三月三十日

 三月三十日は突き抜けるような青空に雲一つなかった。それでいて日差しは強烈と言うほどでもなかった。心地よい潮風が吹き抜け、気持ちよく草が揺れる。天と地と人がこの婚礼を祝福しているようだった。

 けれどもあたしは祝福しない!

 午前中は白無垢に着替えたうえで白沖家での神前式だ。神社ではない。白沖家はまさに神のようだ。その後軽い昼食を取り、村の家々を一周する。一軒一軒挨拶をして周り、白沖家の屋敷に戻るのは夜になる。精のつく食事が大量にふるまわれ、そして布団が二人分敷かれた和室へと続く。

 だから、14時に作動する装置を島の外周部分の島にばらけた状態で6個設置した。食事が終わるのが13時の予定だから、ちょうど白沖家を出て挨拶回りをしている途中に燃え出すはずだ。みんな挨拶回りに集まってくるから、気づくのは遅れるだろう。それに燃え出してから延焼するまでの時間も考えれば早めに越したことはない。前日の丑三つ時、体育のジャージでこっそり抜け出して装置を設置していくと、なんだかこういうのが性に合っている気がした。もちろん嘘だ。私は読書して、普通に勉強して、普通に本土で暮らしたかっただけなのに、発火装置を森に隠すのが性に合うなんてあるわけない。夜の森は暗くて危なくて、虫も不快だ。けれども……最後に見る月だけは、何よりもきれいに見えた。これがサウダージと言うものだろうか? いやいや、私がこの島の月を好きになるわけがない。

 午前中の神前式はつつがなく終わり、この島の基準で言うなら豪勢な食事が振舞われる。牛のフィレステーキに、卵、カキ、ウナギ。てんでバラバラな組み合わせは、露骨に夜を連想させる。

「なんやかんや言って、こうして式を挙げてしまってやることやれば、駄々をこねる娘も丸く収まるじゃろう」という囁きは聞こえているぞ?


 昼食を、この島で食べる最後の食事を食べて、白沖家の屋敷を出る。家々を回って結婚の報告をする。誰もが笑っている。父が笑っている。白沖家の当主のじいさんが笑っている。一郎も軽い笑みを浮かべている。島民たちもみな笑顔でいる。私だけが嗤っている。ハハ、めでたい。母さん、助けてよ。


 誰かが火事だ、と叫ぶ声がした。うまくいったのだろう。素人の手作り装置だし、実際に動作させて試すわけにもいかないから、ちょっと不安だったけどうまくいって良かった。次第に6つの煙が島を囲むようにたなびく。それは竹取物語でしか知らない富士山を彷彿とさせた。

「焦らず消防車を出動させろ!」

「そ、それが……消防車のガソリンが切れていて動きません!」

「なんだと!? ならば消火よりも避難を優先しろ! 出来る限り港に避難させるのだ!」

「トンネルはもう入り口が炎上してて通れません!」

「なら昔使っていた山道を使え! 足が悪いものは置いて行っても構わん! 一郎、お前が指揮を取れ!」

「おじい様も一緒に来てください!」

「いや、ワシはここに残る。ワシも足が悪いから、どのみちあの山道は超えられん。それに、責任も取らねばならんからな」

「責任……?」

「そう、この婚姻を進めなければこんなことにはならなかった。そうじゃろ、娘っこ」

「へえ、なんでわかったの?」

「お主一人だけ全く慌てていないのだから、誰が見てもわかるだろう」

「そう、わざとらしく慌てて見せたほうが良かった?」

「ほ、ほんとなのか相根……なんで」

「父親にすらわかってもらえないからこそこうしたの」

「両馬さん。一郎。早く避難するんじゃ。消防車がなければこれほどの火は消せない。けれども若い島民だけでも生き残れば、やり直すこともできるでしょう」

「同じ日々を?」

「ぬかせっ! お二方とも、耳を貸してはなりませんぞ!」

「白沖家が支配して、男は家を継ぎ女は嫁入りする、狭くて不自由で個人の尊厳を踏みにじる生活を繰り返すのかと聞いている!」

「……行きましょう、両馬さん」

「で、でも」

「相根といくら話したところで、状況は悪化するばかりです。僕らは僕らの出来ることをやって、反省はそれからすればいい。行きましょう」

 そういう一郎の表情は、苦虫を噛み潰したかのようにぐしゃぐしゃに歪んでいた。彼は白沖家の後継者として、不幸に対して思考停止しないだけの覚悟があった。同等の覚悟を両馬に求めるのは酷と言うものだ。妻になるはずだった女を残して、一郎は駆けていく。責務を果たすために。娘を残して両馬がついていく。訳も分からぬままに。


 火の手が広がり、すでに誰もが逃げまどっていた。逃げないのはただ二人。白沖家の首魁たる村長と高倉相根。一方は背が曲がり白髪を蓄えた、この島の代表。また一方は背筋を伸ばし豊かで艶やかな黒髪を伸ばした、本質的な異邦者。

「じゃじゃ馬娘だとは思っていたが、まさかここまでするとは思わなんだ。これまでこの島で嫁いできた娘たちも、不満こそ多少あれ、こんなことは一度もしなかった」

「私が一番度胸と知恵があったという証拠ね」

「このようなやり方をする意味があるのか」

「このようなやり方でなしに、あたしの言うことを取り合ってくれたのか」

「それは回答になっていないぞ。お前の言う、狭くて不自由な生活にも、それに満足した何百人もの人がいるということを蔑ろにしてくれたな」

「そんなことは、あたしの知ったことじゃない。なぜ私を尊重しない人間を尊重する必要がある?」

「悪魔め」

「悪魔なんてあんたは信じちゃいない。さっきの神前式だって神社じゃなくて、白沖家の屋敷でやったんだ。あんたは自分の家を絶対だと思っている。きっとこの島の中ではなんだってできると思ってるんでしょう」

「違うな、それはどうだっていいことだ。仮に我ら白沖家が没落したとしよう。この島の歴史では初めてのことだ……この放火の責任を取って政を執り行う立場から降りたとする。それでも、この島の連綿と紡いできた歴史は消せん。我らの遠いご先祖がこの島に降り立ち、まだトンネルも当然ない時代に苦労して山を越えて沃野に到達し、村を作った。小屋を作り、田畑を耕し、港を作り、社会を維持した。それらの重みに加えたら、白沖家の歴史や、ましてや個人の好き嫌いなど吹けば飛ぶ塵にすぎん。先人たちが積み上げたものに、我らが一つ二つの石を足す。我らの子も、孫も、それを維持し、積み上げていく。その伝統こそが守るべきものだ。お前が目に見えるものに火を放ったとしても、それらを壊すことはできない」

「伝統が正しいと信じ込む根拠は何だ。私はそんなものに同意した覚えはない」

「伝統はただそう在るもので、言うなれば、正しいから正しいのだ」

「まるでバカの詭弁ね」

「若いものにはそう聞こえるかもしれんがね。それに、仮に伝統になじめない人間が島を出たとして、我々が追いかけて引きずり戻すこともない」

「嘘だ。あたしが一日連絡便に乗り遅れただけで、下男を総動員して探したくせに」

「若い女が戻らねば、当然心配するに決まっているだろう」

「それもそうかもしれないけれどね、あんたらは私じゃなくて、一郎の嫁を探してたんだろう。この問題の本質は、あんたとあたしの間に会話するためのことばがないということだよ。あんたが何を言っても、あたしは信用できないし、だからこそこういう手段を取った。それは強引な婚姻という、個人の自由を奪いつくすやり方が一番の原因だ。同様に、あんたの一番大事にしてる村に火を放ったあたしを、あんたは信用できないだろう。なら、例え日本語が通じたとして、あたしとあんたは会話できない。間違ってるかしら」

「立場も違う相手と会話もできない人間が、寄る辺もない本土で生きていけるつもりでいるのか?」

「本土で生きていくつもりなんてないわ、どうせこの火からは逃げられない。仮に逃げられたとして、警察からは逃げられない。あたしはここで死ぬのよ。自由を抱えてね」

「生きること、生きることをつないでいくことよりも重要なことがあるというのは、狂人の考えだな」

「生存と群れの存続が何より大事だというのなら、猿でもやっていなさい。人は自由とプライドのために死ねるんだ。仮にそれが狂人だというのなら、あんたらがあたしを狂わせたんだ」

 その時、メリメリと大きな音がした。白沖家の屋敷が崩れた音だ。

「どうやら、本当に終わりのようね」

「そうじゃな。ワシはこのことを祖霊に詫びてくる。おぬしは勝手にするといい。これまでの人生で自分勝手だったように」

 伝統の重みにくたびれた老人は、杖で体を支えながら崩れた屋敷に歩いて行った。

 相根は、とにかくやたらめっぽうに走り回った。どこをどう通ったやら、相根には全くわからなかった。すでに述べた通り、最後まで逃げることを諦めないことと、逃げる望みがないことの両方を了解していた。とにかく火の勢いが弱いところを無理やり通り、体中をやけどして、気づけば港にいた。だがみんなが使っている港のほうではない。すでに廃港になった港のほうだ。もちろん誰もいない。このあたりは誰もものを置いていないから、延焼の勢いが比較的弱かったのだ。もちろんそのことを相根は知るよしはない。だいぶん灰も吸い込んでいた。冷たい、誰も整備していないコンクリートの上にうつ伏せで倒れ込んだ。

 まあ、こうなるわよね、と思った。使われているほうの港に行けば、この事態を引き起こした悪党としてひどい目にあっていただろう。人知れず死ねるのなら、まあ悪くないと思った。覚悟していたことだ。

 相根の薄れた意識を、大きな汽笛の音が引き戻した。目を開けてみると、そう巨大でもないが、しかしかなり豪華そうに見えるフェリーがこちらに近づいてくるのが見えた。救助船なのかもしれない。しかし救助船が廃港のほうに来るものだろうか。あるいはすでに、普段使いの港のほうは救助されたか、それとも燃え尽きて生存者などいないようになった後なのだろうか。

 フェリーから、小型のボートがこちらに近づいてくるのが見える。

 小型のボートから三人が降りてきた。二人はガタイのいいスーツを着た男で、おそらく舟をこいでいたのだろう。そして後の一人は、白磁のような美しい肌を持つ少女だった。中学生ぐらいだろうか。白い肌、金髪碧眼、生きている陶磁器のような芸術的な美しさ。声はまるでアルプスの澄んだ空気しか吸ったことのないようなソプラノ。およそ火事で燃え尽きようとしている島にも、やけどだらけで倒れている相根にも似つかわしくない。

「だから私の言った通りじゃない。生存者がいるわ」

「さすがお嬢様でございます」

「ねえ、あなたがこれを引き起こしたんでしょう?」

 相根は辛うじて体を震わせて反応することしかできなかった。うなずく気力はどこにもなかった。

「この人を治療するわよ。まずはボートに載せて船に戻るわ」

「わかりました、お嬢様」

「ねえあなた、船に戻ったら医者がいるから、もう少しの辛抱よ」

 なぜ私がこれを引き起こしたことがわかるのだろう。なぜそんな人間を治療するのだろう。そもそも、この人は誰なのだろう。そんなことを朧気に考えたかと思うと、相根の意識は闇に落ちて行った。

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