17話「星」ー承編


不意を突かれて閉口していた森が、"分かりました"と襟を正し説明を始める。



「黒沢さんは、"TOKYO ARTWORKS FESTA"はご存じですか?」

「デザインの祭典でしょうか、…知りませんでした。」


「仰る通りです。毎年7月に東京で開催されるデザインの祭典です。47都道府県から1社ずつ出展できるのですが、弊社の方針としましては"Lucifer"というブランドが地元の会社と連携しデザインしたアクセサリー、これを"アヌビスアーツ"さんに出展して頂きたいと思っていますが、よろしいですか?」


出展するのが"アヌビスアーツ"にしてもらえるのであれば、最も利がある。これまで地元にて地盤を固め続けてきた"神室広告店"のブランドを引き継ぎつつも、全国を相手に仕事をできる切欠となるだろう。


少なくとも辰実は、"前任者"と自分のやり方を差別化する事を理由なく義務だと思っていた。



(デザインするのがウチだから、当然と言われれば当然か)


「出展に関しては構いませんが、他にも"出展したい"っていう所は県内でもいるでしょう?」

「厳密に言えば、"デザインコンペ"という形を取ります。お題の無いコンペだと思っていただければ。」


"デザインコンペ"と言われれば、大学でデザインを学んでいた辰実にも分かる。"全国展開"と言われても、選評に漏れてしまえば展開も何もできない。


「もし選評に漏れてしまえば、"わわわ"も"Lucifer"も県外に出て日の目を浴びる事は無い。…全く、大役ですね。」

「そう気負わず。合同企画については、この企画以外にもありますので。」


「それは強かだ」


辰実自身も、皮肉を言ったのか感嘆したのか分からなかった。いくら数が出展を希望しても、負けてしまえば意味が無い。であれば、参加数の中に"Lucifer"が関わる数を増やせば数の分可能性ができる。


「自社の企画どうしで戦わせるとは、考えものです」

「社内に刺激を与え、活性化させるのが目的なのですよ。マンネリ化の兆候が見えたなら、手を打たねば組織が錆びてしまう。少しでも錆が出れば、社会という闘争の中でそれが命取りになる。」


「仰る意味は分かります」


口を挟んだ藤原が、自分より何枚も上手に見えた。…もし、自分が彼の立場だとして"同じ事を思いつくか?"と聞かれれば確実に首を横に振る。互いに分かっているからこそ、"教示"という言葉が最も型にはまる風に言われたのだ。


「何にせよ、勝てば良いだけの話ですよ」


伊達が淹れてくれていたホットコーヒーを、湯気の冷めぬうちに一口舌になじませる。警察署のコーヒーの、鉄の味に慣れ過ぎた所為か、"これが普通なのだ"と思っても全く慣れない。



「…ところで、"20代後半"のモデルに対して目星はついているんですか?」

「我が社では未だ。黒沢さん、商店街に誰かいませんかねと思いまして。」


(モデル、グラビアみたいに光るかと言われればそうとは言えないが、"彼女"なら飾れば遜色無いくらいにはなれる。)


「思いつく限りでは、1人。ただ問題があって、彼女は今"警察官"の可能性が。」

「それは、どこの誰ですかな。」


「"ダイニングあずさ"という居酒屋はご存じですか?」


"あそこの娘さんであれば、3月末をもって退職予定だと聞いてます"と、森が口を挟む。


「それは彼女が、"店を継ぐ"という事ですか?」

「店主の話によると、間違いないです」


(…そうか、馬場ちゃんが)


辰実自身は既に警察官を退職している。それが意図してかそうでないのか"後を追う"形で梓も退職をしてしまう事に、はっきりと文字にできない複雑な感情を辰実は抱いてしまった。幸い、そうなる事が状況をいい方向には持って行っている。


数分後。


辰実が梓を推した所で、"Lucifer"との話は終了した。


退散していった藤原と森の背中を見送って、残ったコーヒーを全部喉に流し込む。温さを過ぎて、もう冷めてしまった温度が豆本来の苦みとコク、少量の酸味を引き立てる。



「お疲れ様でございました」

「とんでもない大仕事が舞い込んできましたよ」


事務所の冷蔵庫から缶のコーラを取り出し、座った後にプルタブを起こす。冷えてしまったではなく、冷やされた酸味と苦み、甘味が絶妙な比率で合わさった炭酸水を一口したら思いついたように缶を置いた。


冷蔵庫の一室に入っている氷を、食器棚から取り出したグラスに雪崩れ込ませる。いったん置いた缶のコーラの中身、細かい気泡の入った茶色みのある液体をグラスに流し入れれば、霜のおりた氷がパチパチと割れる音と炭酸の弾ける音の微かなセッション。



「しかし全国とは、突飛な夢ですな」

「ネット販売等も考えるのであれば、良い機会だと思いますよ」


「1つ、良い機会であると」


"良い機会"と、オウム返しをした言葉を、冷蔵庫の温度よりも氷のおかげで冷えたコーラと一緒に飲み込んだ。


「伊達さん、これは俺の個人的な"勘"ですが…」

「ほうほう」


「何かが"欠けている"ような気がするんですよね、この企画。何かがハマれば上手くいく、そんな感じはします。」



 *


"わわわ"オフィスビル。


怜子の契約解除については、瞬く間に社内に広まっていた。ある者はその理由が"後輩へのパワハラ"である事について疑問を感じる事はあったが、その事で火の手が上がっているのを早瀬は見ていない。


「不可解よ」


休憩室。100円玉を入れれば、紙カップが落ちてきて注がれるタイプのホットコーヒーに砂糖とミルクを設定しておくのを忘れてしまった早瀬が不機嫌そうな顔をしている。"不可解"が忘れてしまった砂糖とミルクに対してかかる言葉か、それとも次に出てくる話に対してかかる言葉かは、テーブルの正面に座っている愛結にとっては"どちらとも取れる"内容であった。


「あ、ごめんなさい」


早瀬の携帯電話が振動する。数コールの間に、画面で誰が電話してきたかを見る余裕があった早瀬は、画面に書かれていた名前を一瞥すると興味が無かったように電話に応答する。



「はい、早瀬です」

『ご無沙汰してます、黒沢です。』

「あらお久しぶり、元気にしてたかしら?」


口ぶりからするに、早瀬より下の立場にいる人間と通話している。マネージャーになって半年程だが、彼女との付き合いはそれより長く愛結にあった。


『年が明けてから、デザイン事務所の店長をする事になりまして。また後日、"わわわ"とも仕事をさせて頂きます。』

「そう。それは楽しみだわ。」

『…その事で1つ聞きたいんですが、構いませんか?』


"どうぞ"と早瀬は言葉を促している。さっぱりした言葉遣いではあるが、言葉に圧を感じない。


『グラビアの篠部怜子に、何かあったんですか?』

「もしかして"わわわ"以外にも伝わってるの?」


『いいえ。…ですが、"写真集"を出すと言っておきながら次の刊行で全く触れないなんて事をしてれば誰でも怪しむと思いますよ?』


"はぁ"と、納得したような溜息をつく早瀬。


「あの子なら、契約を切られたわ。理由は"後輩に暴言を吐いて辞めさせたのが発覚した"。」

『そう来ますか、そうですか。…ありがとうございます、今ので分かりました。』


その後輩が辞めてしまった理由が城本義也の迷惑行為にあった事、その時に怜子も被害者であった事を辰実は知っている。だからこその"分かりました"であった。納得し、一方的に電話を切った辰実を"ふふ"と鼻の奥で笑み送ると、温度がなじんできたコーヒーを早瀬は口にする。



「今度、"Lucifer"がどこかのデザイン事務所と合同でアクセサリーをデザインするから、"わわわ"にはそのモデルになってほしいとかいう話があったじゃない?」


"ありましたね"と言いながら、自分の手より大きなマグカップを両手で持つ子供みたいに不器用ぶって紙コップを傾け愛結はホットコーヒーを一口。


「デザインを担当する会社が決まったらしいわよ?今さっきそこの店長さんから電話がかかってきたわ。」

「へぇ、どこの会社なんですか?」


「"アヌビスアーツ"、ご存じ?」


コーヒーを口にしようとしたが、愛結は急にむせてしまった。聞き覚えのあるというか、直接関わりがある訳でもないのに、親近感があるのは当然の事。


「存じるも何も、辰実じゃないですか!」

「貴女の夫の黒沢辰実よ」


警察官を辞め、一民間人となった辰実。"デザインの仕事をしているのなら、もしかしたら仕事に打ち込む辰実を見る事ができるかもしれない"と淡い期待がこみ上げる。いつ来るか分からないその時に、大きな胸が躍るような感覚を覚えた。


「え、黒沢ですか!?」


ひょっこり現れる饗庭。堂々としている男が、どうしてこっそり聞いていたのかと女性2人は閉口してしまう。


「どこに居たのよ、本当に」

「さっきまで苦手な人がコーヒー飲んでたから出てきづらかったんすよ」


"どうせ金髪が嫌いな人なんでしょ"と笑う早瀬。そう言えば堅物の社員がさっきまで近くに座ってコーヒーを飲んでいたが、饗庭が"あの人は金髪ってだけで話を聞いてくれないんすよねー"とぼやいていたのを早瀬は思い出す。


「それで、何かあった?」

「何かあったも何も、"Lucifer"のアクセサリーをデザインするのが黒沢に決まったとかいう話をしたのに、黒沢が先に言いやがったんすね。」


残念そうな顔をわざとらしくしながら、饗庭は缶のコーラを自販機で購入する。ヘラヘラしているように見えて、その通り陽気な男であるが、時に真面目な顔をしてトーンを下げたり、辰実ばりの険しい顔をしたりと中々に百面相なのである。


故に、饗庭の飄々とした様子が"本心"か、"演技"か見分けるのには時間を要する。付き合いのある早瀬や、辰実であれば分かるのだが。


「怜子ちゃんが"モデル"に選ばれていない事について何か感づいたみたいよ?」

「でしょうねアイツなら。…何なら、今から俺が言う事も知ってるかもしれません。」


「よく働くわね、"草の者"の人達も。」

「今回みたいに上が"怪しい"事をしたら、自分らの身が危ないですからね。もし変な事になって会社の上が責任取らされるってなったら、"トカゲの尻尾"にされる可能性は高い。」


「引き抜いて来たというのに、扱いの非道な事」


早瀬もそんな事を言っているが、元々は饗庭のように別の会社から引き抜かれてきた1人であった。"草の者"はそのコミュニティで、"わわわ"の内輪馴れ合いによって割を食い、立場的にも危うい外様達の自衛手段と言ってもいい。


「どうでしょうね?…その真偽を黒沢が握ってる事は誰も知らないでしょう。いや、ここに1人。」


饗庭の視線の先には、愛結がいた。


「…もしかして、"しだまよう"の事かしら?」

「その通り。」


これまで辰実が"わわわ"に関わった事と言えば2つなのだが、そのうち1つに怜子と辞めた彼女の後輩達も関わっている。当時、警察官だった黒沢辰実は"しだまよう"、すなわち城本義也を逮捕するため、"辞めた後輩達"の被害者調書を取っていたのだ。


愛結も"被害者"の1人だったために、"辰実が関わっている"事を考えれば思いついた。


「少なくとも黒沢は"その事件"に関わってる。」

「え、そうなの?当時は私も、総務にいたからあまり情報が流れてこなかったのよ。」


「私も直接、辰実と話をした訳ではなかったですが、関わっていると聞いてます。」


350mlの缶のコーラも、饗庭の大きさには適わない。イリュージョンよろしく、コップ2杯弱の炭酸飲料は体の中へと消えてしまった。豪快に喉を鳴らす音が暫く聞こえたが、


「"しだまよう"を逮捕したのは、黒沢ですしね」

「あらそれは嫌な偶然ね。巡り合わせとかしないのかしら?」


出来過ぎているにせよ、偶然という形で怜子はこの数週間後に辰実と出会う事となる。…早瀬に言われた事で饗庭は真剣な顔をして口をつぐんだが、その時の彼が"偶然の巡り合わせ"を望んでいたかと言われれば全くそうではない。



「んな事をやっちまったら、黒沢が…」

「そうね、彼が"また"傷つくわ」


その偶然が"仕組まれた"事だと知れば、誰が傷つくか?その答えが満場一致で"辰実"だと分かっているからこそ、早瀬も饗庭も愛結も、"偶然を祈る"しかなかった。



「これは楽観的か悲観的か分からないけど、彼はまた舞台に上がってくると思うわ」



 *


『…篠部玲子の"契約解除"なんだがな、原因は"後輩へのパワハラ"らしい。なんでも、"辞めちまった"後輩の理由ってのが昨年の夏に入る前に暴言吐いたって話だな。』

「暴言だと?」

『ああそうだ、"しだまよう"っていただろ?あの迷惑ばっかり人にかけてたデブ。』

「俺が逮捕した奴じゃないか」


『だったらお前には分かるだろ?その"後輩"が何で辞めたってのか。』


「被害者調書を取った時に"辞めた理由"も確認した。…もし違ってれば、俺どころか警察の威信に関わってくるぞ。嘘の供述を許してしまうなんてな。」


電話の向こうで話をする饗庭。断片的な情報ではあったが、辰実はすぐさま整理する事ができていた。



『何せ関わる事が無ければ関係もない話だ、聞くだけにしといてくれや』



"ああ、そうするよ"とぶっきらぼうに辰実は答えて電話は終了する。どうやら電話が1件きていたようで、間を置くことなくリダイヤルすると、数コールで喫茶店"AMANDA"の店長、天田が出た。


『もしもし、天田です』

「黒沢です。すいません、電話をしてました。」


"気になさらず"と穏やかに天田は答える。


『1つ聞きたいんですが黒沢さん、今も"アヌビスアーツ"は採用募集してますか?』

「ええまあ。誰か行きたいって人でも見つかりましたか?」


『でしたら、新卒で1人面接をやって欲しいんですよ。』


「構いませんよ、誰ですか?」

『篠部怜子(ささべれいこ)って言う子ですが…』

「待ってください。グラビアの篠部怜子ですか?」


『分かり…ますか……?』


"ダメかな?"と天田は思ったのだろう、怜子がグラビアだと察してしまった辰実に対してトーンダウンしてしまう。


「そりゃあそうですよ。…天田さんの所でバイトしてたんですね。」

『ちょっと色々ありまして…。何とか雇ってもらえないですかねえ。』


「面接はしましょう、"採用"については確約できませんが。」


"ありがとうございます"と、天田の喜ぶ声が聞こえる。


("棚ボタ"と言うべきか…、面接をしてみてだがな。もし彼女が"持っている"ようであれば"Lucifer"だけでない、"わわわ"を相手にもうまく立ち回る事は出来る。考えものだぞ。)


偶然にしては出来過ぎている、と思いながら"必然"と思える要素も無い。偶然らしい偶然を噛みしめながら、"面接"の方に頭の中をシフトさせていた辰実。面接についてはこれまで行った事は何回かあるが、これまで以上に相手の人となりを見定めなければならないと緊張をしてしまう。



(さて、篠部怜子は"明星"となるか…?)


 *


(年明けになってから就活してるけど、やっぱり応募してる会社も少ないな…)

(この前受けた会社も駄目だった。就職できるのかな、私。)


3月。卒論を書き終え、発表を終わらせた怜子は同級生と共に研究室に置いていた私物を片付けに来ていた。…のではあるが、グラビアの契約を解除され就職活動をする事になってから何とか見つかった会社の面接を受けるも不採用の連続、"いつ就職先が決まるのか?"と不安になっていた彼女は頭がいっぱいになっている。


(就職浪人だってできないしなー)


留年、という選択肢は無い。


金銭的余裕が無いのが一番の理由。グラビアで賄えた生活費、その貯蓄分も直に底をつく事だろう。彼女がまだ大学生である事を考えれば、"親の援助はあるのでは?"と気づく人もいる事だろう。


彼女は、"とある理由"で親から援助を受けていない。更に言えば、"受ける事はできない"。


その理由については、今この場面で話す事ではないだろう。



(…どうなるのか、私)


卒業すれば行く事は無くなるだろう、大学の食堂。音のない風が憐れむように暖かい。もっと"桜の咲く季節"を感じる事のできる日がくれば、その時に未来も露と消えそうな"私の姿"を重ねて。


ほろほろ涙を流す花弁が、星の数ほど幻に見えた。



「…怜子ちゃん!?」

「え、あ、ごめんなさい」


目に映る未来が"悪い夢"であるなら、それを幻想に重ねるのは"悪い夢の視方"なのだろう。現実を視ている夢から、同じ研究室に所属していた友人の声で引き戻された。


「大丈夫?珍しくぼうっとしてるみたいだけど。」

「最近アルバイトが忙しくて…」


取り繕った言葉で、それとなく装った。"グラビアのお仕事、辞めちゃったって言ってたし大変だね"と、以前に取り繕った事のある話が今になって出てくるのを申し訳なく感じてしまう。だから研究室の同級生2人の顔をまともに見れず、目を逸らしてしまう。


自分の嘘に"ごめんなさい"と言えるぐらいに、まだ怜子は擦り切れていない。



「そうそう、今度みねちゃんと旅行行くんだけど、怜子ちゃんも行かない?忙しそうだったし、プランは私達でやってるから。」

「…ごめんなさい、生活費でギリギリだから旅行にはいけないや。うちは実家も貧乏だし、妹と弟の面倒でギリギリだから援助も無理かも。」


「…………」


思わず、同級生の2人は閉口する。怜子がグラビアを辞めてから、卒論を作成しながらアルバイトで生計を立てていたのは分かっていた。"人気はあったとは言え、グラビアで生計を立てるのも大変なんだ"と、理想と現実のギャップを自ずと感じてくれる優しい友人たちで怜子は安堵する。


取ってつけたような、"実家が貧乏"という話はずっと前から知ってはいた。



「本当にごめんなさい」

「ううん、大丈夫。怜子ちゃんの分のお土産、買ってくるね」

「ありがとう」


「…じゃあ、次会えるのは卒業式?」


「卒業式も駄目かな…」


そもそも金が無い、だから卒業式に着ていく袴のレンタルもできない。レンタルできる余裕があれば旅行に行く。


「ごめんなさい、そろそろアルバイト行かないと!」


何も言えない友人に気を遣って、返事も"行ってらっしゃい"も聞かずに怜子は駆け出した。金銭的に援助してくれる親がいて、旅行に行ける余裕があると思っても、怜子の知らないところで苦労し、その金を工面したのかもしれない。やっかみも妬みも、そこに水を差してはならなかった。


(自分で決めた事なんだ)


言い聞かせ、駆ける。折り畳み式の手鏡で見た怜子自身の表情は、どこか決意じみたものが濃く出ている。…ように見えただけの強がりであった。



 *


3月下旬。


折り畳み式の手鏡に映る怜子の表情から、強がりが消えていた。


「本当、夢みたいです…」


"夢だと思ってるなら、何が鏡に映ってるんだ?"と、ぶっきらぼうに運転席でハンドルを握っている男は答える。信号待ちになって缶のコーラを手に取り、プルタブを起こして中身を飲んでいるのだろう。エンジンと風の音に紛れて数回、ゴクリと聞こえた。


「よく似合っておられます」

「そうですか?嬉しいです」


助手席に座っている、落ち着き払った初老の男に褒められて怜子は手を合わせて喜ぶ。


ハーフアップにしている茶色くて長い髪の毛を結んでいる菫色のリボン、ボタニカル柄の藍染の着物。その全てが灰まみれの姫を星海の煌きで着飾った。夜が明ければ露と消える海の輝きも、彼女を輝かせるための一瞬の生。時が終われば元の女の子に戻ってしまえど、刹那の輝きは心の中で消えない事だろう。



この日この瞬間が、彼女の中で色あせる事の無い思い出となりますように。



(ううっ…、何て綺麗なんだ。目が霞んで怜子ちゃんが見えないよ…。)

(ちょっと真崎さん、大袈裟ですよ?)

(本当に、綺麗なんだよー。)


早朝、"Studio Bianca"で準備を済ませた怜子。撮影の時に見せた感動と、変わらぬ美しさの怜子に涙を流していた真崎に、最近まで見せていなかった笑顔で"行ってきます"と言って出た。


辰実の運転する車で、会場になっている文化会館へと向かう。コーラを飲み終わる頃には、会場の前に到着。


「行ってきます。終わったらバスで大学に行くので、それが終わったら商店街に行きますね。」

「ああ」


「行ってらっしゃいませ」


後部座席のドアが開く。艶を塗った木材の色のブーツが、砂埃を踏みつける音。風に紛れて飛び交うエンジン音が、アスファルトを擦るタイヤの摩擦音と混じる。


未来も露と消えてしまいそうだった桜の花びらも、この日はこれからの人生を祝うように待っていた。文化会館の入り口、そこまで誘導するように敷き詰められたタイル張りの道。



一歩、一歩。これまでの道程を思い起こさせるように。始まりは、若松商店街で古浦にスカウトされた事から。大学生だった傍らで、大変な事もあったけど、嬉しい事だってあった。重ねる一歩が、その過程との"決別"を意味するのであれば、どうか彼女のこれからに幸あれとせめて願いたい。


「怜子ちゃん、来ないね…」

「グラビアのお仕事忙しかったりとかしてたけど、入学からずっと一緒で、私の悩み事とか聞いてくれたんだ。旅行は行けなくても、せめて卒業はお祝いしたかったな…。」


怜子がいない事を悲しむ、先日に旅行の話をしていた友人2人。この日のために着飾ったにも関わらず、何かが足りない。そんな2人を気にも留めずざわつく観衆が、"お、おい…"、"見てよあの子、綺麗…"と一斉に感嘆の噂をし始める。群集心理か、無意識に友人2人は声の示す先に向いてしまった。



「…ちょっと、あれ!!!」

「…え!?えええ!?」



"夢の終わり"じゃない。


彼女を飾るためだけに59万枚近くの花びらが、その身命を全うしようと舞い踊る。木1本分の数字ではない、この場にある桜の木を数えれば桁が違う事なんてすぐに分かる。1枚1枚の生命が、個を輝かせるため"確かに"存在していた。その花吹雪の中をまだ"女の子のまま"で"大人になった"、ボーダーラインを小刻みに揺らし颯爽と歩く怜子の姿と、星の輝きを受け止めて佇む海の色を、逆に引き立てる幸福の色。


着地と共に儚く生命を終えた花びら。自らは終われど、怜子はこれから"咲く"のだ。桃色のティアドロップが不器用な言葉で、彼女の夢が続いていく事を叫ぶように願っている。


「お待たせ」



 *


儚い生命を方々に散らし、身命を全うする幾万もの花びら。彼ら彼女らが舞台背景を彩る中で、友人と撮った写真。夢の続きを願う個々の生命が星の河となっている事も皆が忘れ、その日は怜子が誰よりも"主役"になってしまった事を、4月になっても憶えていた。


「ねえ一緒に写真撮って!」

「あ、こっちもいいですか?」

「だったら皆で撮ろうよ!…大勢で撮ろう、集合集合!」


来るべくして来た季節の必然よりも、その場に現れた"明星"の存在を誰もが喜んだ。


想像できなかった大勢での写真撮影を終わらせ、友人と写真を撮る。気づいた頃にまた、怜子は泣いていた。


「泣かないでよ、怜子ちゃん…!」

「だって、こうやって皆で卒業式に居られると思ってなかったから…」


泣かないでと言われても、説得力がない。怜子を心配していた彼女も泣いていたのだから。

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