計画、決意、可燃性のある液体などで満たされる
島には消防車が一台しかない。それに加えて男衆が強制参加の消防団があり、年に何度か訓練をしているが、それは貯水槽からのホースによる放水でしかなく、貯水槽の近くにある家は消化できる程度の能力しかない。それはそれで有意義なことではある。この狭い島で数百人が暮らしていく分には、消防車一台とそれを補う消防団があれば大ごとにはならなかった。寝たばこや農機用のガソリンの不始末で家が一軒燃える程度のことは、十年に一度程度はないこともなかった。けれども延焼して大きな被害を出すようなことはこれまでになかった。逆に言えば、消防車が出動できず、消防団で対応しきれないような同時多発的な放火を行えば、この島のほとんどを燃やし尽くすことは不可能ではない、ということである。
消防車からガソリンを抜けば、燃料の確保と出動の妨害とで一石二鳥だろう。後は島の周りにある森で同時に火を起こせば全てを燃やし尽くすことができるだろう。そのこと自体は難しいことではない。相根は山中の隠れ家で何日も本を読み漁り、設計図を素人なりに書いてみて、一つの装置を設計した。それは主な材料として目覚まし時計、釘、木製の箱、三重にしたのちにテープを貼り付けて強度を増したビニール袋、そしてA液とB液とガソリンとを備えている。読者諸兄らは家庭科の授業で、異なる種類の洗剤を混ぜると毒ガスが発生することを習ったことを覚えているだろうか。あるいは化学の授業で、混ぜたら高熱を発する薬品についてはどうだろう。私は犯罪教唆をするつもりはないし、実際、A液とB液が化学的にどのような性質を持つのかを詳述したところで物語に資するところはない。ここで重要なことはA液とB液は混合したら高熱を発して燃え出すことである。ただし混合しない限りは無害であるし、普段の生活で必要なものとして薬局やホームセンターで購入することができる。そこでこの装置には木製の箱の一番下にガソリンを入れたビニール袋、その上にA液を入れたビニール袋とB液を入れたビニール袋を入れ、一番上に目覚まし時計が入っている。目覚まし時計が鳴るとその振動で釘が押し出され、A液の袋とB液の袋を破り、そうして燃え出した炎が最下部のガソリンに引火して急激に燃え上がるという仕組みになっている。この装置の難点はアラームが12時間制であるということだ。例えば午後6時に火をつけたいなら、午前6時を回った後の12時間以内に装置を置いて回る必要がある。だがそれはさほど難しいことではない。部品の購入はホームセンターと薬局を回りつつ少しずつ買えば怪しまれないだろう。島に持ち込む際はカバンがブクブクに膨れ上がらないように注意して、その後山中の隠れ家に保管すれば問題ない。
それで、その後どうするか? 相根はそのことからあえて目をそらした。考えているようで考えない、考えないようで考える……そんな大火事の中で港まで行けるのか? 港まで行ったところで、自分が船を運転して逃げられるのか? 第一そんなことをしたら島の内部では済まない問題になる。追っ手は来ないかもしれないが、警察が来ることになるだろう。それは本末転倒かもしれない。けど、それで何もせずに大人しく嫁入りして、一郎の子供を産んで終わる人生が、死ぬる時に納得できるのか? その答えは、売春を始めたあの日から決めていたのではないか。
案の定、相根と一郎との縁談はするすると進み、相根も一郎もそれにはなんら抵抗できなかった。教育熱心な両馬は、娘が大学に行きたいと言っても何も思わなかったのだろうか? 両馬の、この孤島に就任する際に妻と離婚してまでも二つ返事で引き受けた、あの教育に対する熱意はどこに行ってしまったのだろうか? 熱意は……時間とともに擦り減るものだ。怠惰を安定と言い換え屈服を平和と言い換える精神が彼を優しくのんべんだらりとさせた。結局のところ、両馬とて、島で十年も暮らせば島の人間ということである。それに、彼はもう働き盛りの三十代ではなく……年功序列制度で若いころには不当に低かった、労働に対する対価をようやく取り戻しつつあり、加えて、島で全部の教科を小学生にばらばらに教える間に失われた専門性、サボりがちで本土から遅れた教材研究、対立を好まない穏やかな気性、最後には収まるところに収まるだろうという楽観視が、彼を強いて娘のために戦わせなかった。職を辞して、本土に戻って、私立高校や学習塾で教鞭をとって糊口をしのぐことはできないでもなかった。けれども誰が最善だが困難な選択肢を、しょせん家族と言う他人のために選べるだろう? いや、両馬がそんな人間なら、そもそも相根を完全に過去の生活から引きはがすようなことはしなかったのである。
他の島の人間たちからすれば、高校三年間の猶予を与えただけ温情だという気分でいた。
婚礼は相根と一郎が高校を卒業した後の、三月三十日に決まった。それは相根と一郎の卒業式が終わった後に、ある程度のリハーサルや衣装の調整を行うことを見越して十日程度の余裕を持った結果だった。また一郎は本土の大学に行くことが決まっていた。以前に一郎が述べたように、彼は島の跡継ぎとして大学まで行って勉強をするのだった。とはいってもそんなに偏差値が高い大学というわけでもないが、やはりそれは白沖家の息子たちの特権だった。それで一郎は四月七日には大学の入学式に出ないといけなかったし、そのためには式が終わった後にすぐ、
相根は不良たちに暇乞いをした時のことを思い出した。高校を卒業するから、もう売春もやめる、と言った相根を案外引き留めなかった。相根がやると言ったことはやり、やらないと言ったことはやらない、ということを彼らはもうよく知っていた。それで、卒業したらどうするんですか。上京するんですか。学費にするんですか。そんなことを聞いても答えが返ってこないんだから仕方のないことだというのもよくわかっていた。相根の一番の理解者は父親ではなく、売春を手助けしてくれる不良の元締めだった。もう、彼らと関わることもないだろう。ド田舎の島と、その沿岸にある高校の不良たち。一度袖すり合えば二度とは会わない合縁奇縁。でもそんな縁があったことは、まあ人生の悪くない面かもしれない。
目をそらすのはやめよう、と相根は思った。今日この日まで、脱出して警察から逃げ切る方法なんて考えつかなかった。だから、やっぱり自分も自分でつけた火に巻かれて死ぬしかない。けれども、港まで逃げる努力はしてみよう、とも思った。どんなにひどい状況でも戦おうとする気概が自分を今日この日まで連れてきたではないか。
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