14話「言いたくない事」ー中編
*
「それで、バナナシェイクが一番美味しかったんですよ。」
"アヌビスアーツ"。辰実と一緒に出勤してきた怜子の本日の業務も引き続き"作曲"。本日の予定では"若松物産"の味元がこちらに来る予定なのだが、"次の話にとっとく"という理由で今回は辰実だけで味元と話をするようで、作曲が区切りのいい所まで進んだ所で、"Lucifer"のアクセサリーのアイデアに行き詰っていた3人と話をしている。
「バナナシェイク?」
栗栖が目を見開いて食いつく。"栗栖はバナナ好きだもんな"とツッコミを入れながら、熊谷も怜子の話に興味津々である。普段は殆どと言っていい程プライベートの事を話さない辰実の貴重なプライベートの話は凝り固まった頭をほぐす絶好のネタであった。
「牛乳とバニラアイス、冷凍したバナナをミキサーに入れて混ぜてたんですよ。それだけで氷の粒もちゃんと入ってる感じで美味しかったです。」
「それにチョコレートを入れても旨そうだ。プロテインを入れてもいい。」
「朝食にはもってこいデース」
(そう言えば黒沢さん、家事にも積極的だって話を伊達さんがしてたな。)
熊谷は時々、辰実に子育ての相談をしている事がある。殆どプライベートの話で3人が把握していると言えば、辰実がどんな料理を作ったとか、子供が何人いるかの話であった。
「今度やってみるか、バナナシェイク」
「美味しそうデスネ」
バナナシェイクという一品を朝に作る辰実の話も気にはなったのだが、熊谷が合図してミーティングテーブルに4人の顔を突き合わせると出てきた話は、また別の事である。
「…それで怜子ちゃん、どうだったんだ?」
「何の事ですか?」
「黒沢さんと、奥さんの感じは。どんな感じだったかって話。」
「トビさん、そこ気になるんですか?」
「当たり前だ、僕にはどうも"黒沢さんが尻に敷かれている"ようには思えないんだ。」
言われていれば、プライベートが謎の男が"明かしている"数少ない自己情報の1つが"グラビアアイドルの黒沢愛結と結婚している"という話であった。人気グラビアが妻にいるというだけでも驚きものなだけに、辰実が普段はどういう人なのか気にはなる。
「仲が良い夫婦でした。…しっかりしていた愛結さんが人に甘える様子を見たのは初めてです。」
「尻に敷かれてる訳じゃ無いんだ」
*
一方、入り口すぐの応接スペースで"若松物産"の味元と話をしている辰実。怜子も同席させたかったのだが、今回は"作曲"に集中してもらうために奥で仕事をさせている。…進捗は、予想より早く進んでいるようであった。1分と少しの間、お囃子のような曲を流したいと考えているそうだが、それだけの曲を作るのにも時間がかかるとは、作曲も難しい。
「ほうほう、これは躍動感が。"夏の暑さ"よりも売り上げに対する熱さを感じます。」
6月に旬の魚介類が集まる様子を"祭り"と考えた。背景に炎がゆらめき、斜め上に飛んでいく魚群の躍動感に、思わず冷や汗をかいてしまった味元は、持っていたハンカチで額の汗を拭くよりは、額を磨くと言った方が正しい。
「…黒沢さんが作ってくれるのは初めてですが、先代に引き続きお頼みして良かったと思いますよ。」
「ありがとうございます。」
深々と頭を下げる辰実。いつも通り淡々と話はするが、表情は笑んだりぶっきらぼうに戻ったりと変化はする。
「して、いつも一緒にいるあの子がいませんが?」
「彼女でしたら、"とある"作業を」
「作業ですか?忙しいですね、"アヌビスアーツ"さんも」
「"作曲ができるとは知らなかった"もので」
"作曲ができる"と聞いて味元は目を光らせる。ついでに額も光らせた。ここで食いついた味元の様子を見て、"これは好感色だ"と心の中でほくそ笑んだ辰実であったが、事態は起こる。
*
「どうもー、"しだまよう"でっす!!!」
昨日は怜子を追っかけまわし、警察に追っかけまわされた挙句に川に飛び込んで逃走した配信者とそのカメラマンである。余程の強心臓なのか、懲りずに動画配信をしているのは見上げたモノとも言いたくはない。
…最も問題は、この配信が始まった場所が"若松商店街"で、しかも"アヌビスアーツ"の前だという事だろう。何をするかは分からないが、いかにも"面白い事をするよー"と言いたげに2人はカンペと声のわざとらしい会話を始めた。
ーここは何処なんですか?
「よくぞ聞いてくれました!ここは"アヌビスアーツ"というデザイン事務所です!」
ーあの、篠部怜子がいるって言う?
「そうそう、怜子ちゃん。本当可愛いですよね、昨日はインタビューに失敗したけど。」
良識のある人が100人いれば100人が、"あれはインタビューじゃなくて女の子に恐怖を与える動画だ"と言うだろうが、良識の欠けたもしくは心のどこかで人の苦しんでいる所を見たくて仕方が無い人からすればエンターテイメントなのだろう。
大の男が商店街のど真ん中で声を出して動画配信でもやっていようものなら、何があったと現れる野次馬。その数があればあるほど、迷惑な男達も気合を入れてしまう…。
ーそれで、今日はここで何をするんですか?
「今日も怜子ちゃん、といきたいトコだけど。俺は店長さんにも出てきて欲しいかな?今日は店長さんを呼んで、怜子ちゃんにインタビューしていいか話をするプランです!」
ー店長さん?どんな人なんですか?
「話によると、中々のやり手らしいよ。…あ、そうそう。勿論だけど店長にはサプライズを用意してます。」
ーそれを、どうやって呼ぶんですか?
「とあるスジから得た情報によると、店長を呼び出す魔法のワードがあるんですよね。それを皆で大きな声を出して手拍子付きで何回も言ってれば出てくるんじゃないかな?」
ここでぞろぞろ現れる、不良風の男達。昨日は辰実と饗庭に叩きのめされたのに、今日も今日とて城本に呼び出され"動画の仕込み"として徒労に勤しむ。
「さあさあ皆さん、店長を呼んでみましょう!」
"せーの"と城本の号令で、仕込みの不良達も準備を始める。
「ひっとごっろし!!!ひっとごっろし!!!」
事務所に向かって出た第一声が、"人殺し"である。城本の第一声を皮切りに、驚き戸惑う観衆の目も気にせず、野次馬数名とともに"人殺し"コールを手拍子付きで連発する。
"アヌビスアーツ"の反応は無い。
「出てこーい人殺し!さっさと怜子を俺に寄越せよ!!!」
調子に乗って菰田が、"アヌビスアーツ"に向かって叫んだその瞬間。ブラインドの隙間から見えた"射貫くような"黒い視線と目が合い、背筋が凍り付いてしまう。周りの者が"人殺し"と連呼する中、一番最初に静かになったのは彼だった。
*
「話どころじゃありませんね。…どうするんですか黒沢さん?」
「出て行っては向こうの思う壺です。」
突然の出来事に焦り、冷や汗をハンカチで拭く味元。ブラインドを指で動かして、僅かな隙間から外を見る辰実。菰田が"怜子を俺に寄越せ"等と不快な事をいうモノだから、思わず顔が険しくなってしまう。
(あの子を何だと思ってるんだ、本当に)
「味元さん、説明は後でさせて下さい」
「…ええ、分かりました」
とにかく、誰1人として正面から出ては相手の良いようになってしまう。…こんな状況でも怖いくらいに冷静であった(菰田の言葉辺りで苛立ってはいるが)辰実は即座に"裏口からの脱出"を提案した。
「裏口があります。そこから出ましょう。」
"この事については、後程説明します"と、味元を事務所の奥に誘導する辰実。当然の事ながら、防犯カメラで入り口前に集まって"人殺し"コールを繰り返す集団の様子を見て、熊谷、栗栖、マイケルの3人は完全に動揺している様子であった。
「全員、裏口から脱出だ。今日はもう店じまいでいい、仕事が遅れた分の損害は後々あの連中にしっかり補填してもらおう。」
「………了解」
頷いた3人であるが、熊谷だけが納得のいかなそうな顔をしている。"何でこんな事が起こっているのか?"と辰実に説明を求める表情だが、それも当然の事だと冷静を辰実は崩さない。
「色々と事情がある、後で説明はさせてくれ。」
「分かりました」
困惑している味元と3人をよそに、平静な男が1人いた。
「由々しき事態ですな」
「ええ、伊達さんにも"事情の説明をしたい"ので、先ずは脱出して俺の家に向かってくれませんか?」
この時、辰実の一言の裏を探ろうとする視線が向けられていた事に誰もが気づかなかった。
「かしこまりました。」
「こっちの3人は知らないので、案内をお願いできますか?」
「ほう。黒沢さんは脱出されないのですかな?」
「俺は少し、やっていく事があります」
"でしたら、お気をつけて"と深々頭を下げる伊達。脱出の算段をつける傍らで、ここにいる全員が怜子の不調に気づく。俯いたまま袖を掴んで震えている様子に、事がいかに恐怖を与えていたかを悟る。ましてや昨日追いかけまわされ、日が明ければ職場までやって来たのだ、"一番の被害者"が動揺しない訳が無い。
怜子が座っているミーティングテーブルの一席。その向かいに辰実は座ろうとする。
「来ないで!!!」
テーブルを両手で押し、辰実にぶつけて座るのを阻止しようとした怜子。"しだまよう"が執拗に怜子を追いかけまわす事や、1年前にも同じような被害があった事。その事情を辰実は"知っている"可能性、そこに行きついた時に"不信感"を持ってしまったのであった。
その感情すら、辰実は受け止める。彼女が両手で押したテーブルは、座ろうとした辰実の腹に直撃した。気づいて防ぐ事はできたかもしれない、にも関わらず何もせず腹部への鈍痛を受け入れる。
(…俺が受け止めるべき痛みでもあるんだ)
外にいる連中にだけでない、自分にも向けられた"怖い"という感情。正面から向けられた呼吸荒く泣いている怜子から辰実は目を逸らさずにいた。
「怜子ちゃん、早く逃げるぞ!」
辰実にとっても心の痛くなる事だっただろう。…それでも収まらない外の騒ぎの中でじっとしている訳にはいかないと最初に思った熊谷が、怜子の腕を掴んで足早に脱出を始める。続いて栗栖とマイケルも味元の誘導を始めると、最後に伊達が裏口から出るのを、辰実は見送った。
「では、後程」
「よろしくお願いします」
辰実を除く全員が脱出、静かになって外の騒ぎだけが聞こえる事務所。誰もいないのを確認するとロッカールームに行き、"使用厳禁"と貼り紙がされたロッカーのカギを開ける…。
*
「ひっとごっろし!ひっとごっろし!」
「早く出て来いよー、人殺しめ!」
「人殺しは俺達が成敗してやるー」
昨日にボコボコにされたばかりにも関わらず、集団になると調子に乗って騒ぎ出す。更に言えば今回は饗庭も駒田もいない、"辰実1人"の状況だからこそ大丈夫だろうとタカを括ってしまった。
騒ぐ集団、何事かと集まる野次馬。
…その騒ぎを一瞬にして静寂へと変えたのは、"アヌビスアーツ"のドアが"バン!"と乱暴に開けられる音。
「クワァァァァァァァァァ!!!」
現れた男が、突然叫び出し襲い掛かる。集団が驚き、慌てふためき始めたのは被り物で男の顔も分からないし、何故か刀を持っているが、模造刀なのだろう。
「何だアレ、ヤバいぞ!!!」
「おい早く逃げろ!!!」
慌てふためく観衆を者ともせず、模造刀を振り回し城本や菰田、不良達に襲い掛かる被り物の男。黒い半袖のインナーに黒い綿パン、中背で筋肉質の体格をしているのは分かるのだが、エジプト神話の"アヌビス神"の被り物をしているためにその顔は分からない。
しかし、彼の背中は激昂しているように見えた。
ここまでの流れを読んで頂ければ、概ね読者の方々は把握されていると思うが、被り物を被って模造刀を振り回している男こそ"アヌビスアーツ"の店長、黒沢辰実である。全員が裏口から脱出する際に事務所に押しかけられては困ると思った彼は何故か、"使用厳禁"と書かれた紙が貼られたロッカーを開け中身を装備し出て行った。
ツッコミ所が多いのは聞くまでも無い。しかし何故自分だけ残ったのかと聞かれれば無論、自分だけ残っても城本、菰田と不良複数人くらい相手にするなど造作もない話であったから残った訳である。
「おぉるぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「ひぃーーー!」
「ヤバいぞアレ、逃げろ!!」
仕掛け人とその付属品が、全員逃げ出すまで模造刀を振り続ける。当てる気は無いのだが、少しでも相手が"当たったらマズい"と本物に近い偽者を見て勝手な想像をして恐怖を覚え、逃げていく様子にも無心で暴れるアヌビス男(正体は黒沢辰実)。
突然、鳴り響くホイッスル。
制服姿に防刃ベスト、そして帯革と呼ばれる厚い革のベルトに硬いホルダーに入った拳銃と警棒を引っ提げた警察官が2人現れる。この2人が到着した辺りには、もう野次馬も退散し、"さすがにこれはマズい"と状況を察していた城本、菰田も撤退し始めていた。
目的を達成した辰実も、事務所の入り口に逃げ込み鍵を閉める。
どう見ても状況は、"しだまよう"の配信を阻止するために"アヌビスアーツ"の誰かが被り物をして出てきたと分かるものだろう。
「若松1から、本部、東」
『本部です、どうぞ』
『東です、どうぞ』
「若松商店街における迷惑行為の件、既に行為者は立ち去った模様です」
『本部了解』
『東、了解』
「暫く現地にて警戒、後何もなければ現場から離れます。以上、若松1。」
*
暫く警戒したって、何も無いだろう。
城本と菰田、その周りの者が軒並み撤退していった傍らで、辰実は既に帰り支度を終え裏口から出て行っている。自家用の普通車、ではなく本日は徒歩であった(辰実の家から商店街まで徒歩10分圏内)彼は、裏口も鍵を閉め足早に商店街の脇道に入り脱出する。
煌びやかに彩度のついた商店街の"表"とは違ったモノトーンの路地を、早歩きで往く。足並みを止める事無く、震える携帯電話を手に取り、知詠子からの電話に出た。
「どうした、いきなり"人殺し"とか叫ばれたから驚いたぞ。」
『平然としてるわね、メンタルのセンサーが壊れてるから取り換えた方が良いんじゃない?』
「今度、通りの端にいる電気屋の爺さんに相談してみるよ」
知詠子もバタついているようで、冗談も早々に用件だけを伝える。
『被り物して暴れたの、貴方でしょう?交番の警察官には"不問にしておく"って言っといたから。感謝しなさい?』
「隣の通りの肉屋で、黒毛和牛のステーキでも買って献上しろってか?」
『良いわねソレ。…でも甘いモノが良いわ。』
「ボビーの所でも行ってきたらいい」
『美味しいけど、名前のセンスが悪すぎるのよ』
「泣くぞ、意外と繊細なんだから」
『貴方が今、そうでなくて良かったわ。それじゃ。』
一方的に電話を切る知詠子。辰実が"出頭させる"と言った事を信じているのか、状況を静観しているようにも見えた。
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