17話「星」ー転編


 *


奇跡は、幾度も起こる。


純真を描いた花の美しさも、精密に作り上げられた宝石の美しさも併せ持った"彼女"の輝きに魅入られた大人たちが、一度は消えた彼女を、もう一度輝かせようと奮闘している様を黒沢辰実は視た。


"ファム・ファタール"


そう言われると彼なら、"そうでは無い"と必ず答える。篠部怜子の魅力は、それに触れた者しか分からない。モラトリアムのどん底で灰まみれになりながらも、誰も恨む事なく前を向いて生きる彼女の姿に、確実に惹かれている者がいる。"魔性の女"に心を奪われるストーリーを誰もが望んではいないのだ。


人生の過程で起こる苦悩に、少しでも打ち勝ちたくて、怜子を応援したくなる。"あの子が前を向いて頑張っている姿を見れば、救われる気がする"という事が本心だろう。


這い上がる灰まみれの姫の物語を終わらせたくなくて"舞台"を用意したのが、"若松物産"であった。



「いやはや、可愛いですね本当に。こうやって眺めているだけで元気になる。」

「確かにこうやって見てると"アイドル"だと思います。」


どんな状況にあっても、"素養"は隠しきれない。ましてや4年という大学生の時間をグラビアとしての活動に費やしてきたのだ。新社会人である彼女にとって1つの"アイデンティティ"だと言ってもいい。


長い髪を2つ、お下げにして"若松物産"の販売員が着ている藍色の甚平に前掛けエプロン姿でカメラに映り、窯で炊けたご飯をよそっている姿。丼に盛り付けた海鮮丼を両手に、カメラに向かって笑顔を見せている彼女の姿に味元の言葉の意味を辰実は理解できた。



「そうそう、食べます?」

「お、頂きます」


小さなご飯の上に、タレに漬け込んだ鯛の切り身が乗っている。怜子と真崎が撮影をしている間に、2人はこっそりと食べる事にした。"新潟のコシヒカリは美味しいですからねー"と笑っている味元を見て"ずるいなこの人は"と思いながらも、辰実は誘惑に負けてしまう。


一晩ほど冷蔵庫に置いた刺身も、身が固くなって美味しい。そこにパールライスを思わず求めてしまう甘辛いタレの味が入るのだ。タレを鯛の脂ごと無かった事にしてしまう、飯粒の境界を残しながらも粘り気と弾力を持ったご飯とのループから逃れられない。


「駄目ですよ黒沢さん、全部食べちゃ」


味元がご飯にかけているのが、だしの入ったお茶であるとすぐに分かった。


(鯛茶漬けかー、絶対美味しい)


アツアツの鯛茶漬けをフーフーして食べつつも、剥きたてのゆで卵みたいな広くてツルツルの額が汗をかく味元。ハンカチで拭きつつも鯛茶漬けを楽しんでいた。


「ご機嫌ですね」

「ええ、あの子が来る日は皆、"嬉しそうにしてる"んですよ。…試食の鯛釜飯をあんなに美味しそうに食べてくれたら嬉しいです。」


怜子の人柄にもよるのだろう、結局人を引き付けるのは"人たらし"なのだ。



「あ、ずるいですよ黒沢さん!」

「皆さんの分も用意しているから大丈夫ですよ」


撮影の休憩に入った怜子と真崎もやってくる。甚平姿の怜子が、水族館にでも来た時の子供みたいに浮足立っているようにも見えた。昨日に気を落として泣いていたのなんて、大雨の夜があけて雨雲を忘れてしまったような空。


わざわざ海沿いの道路を通ってここまで来る時に、見せつけるような快晴だったのを覚えている。



「お疲れ様です真崎さん。」

「怜子ちゃんのおかげで楽しい撮影をさせてもらってます。言われていました分は一通り撮影できたと思いますが、確認してもらってもいいですか?」


ビデオカメラを受け取り、映像を確認し始める辰実。対面する席では怜子は味元と歓談しながら鯛茶漬けを美味しそうに食べていた。"口元にご飯粒がついたままなのは、後で伝えておこう"と思いつつ、真崎の熱意をずっしり詰め込んだ重さのビデオカメラを操作し始める。


「どうですか黒沢さん?」

「………」


甚平姿で"若松物産"の魚市場を所狭しと歩く怜子。先程も描写したように、"水族館で珍しい魚を見る子供みたい"と言った方が正しい。演技なのか成人しているからなのか、節度を守ってはしゃいでいる様子がいじらしかった。


(うちのチビ達はもっとはしゃいでたな)



「これは、……いいですね。戻ったらデータを頂いても構いませんか?」

「はい、どうぞ。」


"上々な先手が打てる"と辰実は呟いた。色々と考えての事なのだが、気が緩んで真崎に聞かれてしまい、"何か言いましたか?"と訊かれ焦った顔をする。…すぐさま取り繕うとせず、濁して本音を伝えた。


「昨日お伝えしました、"わわわ"と"Lucifer"の件ですよ。」

「それとこの映像に何か関係が?」

「あると言えばあるんですよ、これが。」


意味深にニヤリと笑う辰実。ぶっきらぼうで笑った所(細かい事を言えば愛想笑いとかはある)を真崎は見た事が無かったが、言葉尻は優しいのは分かっている。


…"打算"で物事を進めているというのは、今ここで分かった。



「"わわわ"も、勝手に想像してグラビアのご機嫌取りをするのは大変でしょうね。…それが徒労だと気づかないのが難点ではありますが。」



 *


その夜、黒沢家


「はぁ~、いいお湯でした」


風呂から出た愛結。いつもの寝巻のサイズの大きなシャツ1枚。リビングに置いているソファーに腰かけてフラットファイルを見ていた辰実は、愛結がリビングに戻ってきたのを見て、フラットファイルを閉じてテーブルの上に置く。


「よし、風呂に行ってくる。」


ソファーから立ち上がる辰実と、入れ替わるように愛結が座る。辰実が風呂場に行ったのを確認して、愛結はテーブルに置かれているアルバムに手を伸ばした。飼い猫のさくらの写真をプリントして、アルバムに整理する前にフラットファイルに入れている事がある。"どんな写真が撮れたのかな?"と気になって中身を開く前に、ソファーで寝る時に愛結が枕にしているコウテイペンギンのぬいぐるみ(通称:コウちゃん)を膝の上に寝かせた。


(あれ、怜子ちゃん?)


同じ色のファイルだったからか、間違えて辰実の"仕事に使っている"ファイルを見てしまった。"若松物産"の甚平を着て、魚市場を案内している様子の怜子。照明の加減で焦げた茶色に見える長い髪が、2つお下げになっているのだ。


(やっぱり可愛いなー、あの子)


"わわわ"がどうして契約を切って怜子を追い出したのかは分からない。公には"昨年に後輩を辞めさせた"となっているが、彼女がそんな事をするとは"どうしても"愛結には考えられなかった。…そんな風な"でっち上げ"みたいにしてまで、魅力的な彼女を追い出す理由を考える事ができない。


暫く眺めていると、辰実が風呂から上がる音が聞こえた。


ソファーに座ってコウちゃんを膝に乗せている愛結が、不貞腐れた顔をしてリビングに戻ってきた辰実を見ている。目が合った瞬間も、辰実はいつもの不愛想を心掛けていた。


「何これ?」

「何って、仕事で"若松物産"の夏の売り出しのポスターと、PR動画を作ってるんだよ。」


「ずるい」

「へ?」


何をもって"ずるい"と言うのか?…希実も愛奈もよく使っているその言葉を聞いて"やっぱり親子だ"と思うよりも辰実は"引っ掛かったな"と心の中でほくそ笑む。しかしここは"アヌビスアーツ"の店長の顔で手練手管に愛結を翻弄する構え、感情的になれば辰実の意のまま。


「私、アイドルの時にツインテールできなかったのに」

「………」


余りにも予想通り過ぎる答えに、思わず笑いそうになってしまうのを目を逸らし咳払いで辰実はごまかした。


「コウちゃん、辰実が意地悪するー」


コウちゃんの脇を手で抱え上げ正面を向かせ、"意地悪で愛想は悪いけど本当は優しくてカッコいいんだよ辰実は"と裏声で1人芝居をする愛結が可愛く見える。怜子には見つかってしまったが、愛結は辰実と2人きりの時は子供みたいな事をしたり、甘えてきたりする事があるのだ。


(やめてくれ!恥ずかしいじゃないか!)


思わず赤面しそうになるのをこらえ、愛結から目を逸らす。


「怜子ちゃんは、アイドルに戻りたいの?」

「それは俺にも分からん」


"こんな時はコーラが解決してくれる。神様仏様コーラ様だ!"と心の中で縋るように冷蔵庫を開け、ありがたい冷気をまとった缶のコーラを手に取る。"神は信じるか?"と訊かれれば"そんなモノよりコーラを信じてる"と言いたくなりそうだった。


ソファーに戻ると、プルタブを起こし中身をあおる。



「ただあの子がどちらを選択しても、結果として"アヌビスアーツ"には利がある。」

「"利がある"ってどういう事?…それに、"どちらを選択しても"って。」


空気を読んで、愛結の膝の上で大人しくしているコウちゃん。それを抱きかかえる愛結の青い瞳が海の底を映し出すように辰実に視線を向けていた。"心の底を映し出せ"と、"本意を映し出せ"と。



「"利がある"と言うのはここでは言えないな、そこはやっぱり企業秘密だ。」

「ふーん、ちゃんと店長してるんじゃない?しっかりされてるようで感心感心。」


"カッコいいねー辰実は。ビジネスの顔してるよ?"と、膝の上で抱えているコウちゃんに話しかける愛結。


「"どちらを選択しても"と言うのは、あの子が"アヌビスアーツに残る"か、"グラビアに戻る"かだな。」

「グラビアに戻るって言われても、怜子ちゃんの"契約解除"が嘘だと言える証拠を持っている人がいないわよ。」


「ここにいるとしたら?」


低いトーンに驚いたコウちゃんが、愛結の膝の上で小さくなっている。何となくそれを察したのか、"コウちゃんを怖がらせちゃ駄目よ?"と愛結に諭されるが、コーラを飲んで気持ちを落ち着かせる。


「昨年俺は、"しだまよう"の事件で篠部怜子の後輩達。すなわち"あの子の契約解除"に関わる3人から被害者調書を録取している。」

「その証拠があれば、すぐにでも"わわわ"の嘘が暴けるんじゃないの?」


「いいや、どうだろうか?…逆に、"わわわ"が真実を隠し通したら逆に"警察が嘘をついた"という風に言われる。そうなると、俺の立場が危うい。」


「…………」


コウちゃんを抱えたまま愛結は俯いた。怜子が"そこに関わっている"事で、彼の戦いは続いていた事を知る。折角たどり着いた安息であるにも関わらず、自分の意志で火の国へ還るのだ。


「大丈夫よ、警察の証拠なんて簡単に覆らないでしょうし」

「その通りだ」


辰実が"勝算"のありそうな顔をしている。今はそれで安心できた。



 *


お囃子のような、小気味良く金属楽器が叩かれる音。撃鉄の先に尖った針が雷管を刺激し、火が点いたような笛の音が"祭り"の始まりを予感させる。鳴り始めたお囃子を"戦が始まる合図"と間違えたのか、画面の外から来月に旬を迎える魚達が、鈍色とも青色とも光の加減で見える体を泳がせる。


魚がその存在を擦り付け、画面の向こうが藁焼きで燃え上がった。


"若松物産 夏の陣"


大売り出しとともに、戦が始まる。夢の跡になる事も忘れて"若松物産"が総力を挙げ売り出し始める。1分と少しの動画だからでは無い、心の奥底にある何かを掻き立てられるからだった。


「いいですねえー」

「ここまでとは思いませんでした」


動画は辰実が、作曲は怜子が行った。"魂がこもっている"とも、"熱がこもっている"とも言える音楽に、味元の心は踊ってしまう。自分の作品が人に喜んでもらえる事の"ありがたさ"を噛みしめているようであった。


嬉しさを抑える怜子。その裏面で"求められている"事との板挟みを滲ませている。



「…よし、これで行きましょう!」


味元のOKが出た瞬間に、怜子がデスクの下で味元に見えないようにガッツポーズをしていた。



「それで黒沢さん、怜子さんの"イメージキャラクター"の件ですが…」

「はい、何でしょう?」


「了承はしていただいてますが、はじめに"怜子さんの紹介"をさせて頂きたいんですよ。」

「でしたら、少し時間を頂けませんか?」


「構いません。じっくり待ちましょう。」


"ありがとうございます"と辰実が頭を下げる横で、怜子は俯いて何かを考えている様子であった。



 *


「…黒沢さん、"私の紹介"の件、時間遅らせて良かったんですか?」


味元が怜子を"イメージキャラ"として起用する事は決定していた。しかし、それは怜子自身が"表舞台に出る"事を意味している。一度"契約解除"という形で表舞台から弾き出された事を分かっている彼女には、その意味する所は十分理解できていた。


「君にも、考える時間が必要だろう?」

「………」


"ふふ"と溜息をつくみたいに、俯いて怜子は笑んだ。


「黒沢さんが、決めてくれないんですね」


信号が青になり、踏みつぶされるアクセル。怜子の泣き言を"知るか"と置いていくように速度メーターがゆっくり時計回りに動き、タイヤが回り始め進んでいく視界。


「君が自分で決める事だからな」

「…そうですね」


エンジンの音だけが聞こえる。携帯電話で音楽アプリを再生するのも忘れ、運転をしている辰実の横顔を"嫌いじゃない"と思ってしまう。


(かっこいいな黒沢さん。…愛結さんが羨ましいや。)


自分よりも背が高くて、綺麗な愛結。波がかった長い栗色の髪の毛も優しくて凛とした青い瞳も、何もかもが羨ましかった。彼女が見ていた彼の姿を、彼女と同じ位置で見る事ができた。"宵の明星"、辛かった時に手を差し伸べてくれた愛結の姿、怜子の"お姉さん"でいてくれた愛結の姿を、不安と暗がりの中で射す光明に例えた。


星に、手は届かない。



「俺の顔に何かついてるか?」

「いいえ、愛結さんが羨ましいと思って。」


「そうなんだ。…愛結もよく、俺が運転してる時に俺の顔ばかり見てくるんだよ。」


"俺はそんなに心配したくなるような顔をしてるのか?"と困った顔をしている辰実に"いいえ"と笑顔で怜子は答える。


「そう言えば黒沢さんは、ヤキモチとか妬いたりするんですか?」

「人を羨ましいと思う事はある。…けど、思うだけだな。」


「黒沢さんらしいですね」


ぶっきらぼうな言葉であった。でも、その言葉が弁舌を尽くすよりもハッキリ伝わる"真理"なのだろう。



 *


愛結と2人で撮影した写真が、綺麗な縁に収められている。2年前の夏、2人で言った海岸で撮った写真。…怜子がグラビアアイドルとして人気を得てきたのも、ちょうどこの頃であった。


金を塗ったのにプラチナに光る浜辺に、水着姿で映っている愛結と怜子。お姉さんだと思っていた愛結が無邪気に笑っているのに対して、怜子は背伸びをして笑っている。実際の所互いが互いを羨ましく思っているのを1枚にまとめた縮図、"女の子でいられる"怜子と"大人になってしまった"愛結の違い。



(いつまで経っても、愛結さんは綺麗だな…)



急に、違う方向に行ってしまった。同じ方向に向かっていたかは、"微妙"に近い"そうである"なのだが進む速さ、距離に差がある。怜子は愛結を見ているはずなのに、愛結は見えない場所にいる。


それが、彼女と星の距離。


不幸にも距離が錯覚によるものを、未だ怜子自身が認識していない。本当は彼女も、"星"の位置にいるのだ。



(君が自分で決める事だからな)


辰実は言っていた。これを厳しいと思った事は無いが、彼は怜子に"自分で決める"事を頑なに強いている。柔軟で打算に長けた男も、ここに融通の利かない一面。"わざとらしく"見える側面にも、何か意味があるようにしか感じられない。


食欲の起きない夜だった。鍋に注いだ水が温度に耐えられず沸騰を始めると、タッパーに入れていた茶碗1杯分のご飯を投入する。クッキングヒーターを弱火にし、様子を見ながら紙パッケージを破って雑炊の素を注ぎ、その上から溶いた卵を流し込む。やや塩気とだしの効いた雑炊を食べ終わるまで、怜子は終始上の空であった。



 *


「お疲れ様でしたー」


その日は、ポスターの手直しだけで時間が過ぎた。


商店街の風がぬるい。梅雨入りにしては早いけど、その予感を十分に絡めた湿気交じりの風がぼんやり頬を過ぎていく。どんよりとした足取りのまま、明王通りにある"Bobby's Sweets"に入った。


暗い色の木でできたドアは、力を少し入れないと動かない。


「いらっしゃい。」


店主のボビー。色眼鏡をかけた大柄の男は、辰実とは友人関係にある。"スケベなニワトリ"を描いた時に初めて会って以降、怜子はプライベートで何回か足を運んでいた。


「クレープは売り切れちまった。ショートケーキとかガトーショコラなら残ってるが、どうするかい?」

「ガトーショコラとプリン、1つずつ下さい。」


相変わらず奇抜なネーミングをしたスイーツ達。その中で怜子は"苦難の道を往くガトーショコラ"と、"気合の入った濃厚プリン"を指さして注文する。大胆そうな見た目に似合わず、繊細な手つきで保冷剤と箱を用意し、ガトーショコラとプリンを詰めて会計に入った。


「…しかしどうした、元気がないな?」

「すいません、少し考え事を」


5時を過ぎたというのに、珍しく店は空いている。


「この前イートインで、パンケーキを食べて帰っていった奴がいたんだが。…年の頃は俺とか黒沢ぐらいか。前にここに用があってきた雑誌編集員の兄ちゃんなんだが、お前さんと似たような顔をしてたよ。」


「私と似たような顔、ですか…」


"話ぐらい聞いてやろうと思ってな"と言って、ボビーは色眼鏡を指で整えた。


「年明けぐらいまで、アイドルのマネージャーをしてたらしい。…そのアイドルが辞める事になってから仕事がつまんねえとな。アクセサリーのモデルに起用されたっつうのにいきなり解雇されちまったとか、そのアイドルも不憫で仕方ねえな。」


(そんな人が…、もしかして古浦さん?)


話の内容から察するに、デジャヴし過ぎている。ボビーがそれを意図しての発言なのかは分からぬまま、話は続く。



「しかしアレだ、俺はその子が羨ましかった。」


(…そうそう、ここのパンケーキが美味しいんだよ。"気まぐれボビーのハチャメチャパンケーキ"ってもう、ツッコミ所が多いんだけど)


ボビーの言っている男が、古浦の事だと言うのは殆ど確信であった。古浦と思う男が怜子の話をしている事に間違いはない。彼もこの店のパンケーキが美味しくて、足しげく通っている事を話していたのを、怜子は思い出す。


「人から必要とされている。そういうのは原動力にもなるからな。」


"できれば、そういう女性に看板になってもらいたい…"とかボビー(本名:秋山剛)がつぶやいていると、奥にいたブロンドで長身の女性(実際のところボビーの妻でジュディと言う、こちらはアメリカ人。)からの銃口を向けるような視線を感じたのか、咳払いでごまかす。



「戯言だ。…まあお前さんは、今のとこは黒沢について頑張ってやってくれ。アイツはああ見えて結構抜けてるからな。」


"ありがとうございます"と一礼し、怜子は店を出て行った。



ボビーの店は静かであったが、午後6時を過ぎた商店街は買い物客や退勤者でごった返している。いつも徒歩で行き来している商店街も、以前から来ていた事はあるし、大学は商店街の近くにあるしで慣れていたはずなのに、"アヌビスアーツ"に来てからは妙に慣れ過ぎてしまっている。


通りの中心、大きなヴィジョンがある広場。


地元の曲の番組を垂れ流しにしている。午後6時であればローカル番組もニュースのコーナーを終えてローカル極まった話をしている所だろう。今日この時間では、インタビューをやっていた。


(愛結さん…)


彩りの無い部屋で、アナウンサーと対面し行儀よく座っている愛結。波がかった栗色の長い髪が、臍の辺りまで下りているのが分かる。いつ何時も、笑顔を崩さない"社会人の鑑"。現在32歳で、人気の落ちない現役グラビアアイドルとして簡単に紹介されていた。


(本当に、見た目も中身も完璧)


『今度は、"わわわ"と"Lucifer"との共同制作でアクセサリーのモデルになると聞きました!』

『そうなんです。…前からオファーが来てた話なんですけど、いざ"やりましょう"って話になると何だか緊張しますね。』


言葉に合わせて感情を乗せる様子に、技巧を感じてしまう。それが悪い意味とは捉えておらず、ぼうっとヴィジョンを眺めていた怜子。


『長くグラビアをやってきているからこそ、だと思います。』


インタビューをしているのはアナウンサーだからか、明朗快活な声で愛結に質問や相槌を打っている。大人しい怜子に差を見せつけるように響く音声が、灰まみれのエラを蔑み嘲笑っているように聞こえた。


『そうですね。…簡単な事しか言えませんが、"必要とされている"事が何より嬉しいです。』


誰もが、愛結の存在を必要としている。その事に感謝を忘れない事も愛結の人気の1つ。


1つ1つの感謝を、夫から貰った宝石みたいに大事にしている。



その宝石が手元にあった事を思い出した時、"灰まみれのエラ"は瞳にアクアマリンの輝きを取り戻す。衝動に駆られ、馬車もドレスも無い彼女は一目散に駆け出した。


(あった…、私も!)


大衆から向けられる羨望の眼差しを浴びて、今を生きる愛結。近づくように背中を向け走り出した怜子に、商店街の呼吸を止めて赤血球のように動いていた大衆が目を向ける。袖のない黒いワンピースの下に着ている、水色のカッターシャツが、アクアマリンを散りばめるように揺れる。


どん底に落とされても、灰にまみれても、星の輝きにも似た宝石の輝きは変わらない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る