砂城に夕立ち
七屋 糸
第1話 廊下に通り雨
あなたの声がして、ドアノブにかけた指が躊躇う。まるで初めて訪れる場所のように身体が強張り、鈍く光るノブからは不気味に冷たさを感じない。爪先にまで走った緊張で凍てついた手は死人のよう白かった。
中では男の先輩ばかりが数人集まって盛り上がっているらしかった。誰かが付き合っている彼女の愚痴を面白おかしく話している。時折どっと湧いたように笑い声が高くなって、あなたの気配が色濃く交じる。他愛のないお喋りをだった。
しかしひとり廊下に突っ立ったぼくは呼吸が止まる。自分に向けられた言葉でもないのに、折れたカッターナイフの刃が飛ぶ交差点に身を投げ出したような感覚だった。細かな刃のひとつひとつが肌の一番柔らかい部分を削いではフツリと赤い血の玉を作り、硬質な床に落ちていく。何度も、何度も、確かめるようにそれを繰り返す。しかしいつまでたっても致命傷を与えてはくれなかった。
黄味の強い古めかしい電球の明かりが足元を照らしている。あまり手入れをしていない革靴の先端には薄っすら埃と削れたあとがあって、中に入ることも立ち去ることもできないぼくはそれをじっと眺めていた。頭の中にはあの夜の、唇で触れた首筋の冷たさが蘇ってくる。
乱暴に触れた肌はとても滑らかで、かすかに産毛の柔らかさを感じた。押し入った内側は想像よりもずっと温かくて、受け入れられているような錯覚が克明に残る。まるで想像もしていなかった感覚に支配されかけた瞬間、突き飛ばされた衝撃と共にあなたの怯えた目がぼくを見た。
薄くいびつに開いた唇が「信じられない」と無言で訴えかけてくる。
唐突に我に返って、自分が全て壊したことを自覚した。それは衝動的であると同時に、確かに自分が願ったことでもあった。相手の同意もなく肌に触れるということは、あなたが寄せてくれていた信頼のすべてを泥舟に流すということだから。それがたとえ友達であっても、同性であっても。
これ以上望んではいけない。十分すぎるほどに幸せだったと思って、薄暗い廊下の隅で唇が擦り切れるほどつよくこする。
長い廊下の入口側から何人かの生徒の話し声が聞こえて、ようやく賑やかな部屋を離れた。
冬の終わりの気配が寒くて、ぼくは両手を強く握り合わせていた。
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