交換可能な人間

 私は日雇いの仕事をしていない時はいつも、互生の活動に入り浸るようになっていた。というのは互生はその成り立ちから言って互助団体なので、私のような金のない人間からは会費を取らないのだ。私が苦しいというのは、本質的には金のないせいではない。私と言う存在が交換可能であることだ。金がないと言っても、もっと金がない中で愉快に暮らしている人は沢山いる。けれども私が交換可能な存在として扱われることは耐えがたい。私は「日雇いのバイト」であり「ネカフェの客」であるけれども、「田中冬子わたし」として扱われない。私がどんな人間であるかとか、母から受け継いだパン屋を潰してしまったこととか、私が丹精込めて焼き上げるパンとかについては、一顧だにされない。工場でも、ネカフェでも。もっというなら、認めてもらえないから金がないし、金がないからさらに認めてもらえないのである。金、金、金! そしてその金すら刷られている通し番号が違うだけで交換可能なのである。金は交換可能性の象徴である。

 互生では違う。

 誰もが私の話を聞いてくれる。私の身の上話に涙する人もいれば、もっとひどい目にあってきた人たちもいる。私が菓子パンを焼けばみんな喜んで食べてくれる。私しか持っていない技術を提供することで人から喜んでもらえる。その対価としてお金ではなく、他の人の持つ技術を提供してもらえる。互生は本当に天国のようなところだ。けれども互生の経典によれば、本当の天国はこの世ではなくあの世にあるという。それではここはなんという人の努力で築き上げた天国の模倣であることか!

 毎日互生の集まりに足を運ぶ日々が二年ほど続いたある日、私はついにネカフェではなく、互生の集団住宅に入れることになった。それは一階が食堂、研修室、祈祷室、自販機などの共用スペースになっており、二階から上がワンルーム型のマンションのようになっている。私は夜中に完全に真横になって寝られるし(ネカフェの時は狭い個室の床で体を屈めないといけなかった)、お風呂もシャワーではなくて湯船に浸かれるし、何より住所があるから様々な公共・私的なサービスに接続できる。私はようやく一個の人間に戻った気がした。一緒に住んでいる人たちはみな互生の人たちで信頼できる。彼らと技術を交換しあって助け合うことで生活費も抑えられるし、何より生き生きと暮らすことができる。平日の昼には日雇いの仕事に出なければならないことは変わらないが、帰宅後や土日は祈祷したり、お互いに話をしたり、楽しいことをして暮らしてゆかれる。

 私はこのまま凡庸な信者として暮らして死ねたらそれで幸せだったのだが、もっと飛んでもない幸せが向こうから飛び込んでくることになる。

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