き出してしまいそうな予感がして、あなたの少し上気した頬が怖かった。


誰の足音もしない部屋で、簡素なパイプ椅子に腰掛けたあなたは言った。右の眉を下げて「俺って、女の子にとって都合がいいみたい」。


視線を漂わせた横顔に見惚れる前に、目の前のノートパソコンに集中したふりをする。あなたがぼくを試すはずも、そんな必要もないのに、ふくらはぎの裏から背筋にかけてがじわじわと熱くなった。


その熱をどうにか誤魔化そうと、一行も進まないレポートに視線を落としながら「男からは愛されますよ、大地さん」と言うとあなたの拳が飛んでくる。骨ばった指の関節が柔らかく肩にあたった。


それらの何気ないひとつひとつが距離感を狂わせたのかもしれない。あなたにとっては適切な距離でも、ぼくにとっては近すぎた。これ以上近づいたら勘違いしてしまうと警告音が聞こえたが、ぼくは従うことができなかった。


次の瞬間には身勝手にあなたの首筋に触れ、愛おしさのようなもので満たされると同時に憎らしさに支配されていた。あなたはなにも悪くないと思うのに止められず、突き飛ばされるまでに薄っすらと赤い痕をつける。


それを見た自分がどれだけの満足を得るだろうと想像していたのに、現実にはただ胸の奥が空いただけだった。混乱した頭の隅で、ぼろぼろと崩れ落ちる音がこだまする。


どうして築き上げてきたものを壊してたくなってしまうのだろう。


ぼくには山下の言葉が無神経だと感じるのと同じくらい、その溌剌さが切実に羨ましくもあった。


黄色味がかった西陽が顔の横をすり抜けて黒板にあたる。あと数分で次の講義がはじまろうとしていた。みんなの笑い声に調子を合わせながらも、鼓膜は小器用に「大地」と呼ぶ誰かの声を拾ってしまう。振り向きそうになって、こらえる。


どうしてぼくに教えたりしたんですかと、音もなくぼやいた。


このままの状態に耐えられなかった。無意味にそばにいることを許されて、まるで友達みたいに「大地さん」なんて、呼んではいけなかった。結局はあなたが出ていった湿っぽい部屋で「壊さなければ明日もこのまま、」なんて無責任なことを考えて、あなたの近くにいたことばかり強く自覚する羽目になる。


だからぼくは何度も思い出す。もはや再生しすぎて細部がグズついた映像を狂ったように見返しながら、下まぶたの縁が赤く粟立ったあなたの瞳を焼き付けていく。もう痛いのかもわからない色が油性ペンのように滲んで、まだらに痕を残した。


それは小さな子ども用のスコップで作った砂の城を壊すときの、あの泣き出しそうな気持ちに似ていた。


影のばらついた公園、五時を知らせる夕焼け小焼けのノイズ、背の高いススキ林がざわりと帰宅を急かしてくる。振り返った砂場のだらんと平らかな景色にいずれ終わりが来ることを、子どもたちは怯えながら学んでいくのかもしれない。そうして最後には砂遊びなんかには見向きもしなくなるのだ。すべては時限爆弾だった。


あれ以来あなたには会っていない。


面倒くさがりのあなたのことだから、短かった襟足はいくらか伸びただろうか。窓の真下から楽しそうに両手を振るあなたが蘇ると、周囲には必ず誰かの顔が点滅する。そのことが堪らなく不公平な気がして、一番好きなのに、一番遠い。理由は、もう擦り切れるほど反芻したのに。


これ以上何も言わなければ辛い思いをせずに済むんだろうか。時間がすべて解決してくれたりするんだろうか。いずれ訪れる別れを少し早めただけにすぎないと自分に言い聞かせる。


チャイムと同時に教授が入ってきて、それぞれが自然と席に落ち着いていく。小さな教室の中は半分ほど空のままで講義が始まろうとしていた。


スマホをマナーモードにしておこうと鞄の口を開くと、ぽこんと電子音とともに新着メッセージが届き、なかったことになどできないと思い知らされる。


あなたの好きだったところが、容赦なくぼくを追い詰める。少し近すぎる距離も、いつもの満ち足りた笑顔も、誰にでも優しいところも、正直すぎる性格も、あなたのすべてが残酷に変わるなんて、好きにならなければ知らずにいられたのだろうか。


マナーモードに設定しながら目を通し、反射的に西陽の眩しい外を見る。誰のどんな話を聞いていたって抗いようがなく、そういう自分の女々しさが心の底から嫌だった。


もう一度スマホが鳴る。「来週の木曜の午後、時間あるか」。あなたからだった。




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