14話「言いたくない事」ー後編
*
何かあった時のために、辰実は怜子に自宅の合鍵を渡していた。先にその鍵で中に入っていたのだろう、伊達と熊谷、栗栖、マイケルはダイニングテーブルの空いている席に座って待っている。
「すまない、遅くなった」
「いえいえ、ご無事で何より」
若干息を切らした様子の辰実に、頭を下げる伊達。
「飲み物なら、冷蔵庫から適当に拝借してくれたら良かったのに。」
「いやそんな」
「俺はこの間、トビの分のコーヒー貰ったってのに。フェアじゃないだろう?」
「だとしても上司の家の冷蔵庫漁る部下がいますか?」
予想だにしない騒ぎに、疲れた様子の熊谷とは対照的に辰実は平然としている。
「冷蔵庫に入れてた、俺のコーラを勝手に飲んだ上司はいた」
「最悪じゃないですか」
「ああ、"禁煙"って貼り紙してる前で煙草は吸うし、人が仕事してるのに呼び出しやがってと思ったら"話し相手になれ"って。本当、滅茶苦茶な上司だった。」
「それって、前の職場の…?」
それぞれにコーラかコーヒー、葡萄ジュースか注文を聞きながら、辰実はグラスにそれぞれ注いでいく。栗栖は葡萄ジュース、マイケルはコーラ。伊達と熊谷の前にアイスコーヒーを置いてから、また話を続けた。
(珍しいな、黒沢さんが自分の話をするなんて)
「前の職場と言うのは、俺が"てぃーまが"にいた頃の話か?」
「いたんですか、"てぃーまが"。」
「ああ、いたよ。1年で辞めてしまったけど。」
(…だったら、"アヌビスアーツ"じゃない。その前の"神室広告店"に来る前にワンクッションはある筈だよな)
「それから、次の仕事を7年半。で、"神室広告店"。」
「人に歴史アリ、デース」
「マイケルの言う通りだ」
プルタブを起こし、缶の中身を豪快に飲み始める辰実とマイケル。熊谷もアイスコーヒーを口にするが、苦みに喉が止まってしまう。
「すまないトビ、砂糖は必要だったか?」
「いえ、大丈夫です」
「前の仕事をしていた時に、コーヒーに砂糖もミルクも無くてな」
「その"前の仕事"って何だったんですか?」
「そうそう。さっきの騒動の事と、俺の前の仕事の事をきちんと話しておかないとな。」
普段、全く自分の話をしない辰実が珍しく過去の話をしている。その様子を見て、垣間見る事ができた情報の所為で熊谷も疑問が生じてしまった。…栗栖も、マイケルもそうだろう。
(伊達さんは知ってそうだな)
「できれば話したくなかった」
トーンを落とした言葉に、先程までの飄々とした様子が"演技"だったと思い知らされる。
「"言いたくない事は言わなくていい"。上で休んでいるあの子にも、面接の時に言った事だ。別に気遣いで言っている訳じゃない、俺が以前に何があったか話をしたくないだけだ。…今回は止むを得ないから、前職の事とさっきの事に関係する事だけは話すよ。」
昼前なのに、急に陽が落ちたように静かになるリビング。話が終わる頃には、もう昼を過ぎていた…。
*
「ただいま」
愛結が帰ってきて、ようやく夕方だと気づく。"アヌビスアーツ"の4人に騒動の肝である"人殺し"という言葉について、更に辰実の前の仕事について説明が終わり4人が帰宅した後から、ずっとダイニングテーブルに座っていた。
「お帰り」
ほっとしたように答えると、愛結は小首をかしげて微笑んだ。
「騒ぎの話を古浦さんから聞いて、心配してたのよ」
「あんな事ぐらい、大丈夫だ」
"片付けをしなければ"と思って、空になったグラス3つと空き缶2つを流しへと運ぶ。そのまま蛇口のレバーを上げグラスを洗い始めた。
「どうして"人殺し"なんて叫ばれたのか、それを説明する方が余程堪えた」
「………」
洗い物を終えた、辰実の隣に立つ愛結。"怜子ちゃんは?"と聞かれ、"上で休んでる"と辰実は答える。
「一番の被害者だ、あの子にも説明をしなければならない」
「…辛いけど、仕方が無いわね。もし辛かったら私が代わりに話そうか?」
「いいや、俺の事だから…」
言葉を遮るように、細い指が頬に触れる36℃の感覚と共に、愛結は辰実の唇を唇で塞いだ。
「苦しいなら、無理をしない事。…話をする時は隣にいるようにするから、そんなに思い詰めないで。」
「すまない」
いつもはこの時間、リビングを徘徊する猫のさくらが疲れたようにベッドで丸くなっている。愛結のキスで平静に戻った辰実の目に、様子が映ると携帯電話が振動する。メートルも無い程の距離にいる愛結に気を遣いながら手に取ると、"古浦湊"と電話の主は表記されていた。
『古浦です。騒動の後ですが、大丈夫ですか?』
「手短に」
『お時間頂き、ありがとうございます。実は黒沢さんに、謝罪しておかなければいけない事がありまして。』
「城本が俺の事を"人殺し"と言った件ですね?」
『その事を城本に話しましたのは、僕なんです。』
愛結の視点から、明らかに辰実が怒っているのが分かる。それを本人も分かっているのだろう、一呼吸置いて辰実は話を続けた。
「篠部の件と騒動の件については、弁護士を挟み訴えを起こすつもりです。」
『でしたら、僕も訴えられるという事ですね』
「それ相応の覚悟はしておいて下さい。…これ以上余計な事をすればの話ですが。」
一方的に、辰実は電話を切る。緊張の糸が切れる寸前まで張り詰められた様子を見守っていた愛結は、思わずため息をついてしまった。
「しっかりしておかないと、"アヌビスアーツ"のこれからにも関わってくるのでな。」
「ちゃんと店長をやっていたのね、感心感心。」
調子を狂わされた愛想笑いで、"人を何だと思ってたんだ"と吐きながら辰実は夕食の準備を始める。明日は学校が休みだからか、燈はまたマドリーヌの家に泊まる事になっていた。保育園は明日もやっているのだが、"たまには送っていくわよ"と更に双子の面倒までみてくれている。
「私は怜子ちゃんをお風呂に入らせて、話ができる状態にしてくるわ」
「ああ、頼む」
そう言って愛結はリビングにある2階への階段を昇って行った。その間にも、辰実は夕食を何にするか迷っている。
*
夫婦の寝室。
昼前から、怜子は横になっていた。昨日の疲弊も相まって、昼前の騒動も堪えている。気を遣ってきてくれた長毛の猫を無理矢理に抱きしめて気持ちを紛らわそうとしていたが、寝てしまっていた間にいなくなっていた。
「入るわよ」
ノックと共に、愛結が入ってくる。気持ちに余裕が無い所為か、愛結がこちらに笑顔を向けていても何も思えない。
「愛結さん…」
横になっている状態から、怜子は足先を外に向けた女性特有の座り方で愛結の方を向く。心がもみくちゃになって居る間に、ある程度思っていた事はあったのだろう。彼女の口からはそのままの言葉が出てきた。
「数日、お世話になりました。」
「何を言ってるのか分からないわ」
「…家に、戻ろうと思います。それから、"アヌビスアーツ"も辞めようと思います。」
「大体の事情は分かってるつもりだけど、私は今の怜子ちゃんに"そうしなさい"と言えないわよ?」
辰実が怜子に1年前起こった事や、城本の事を知っていると察したのだろう。"知っている"からこそ辰実に不信感を覚えてしまったのだ、彼女の泣き腫らした目元を観れば容易に察する事ができた。
「"わわわ"には1年前の事、他言するなって言われたわよね?…私も、主人には言わなかったわ。そもそも彼は知っていたんだけど。」
「"知っている"という事が怖いんです。もう起こらないなんて思っていた事がまた起こったんだから、知っている人が怖くて仕方ないんです。」
「理由にもよるかもしれない」
怜子の目元にまた、涙の痕が残っている。その人の悲しみの本当の所なんて、他人である以上"読む"事はできても完璧に"理解する"事なんてできないだろう。それでも、悲しいと思っている事に向き合う事はできる。自分の悲しみに自分が向き合うように、他人の悲しみにも自分が向き合う事だってできる。
愛結は怜子に正面から向き合った。
「理由、ですか?」
「少なくとも辰実はその理由を貴女に話そうとしてる。それに耳を傾けるかは怜子ちゃん次第。」
(私次第…)
「黒沢さんの事だから、私の事を傷つけたりする事じゃないとは思ってます。…それでも今、気持ちが"話を聞かなきゃ"って思えないんです。ここに戻って来る前に"来ないで"って突き放したんだんですよ?」
(怜子ちゃんの事で、辰実が何を考えているかは分からないけど。でも今は辰実の話を聞かないと先に進まないのよね。)
「仕方ない」
それだけぽつり呟いて、愛結は怜子を無理矢理肩に担ぎ上げる。担ぎ上げる前に、いつも落ち着き払ってニコニコしている愛結が、口元を真一文字にして不機嫌そうな顔をしていたのを見てしまい、"愛結さんにまで悪い事を言ってしまった"と思う暇もなく、体を持ち上げられる感覚に声をあげてしまった。
「え…?ちょ、何をするんですか!?」
「まずはお風呂に入って体を綺麗にしなさい。話はそれからよ。」
肩の上に持ち上げられ、大人しく怜子は体を半々に折る。そのまま寝室を出てリビングへの階段を下りていく愛結が平然としている様子に、体格差以上に体力差がある事を思い知らさせる。年齢は1周り違うにも関わらず、ここまでのフィジカルを兼ねているのは相当な努力の結果だろう。
(やっぱり綺麗な身体を作るために、今もしっかり鍛えてるんだ…)
「ちょっとこの子、お風呂に入れてくる」
「はいよ」
料理本で献立と手順を確認しながら、フライパンの用意をしている辰実。変わらない仏頂面なのに気の抜けた様子なのは居心地の良い場所だからと言える。
(…ん?今肩に担ぎ上げて無かったか?)
料理本と睨めっこしていた辰実は、思わず二度見してしまった。普段はお淑やかな愛結が、大胆にも怜子を担いで無理矢理風呂に行くなんて瞬間なんて想像できない。…が、現実問題起こっているのだ。
風呂場の前、脱衣所の木製の引き戸が閉まる音がする。若干悲鳴にも聞こえなくない、怜子の声と愛結の"ほら早くお風呂入りなさい!"と圧の強い声がキッチンまで届く。また泣いていたから、気持ちを切り替えさせるために無理矢理にでも風呂に入れようとしているのだろう、実際どうかは分からないが、愛結が怜子の服を剥いでいく様子を想像しても、どうも愛結のイメージからは遠ざかってしまう。
(これが"百合シーン"という奴か…)
"見たかったな…"と一瞬思ったが、"いかんいかん"と被りを振って料理に意識を戻した。
*
暫くして、半袖のTシャツに部屋着のショートパンツ姿の怜子と、サイズの大きい半袖Tシャツ1枚姿の愛結がリビングに戻ってくる。煮込み料理がひと段落したようで、辰実はダイニングテーブルで雑誌を読んでいた。
「黒沢さん…」
「話をさせて欲しい、座ってくれ。」
促されるままに、辰実の正面に怜子は座る。夫婦が隣どうし座る形で、話は始まる。
「トビ達にはもう、事情は話をしている。…伊達さんについては前から知っていた。」
「昼前の、"人殺し"と騒がれた事ですか?」
「そうだな。…できれば俺は、この話はしたくない。」
"言いたくない事は言わなくていい"
口癖のように言っていた言葉は、実は他人と距離を引くための予防線だと今更になって怜子は理解する。"自分は暗い過去があるから人と距離を置く"なんて言って、本当は構って欲しいなんてチャチな話じゃない、辰実のそれは"本当に思い出したくも無い"事であった。
「分かりました。私の心の中にだけ留めておきます。」
「そうしてもらえると助かる」
居心地が悪そうに、さくらが2階に上がって行く足音だけが聞こえた。
「結論から言うと、俺は過去に人を殺した事がある」
面と向かって"人を殺した事がある"と言われれば誰でも驚く。怜子だって現に言葉を失った。
「勿論、裁判にはかけられたが結果は"無罪"だ」
「どうして無罪なんですか?人を殺したのに。」
「それが"許される範囲"での殺人だったからだ。俺が殺した相手と、何故殺したか説明すれば意味は分かる。」
殺人に"許される範囲"があるかと思ってしまうが、一方で辰実が"人を殺した"という話が怜子には未だ飲み込めない。今はまるで、何事も無かったかのように生活をしているように見えるのだ。
「4年前に、成間市の舘島で23人が殺された事件があっただろう?」
「詳しくは知りませんが、ニュースで観た事はあります。」
「俺はその事件の現場にいたんだ。そこでやむを得ず犯人を射殺した。…その時にはもう、日本刀で23人を殺した後だった。勿論、俺も襲われて未だ腹に傷が残っている。」
現実感の無い話。されど嘘を並べているようには感じられなかった。
「当時、俺は警察官だった。その後3年半勤めあげた後退職し、"アヌビスアーツ"の前身になる"神室広告店"の店長さんに拾われて現在に至る。」
警察官が現場で拳銃を使用した際、その使用が"職務執行の上で適正であったか"を審議にかける事となる。警察組織で規定されている、拳銃の使用判断基準に基づいて使用されたのであれば問題ない。
相手が日本刀を振り回し暴れる殺人犯であり、抑止のために拳銃を使用する行為は勿論、その範囲内にあたる。
「警察官として、最後の半年。俺が君の事を知ったのはその時だ。」
「…どうして、私の事を?」
大体の予想はついていた。…"言いたくない"とは言っていても、それでも怜子は辰実自身の口から説明が欲しかった。
「君が去年、"しだまよう"に追いかけまわされていた時に、"駒田さん"と言う大柄な警察官から聴取を受けただろう。…あの人は、俺の同僚なんだ。」
「だから黒沢さんは、私の事を…」
当時、辰実と怜子には直接の面識は無かった。
"わわわ"のグラビアアイドルが"しだまよう"からストーカー行為をけていると通報があったのは、"わわわ"の社員を名乗る匿名女性からで怜子では無い。もし彼女がやっているならこの辺りで自白するだろう。
「これはもう1つ、君にとっては都合の良い話だ。」
「私にとって都合の良い話ですか?」
「ああ。月島亜美菜が先日、君に言っていた"辞めたグラビアの後輩"についてだが、俺は駒さんが君から被害者調書を録っていた間に、その子達から調書を録っていた。…勿論、内容は覚えている。」
怜子がグラビアの契約を解除された理由は、"後輩に暴言を吐いて辞めさせた"と言われている。調書の内容によっては、辰実はその真偽を把握している可能性がある所まで怜子は推測できた。勿論、怜子自身は自分の契約解除が"嘘の理由"であると分かっている。
第三者がそれを証明できるのであれば、非常に心強い。
「その内容については、また必要な時に話すよ」
言わなくても怜子の顔には、"どうして?"と書かれていた。
「1枚しか無い"ジョーカー"だ。どんなに逆転の可能性を秘めていても、使い所を間違えてしまえば負けてしまう。」
「逆転の可能性、ですか。そんな事私には思いつかなかったです、どうしたら良かったのか…。」
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