進路を強く意識すること
それで高校生活だが、特段特筆すべきことは秋まで起きなかった。要は、以前に相根が孤島に来た時の焼き直しである。最初は物珍しさに人が集るが、しばらくすれば何事もなかったかのようになる。一郎は持ち前の明るさとリーダーシップでいつも周りに人がいた。相根はいつも本を読んでいた。相根は本土に行ったところで何も変わらないと思っていたが、それは正しくはなかった。相根は高校の図書館にアクセスすることができた。それはむろん公立の図書館や都内の大規模な本屋に比べれば貧弱な品揃えではあるが、それでもかき集めて数十冊程度の孤島の本で飢えに慣らされていた相根にとっては素晴らしいものだった。濫読する余りに授業中寝ていることすらあった。ナチスの強制収容所に囚われ、生存できるギリギリのカロリーでしのいでいた枯れ木のような人間が、いきなり米軍の高カロリーなレーションを与えられたようなものだった。それは行き過ぎて害ですらあった。小学生のころから、退屈な孤島に留め置かれ、異常に知識の供給を絞られていた相根には、それを消化するための知識の消化管が貧弱なのであった。彼女は阿Q正伝を読めば衆愚の愚かしさに憤怒し…………レ・ミゼラブルを読めば民衆の革命の素晴らしさに感涙した…………こういう人は本土のご立派な大人たちにもだいぶんいるのだが、それらと同一視して彼女を責めることはできまい。彼女をそうしたのはこの社会と、彼女を取り巻く大人たちだ。あるいは彼女が本土で色々な出来事を経験すれば、本を鵜呑みにする前に一度疑ってみるという基本のキを習得することはできたのだろう。彼女は賢いから。でもそうはならなかった。
それは高校一年の秋のことであった。ところでみなさん高校一年の秋と言えば何を連想するだろうか。体育祭は夏に終わっている。あの災害からずっと、日本の夏は2020年代から少し涼しくなった。そういうわけで体育祭など、熱中症が原因で秋や春にずらされがちであった行事は夏に行われるようになっている。いわゆる復古というやつだ。まあ話を戻すと、文理選択という出来事があった。文理選択と言うのは、日本の大学は文系と理系で分類されているので、それらに向けてどちらを勉強するかを決めるというものだ。とはいっても完全にカリキュラムが分断されるというものでもなく、あくまで学ぶ内容の比重が変わるにすぎない。そもそも文系と理系とは何かということを説明しようとすると雲をつかむような話で判然としないから明白な説明などできない。ともかく、自分が学ぶことや、就く職業をしっかりと考えている人間はそのための選択をして勉学に励み、そうでない人間は適当に自分の得意な科目で選ぶ。それで相根はまあ何も考えていなかった。本ばかり読んでいるから国語は得意だった。それで文系にしようかと思っていた。安直な話だが、少なくとも大学には行くつもりだった。島を永久に脱出するつもりなら大卒になっておいて損はない。それに島の外の暮らしを思い出すのに四年間もあれば十分だろう。もはや母親と東京で暮らしていた日々は遠く霞んでいたし、毎日本土の高校に通っているとはいっても、ほとんど移動しているか校内にいるかであるから本土での生活と言う感じもしない。それで一応父親にも、そういう風に伝えておこうと思った。なぜかというと文理選択の後に、「本当にそれでよいか」を確認するための三者面談があるからだ。これも本当はおかしな話である。高額の費用がかかる美大や私立医大を選ぶのならともかく、普通の大学に行く前提で文理のどちらに進学しようが、それに親の了解を得る必要などない。三者面談で「いや、あんたは哲学なんて学んでいないで、工学科で手に職をつけなさい」「はい」(人生がへし折れる音)というようなことが罷り通ることを許容するのでもない限り当たり前の話だ。要は、相根が母親から引き離され、孤島に幽閉されたことで冒頭から示された通り、日本では子は親の所有物であるということである。まあ、そんなくだらない慣習の話など今はいい。ともかく三者面談の場で親が「そんなこと初めて聞いた」というのでは格好がつかない。それで夕食の場、さらりと両馬に伝えた。
「あたし、文理選択は文系にして、それで大学も受けるつもりだから」
なぜ夕食の場かというと、このころになると親子関係は冷え切りに冷え切って、夕食でしか顔を合わせないようになっていたからである。まあ仮に正常な家庭だったとしても、そもそも父親と娘で遊ぶような年齢でもない。
「ああ、それについてなんだが、父さんからも話したいことがあったんだ」
「何よ」
「実はな、白沖さんのところから、一郎くんと相根の縁談話が来てて」
相根は殴った。
「あれだけ教育教育って言っておいて、そのために母さんを捨ててこんな孤島に来て、それで実の娘の教育はどうでもいいってつもり!?」
「いや、そういうわけじゃないんだ。そういうわけじゃないけど、話だけは聞いてみてくれないか」
「聞くかバカ! 死ね!」
そういうと相根は皿を掴んで両馬の頭にたたきつけた。もちろん軽いガラスの皿で殴ったぐらいでは即死はしないが、両馬はとっさのことに抵抗もできていない。机をひっくり返してキッチンに走る。万能包丁を掴む。いよいよ相根が本気だと悟って逃げようとするが、倒れた机が邪魔だ。逆手に包丁を持つ。人を突き殺す時にしかやらない握り方だ。突き刺す。突き刺す、突き刺す、突き刺す。本当は甘えてるってわかってる。大の成人男性が、いくらなんだって女子高生に、抵抗なしで何度も刺されるわけがない。パパは私を傷つけたくなくて本気で抵抗してないんだ。それを私は何度も刺す。卑怯者だ、最低だ、でもどうしてもこうならざるをえない。刺す、刺す、刺す。
気づいたらパパは血まみれで床に転がっていた。そうだ、こうなった原因の一郎も殺さなきゃ。あれだけ偉そうに「みんな高校に行くべきだと思う」とか言っておいて、結局はあたしみたいな女は嫁としてしか見えてないんだ。あいつは男が島の外に出て色んな人生経験をして色んな職業で働くことは考えていても、女は結局結婚して子供を産んで家事するだけの存在としてしか考えてないんだ。ふざけるな。殺してやる。固定電話であいつを呼び出す。話したいことがあるんだけど。馬鹿みたいに来やがった。あいつの家に乗り込んでもいいけど、周りに人がいるからな。パパの死体を見てビビった一郎を背中から刺す。パパと重なり合うように倒れて死んだ。いい気味だ。どうせあたしより仲がいいんでしょ。お似合いだよ。クソッタレが。どうせそのうち警察が来るだろうけど別にどうでもいい。この島の警察官には勝てないだろうな。どうだろう? このクソ退屈な島で殺人なんて起きたことがないから不意を突けば殺せるんじゃないか? 少なくとも試してみたっていいだろう。そうだ、殺そう。出来る限り。
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