14話「言いたくない事」ー前編
(前回のあらすじ)
またもや怜子に声をかけ、手を出そうとした男は、古浦と昔"動画配信を一緒にする予定だった"城本の連れであった。再度注意する古浦であったが、連れに発奮させられた上に"わわわ"で横山のお気に入りとなっていた月島に唆された城本自身に縁を切られてしまい孤立する。
怜子を追うと確信した古浦は、仕方なく辰実に"城本の暴走を止める"ように依頼し、"怜子のため"とこれを了承した。
更に、これまで暗に怜子を追っていた迷惑配信者"しだまよう"の復活は、怜子の住居に突撃する事から始まる。騒動になるも、辰実と饗庭、更には警察の協力により事無きを得た怜子は、愛結の提案で黒沢家に居候する事になるのであった…。
*
T島県警 新東署 生活安全課
「川に飛び込んで逃げよったか。…猛々しいやっちゃのう。」
課長席。ガタイの良い彼の背後には"禁煙"と書かれた貼り紙。にも関わらず金属製でしみったれた鈍色の灰皿には真っ黒な灰が散っており、今も紙煙草にライターで火を点け吸い始める。五分刈りに色黒の見た目はおおよそ"極道"の方を連想する事だろう、生活安全課長の宮内善治(みやうちぜんじ)は紫煙を大きく吐き出すと、落ちそうになった灰を灰皿に擦り付けた。
「申し訳ありません」
「ええやろ、川まで追う必要は無いわ」
険しい顔をしている宮内に、深々と頭を下げる知詠子。
「それで水篠、現場に黒沢はおったんか?」
「古浦という"わわわ"で篠部怜子のマネージャーをしていた男が呼び出したそうです。」
「その方が"ワシ等にとっては"都合がええな。」
「黒沢を、このまま泳がせておけという事でしょうか?」
"言葉が悪いのう、お前は…"と、白い歯の隙間から煙を吐き出して笑う宮内。
「泳がすと言うよりは、このまま黒沢が"わわわ"の篠部にやった仕打ちの事を調べていってくれた方がやりやすいだけやな。」
「その通りですよ、本当助かります。」
「…何にせよ、あの迷惑な2人組を先に逮捕するんや。」
「その事ですが、黒沢が"出頭させるから任せてくれ"と。」
「黒沢が?アイツは何を考えとるんや?」
「城本に以前、関わっていた事がありますから。相手の出方は私よりも理解している所はあるかと思います。」
「せやな。…このまま任せてみよか。」
シケモクと化してしまった1本目の煙草を、宮内は灰皿に擦り付けて終わらせた。"令状の準備はゆっくりやってくれや"と言って年頃のオッサンらしい声を上げながら席を立って出て行った。
*
その晩。
「ただいまー」
ひと騒動あったが、辰実は怜子を連れて帰宅する事はできていた。くたびれた様子で玄関戸を開けると、金属のバーチャイムがぶつかり合って乾いた音を鳴らす。それを合図かと言うように、ぽてぽてと軽快なステップを重ねて迎えに来たのは、ラグドールのさくら。
「お帰りなさい」
続いて、愛結もやって来る。先刻に起こった事態に不安を感じていたようで、辰実の後ろに立っていた怜子の方を見て更に表情を曇らせた。
「大丈夫だった、怜子ちゃん!?怪我はしてない!?」
「膝を擦りむいたぐらいです、何ともありません。」
"お騒がせしました"と、怜子の両肩を強く握っている愛結に、頑張って作った笑顔で答える。"本当、無事で良かったわ…"と大きく息を吐いて安心していた愛結も、起きた事の重大さを分かってくれている。
「暫く泊まるのよね?」
「すいません、何日かお世話になると思います。」
「いいのよ。小さい子もいるし騒がしいと思うけど、何でも遠慮なく言ってね。」
"上がってくれ"と辰実に言われ、"お邪魔します"と答える怜子。ゆっくり靴を脱いで夫婦についてリビングへと向かう。リビングではキャットタワーで寛いでいるさくらをはじめ、長女の燈はダイニングテーブルで宿題をしており、次女と三女の希実、愛菜は2人で絵本を読んでいる。先程まで希実がおもちゃの木琴で遊んでいたのだが、愛菜と一緒に何かをする方がいいようだ。
「ご飯の支度してるから、もう少し待ってて」
「何か、手伝える事はありますか?」
「いいわよ、疲れてるでしょう?先に荷物を部屋に置いてきなさい。」
辰実の案内で、リビングから2階へ続く階段を昇る。廊下の奥にある夫婦の寝室に2人は入った。2人分のサイズより余裕のある布団と、簡素なデスクにはタイプカバーのついたタブレットPCが置かれ、別の場所には化粧台が置かれている。
「寝るのと着替えるのとは、ここを使ってくれ。」
「夫婦の寝室、ですよね…?」
「俺はリビングで寝る」
「そんな…私がリビングで寝ますよ。」
「客人にそんな事をさせる訳にはいかん」
半ば強制的(もう半分は辰実の気遣い)に愛結と相部屋で寝る事になった怜子。
(愛結さんと寝泊りなんて初めてだな…。私がグラビアになった時にはもう、家庭があったからお泊りに参加してた事も無かったし、飲み会も結構早く帰る時が多かったのよね。)
何気に楽しみではあった、撮影や"わわわガールズ"の仕事で遠征した時に、泊り先で他のグラビアアイドルやモデルの女の子と繰り広げるガールズトークが楽しみで仕方なかった。
それを愛結とできる"かもしれない"事に、期待で胸が躍る。ひとまず荷物を置いて怜子は、リビングに降りる。ダイニングテーブルで宿題をしていた燈と目が合う。"誰だろうこの人は?"と目で訴えていたが、怜子は燈の事を愛結から聞いて知ってはいた。
(長女の燈ちゃん。確か"養子縁組"だって…)
「こんばんは、燈です」
「篠部と言います、よろしくお願いします」
"俺の部下だ"と、辰実は簡単に怜子の事を燈に紹介する。
「パパが、いつもお世話になってます」
「…いえ、こちらこそ。お世話になってばっかりで。」
おおよそ小学3年生とは思えない挨拶に、怜子は戸惑ってしまう。"養子になるけど、いい子に育ってくれたら嬉しい"と愛結は言っていたが、もう既にいい子になっているとツッコミを心の中でいれる。
「ほら、希実と愛菜もお姉ちゃんに"あいさつ"するんだ。」
絵本を2人で読んでいた希実と愛菜に呼びかけ、"しばらく家に泊まる事になったから、お姉ちゃんにはイタズラしないように"と説明している。
「こんばんわー」
「はい、こんばんは。」
ソファーから降りて怜子の前に立つと、"こういう時はそうしなさい"よろしく仕込まれたように見えるお辞儀を双子はしてくれた。お辞儀が終わると、姉妹はソファーに戻って絵本の続きに没頭し始める。
「本当、愛結さんにそっくりですよね」
「甘いぞ、ちゃんと俺の特徴も顔に入ってる」
「…分からないです」
"確かに、よく観なければ分からん"と言いながら、辰実が両手で抱え上げたのは希実の方だった。双子の見分けが誰にでもつくように(気を抜けば義理の母辺りだと普通に間違えるくらい似ている)、希実の方は髪を長くして、愛菜の方は髪を短くしている。
「はい、こちらが希実」
口元が綺麗なへの字になった希実をソファーに戻すと、今度は愛菜を両手で抱え上げ怜子の正面に見せた。さっきの希実と一緒で、口元が綺麗なへの字になっている。言われた通り、よく見てみればぶっきらぼうな夫の要素を引き継いでいる事が分かる。…が、辰実を知らない人には十中八九分からないだろう。
「で、こちらが愛菜」
「口元が確かに、黒沢さんですね」
「気を抜くと愛想の無い口元になるが、これは俺の遺伝で間違いない」
"はいありがとう"と一応の礼を終わらせ、愛菜をソファーに戻す。何事も無かったように絵本の続きを2人は読み始めた。目を凝らして観てみなければ目の色と言い髪の色と言い、愛結の丸写しと言っても間違いでは無い。
「とりあえず、寛いでてくれ。またご飯ができたら愛結が呼んでくれるだろう。」
辰実はトイレに消えて行ってしまう。仕方なく怜子は、リビングに置かれている座布団を1枚敷いて、テレビを観る事にした。パトカーに乗っていた警察官が、職務質問でチンピラ風の男が大麻を持っているのを発見したが逃走される。それを追跡し捕まえている様子を、ぼうっと眺めていた。
「おねえちゃーん」
「………」
「ねちゃってるー」
「おねえちゃんもおおきくなるんだよ」
疲れていたのだろう、限界が来ていた怜子は、座ったまま寝てしまっていたのである。辰実に起こされ、食事を済ませた後は風呂に入らせてもらい、その日眠りについて翌朝起きるまでの記憶は怜子に無かった。
*
波乱の夕方を過ごし、夜が明ける。
夫婦の寝室にもう1つ敷かれた布団の中に入っていた事すら、怜子は忘れてしまっていた。気づいたら日が昇っている事をカーテン越しに知り、最初に思ったのは"焦り"。
部屋の壁に掛けてある時計を見ると、5時30分を回っていた。
隣に置かれている夫婦の布団で、愛結が寝ている…のだが、思いのほか寝相が悪い。右肘を曲げた大の字になって胸の下の辺りまで布団はめくれている。更に言えば、布団はもみくちゃになっていて、長い右足が付け根から出てしまい寝間着にしている大きいサイズのTシャツもめくれあがって中が見え、長い栗色の髪は放射状に拡がっていた。
「愛結さーん、見えてますよー。紫色のセクシーなのが見えてますよー。」
寝つきが良すぎるのだろう、怜子が呼び掛けても目を瞑って呼吸を続けるのみ。"仕方ない"と心の中で思っていたら笑った顔に出てしまう。間違えて触って起こさないように、そっと愛結に布団を被せる。
(大きくなるにつれて、大きなおっぱいが羨ましかった。…グラビアになってからもそう、今だって愛結さんみたいになれたらいいなって思ってる。)
いつもしっかりしているように見えた彼女の、砕けた一面。自分よりも幼く見えてしまった"憧れの人"の枕元に座ると急に愛おしく、それでどこか哀しくなってきた。整えながら手で流すように梳いていった栗色の長い髪が微かな陽光を反射して波を描いている。
眠れなくなり、トイレに行きたくなってリビングに降りると、リビングの中心に置かれたソファーで横になって毛布を被っている辰実がいた。
「にゃー」
家族の中で一番の早起きなのだろう。ラグドールのさくらがリビングの物陰から現れて挨拶をしてくれる。"ブルーポイントバイカラー"と愛結が言っていたグレーの八割れに、手袋をしているみたいな足先のグレーの毛並み。ラグドール特有の"青い瞳"が寝相の悪かった彼女を思い起こさせた。
怜子の脛に、頬をすり寄せるさくら。礼儀よく座った彼女の頭を、しゃがんで撫でてあげると嬉しそうな顔をしている。挨拶を終えたもふもふの生き物はしなやかに辰実の腹の上に飛び乗ると、円を描くようにステップを描いて丸くなる様子を、目を覚ました辰実が見守っている。
さくらの脇に両手をかけて抱え上げ体を起こす辰実。ソファーの上にゆっくりさくらを置くと、棚からキャットフードを取り出し、カップで計って皿に盛る。お腹が空いていたのに礼儀よく座ってご飯を待っていたが、辰実が準備を終えると素早く齧り付いた。
「朝の準備をするから、暫く待っていてくれ」
パックに入れて冷凍していた輪切りのフランスパンを取り出し、オーブンに入れる辰実。その合間にホットプレートを準備し、油をひいて温める。少し間を置いて卵を6人分割ってプレートに乗せ、ブロックのベーコンを3つ入れた後に蓋をした。その間に木製のボウルを6つ用意し、水洗いしたレタスを盛り付けた所でパンの焼けた音と匂いがする。
粗熱を取るために暫く置き次に用意したのは、冷凍していたバナナとバニラアイス。そして冷蔵庫から牛乳を取り出してミキサーのコンセントを刺している。
(手際が凄いな、黒沢さん…)
両肘でダイニングテーブルに頬杖を突きながら、その様子を見ていた怜子。彼女の父は料理の類どころか家事も一切しなかったと思いながら、また違った"父親"の姿が微笑ましい。いつもぶっきらぼうな辰実の姿は、あまり思い出したいものでは無い厳格な実父よりも優しく見えた。
粗熱を取ったフランスパンを、水を切ったレタスの上に乗せる。ベーコンをホットプレートから引き揚げ何枚にも切り、弾力のある黄身の質感が分かる程度に焼けた目玉焼きをフライ返しで掬い上げ盛り付ける。
6人分を準備できたら、バナナとバニラアイス、牛乳をミキサーに投入しスイッチを入れる。エンジン音を立てて食材が撹拌されていく事暫く、大きめのグラスにシェイクが注がれた。
丁度、6時を過ぎた所で愛結が降りてくる。寝癖まみれの長い髪に、眠そうな目をこすりながら降りてきた。
「おはようー…」
「おはよう」
「おはようございます」
暫くして洗面所に顔を洗いに行った愛結だが、さっきまでだらしない彼女が寝癖を整えて眠気を飛ばし帰って来ると、しっかりした大人の女性の立ち振る舞いに戻っていた。"燈とチビちゃん達を起こしてくるわ"と階段を昇って行った脚を眺める怜子。美しい曲線を描く長い脚に白い肌が羨ましい、シャツの丈で太腿は見えているのに、その先が"見えそうで見えない"のがもどかしい。
昇りかけの階段だった、それがいつの間にか降ろされて一段目を踏み直す事も出来ていない。…なのに、ずっと上にいる彼女は階段を昇っている。愛結が悪い訳では無い、それでも怜子が進むはずだった道すら犠牲にして彼女が成り立っている事が喉につっかえていて、飲み込む事はできないでいた。
「気にする事は無い、じきに一段目を踏む事はできる」
「本当に、できるでしょうか?」
「求めぬ者に幸福は来ない」
階段の方を向いていて辰実を見ていない怜子だったが、心を刺すような一言で視線を移す。辰実も怜子に視線を向けていたが、既にコーヒーの準備をしている様子。
視線のやり場を見失ってさくらを探していると、眠そうな双子を両脇に抱えて愛結が降りてきた。燈はその前を歩く燈と挨拶を交わしたと思えば、すぐ洗面所へと消えていく。
「ママねむいー」
「眠いけどご飯の時間よ、食べたら用意して保育園行かないと。」
「やだー、ねむいー」
両脇に抱えた双子を下ろすと、すぐさま洗面所へと向かった。娘2人のだらしない様子を指摘する愛結であったが、先程まで同じような顔をしているのを見た所為か"もう殆ど愛結さんだな"と怜子は納得してしまう。
「眠いからもうちょっと寝てていい?」
「チビ達に怒られるぞ、"ママずるーい!"って。」
「やだー、眠いー」
辰実の胴に後ろからしがみ付いて離れようとしない愛結だが、朝食の準備を邪魔はしていない。しがみ付かれたまま、辰実は料理をし終わった台の上を丁寧に拭いている。
「あ、やだ。ごめんなさい。」
怜子がいた事に気づいた愛結は、慌てて"しっかりしたお姉さん"を取り繕うとする。怜子の前ではそうありたいのだろう。仕事場では凛としている愛結が、急に融けたように夫に甘えている様子を微笑ましく視ていたが、気づかれてこちらに向けてきた視線で平静を装った。
「いただきます」
家族全員(と怜子)が料理の置かれたダイニングテーブルに集まる。手を合わせて温かくて歯ごたえのある輪切りフランスパンを口にすると、香ばしい風味と粉砕された硬いクラストが拡がっていく。誰かが作ってくれた"家庭の朝ご飯"なんて久しぶりだった。温かいと感じたのはパンの風味をリセットするために口にしたコーヒーの、物理的な温度では無い。
何年も1人で生活をしていた年月よりも、自分のいた家庭での時間が長い。それでも密度の違いなのだろう、1人で生活していた時間が家庭での生活を忘れてしまっていた。"もういらない"と思って川とも空とも分からぬ所に投げ捨ててしまったモノだ。何処とも分からぬ所に在る筈のそれの、ちぎれた小さい方が心に残っていたのは否定できない。
「ごちそうさまでした」
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