12話「ミスター・アンド・ミセス」ー後編


座ったままの古浦に会釈をされる。毎度のこと顔立ちは良いのだが、このスカした表情が辰実は気に入らなかった。おまけにこちらが立っていて向こうが座っているという状況なのにも関わらず、端から辰実の真意を眼の奥ごと覗き込んできそうな様子に不快感を覚えてしまう。


4人席の丁寧にクロスが敷かれたテーブル。堂々と、辰実は古浦の正面に座った。"お前の隣なんて御免だけどな"と悪態をつきながら、饗庭は古浦の隣の席に座る。正面と隣を饗庭と辰実が守るように、古浦の対角線上に愛結が座ったのは最後であった。


「ご注文を。ここのステーキは格別ですよ?」

「お前に呼ばれるんじゃなくて、俺は嫁さんと来たかったぜ」

「…そう言えば、ご結婚されたんですね。おめでとうございます。」

「口で言うくらいなら祝儀を寄越せや」


2冊あるメニュー表を、饗庭と古浦、辰実と愛結で分かれて眺める状況。2人だけでは無い状況に気を遣いながら、夫婦が目配せし合ってページをめくっている傍らで、饗庭は堂々と古浦に悪態をついている。誰が相手でも自分の意思表示で堂々と立っている"饗庭らしい"と辰実は心の中でほくそ笑んだ。


4人の注文が決まり、古浦が店員を呼ぶ。


「赤身ステーキ、400gで」

「俺もだ!赤身が食いてえ」

「私も赤身ステーキいいですか?200gでお願いします。」

「じゃあ僕は赤身ステーキの300gを」


注文を復唱し、店員は去っていく。


「赤身がお好きなんですね、良い趣味をしていらっしゃる」

「軟らかい肉は食べた気にならないもので」

「仰る通りです。何事も"歯ごたえ"が無ければ面白くない。」


腹の探り合いは、もう始まっていた。"んなモンやってられっか"と自ら腹を割って真正面から出てきた饗庭に、慎重に相手の腹を探りつつも自らを探らせない古浦。…早速ではあるが、このまま古浦と腹の探り合いをしても"いたずらに時間を浪費するだけ"だと考えた辰実も腹を割った。


この対応次第で、古浦の態度が分かる。



「ここに呼びつけたのは、まどろっこしい話をして人にするためですか?…古浦さん、いつも貴方の話は"自分に酔っている"ようで聞くに堪えない。」

「失礼、もてなしのつもりではありましたが。」

「もてなしなら、夜景とステーキで十分です」


同じように愛想の悪い表情であるのに、辰実の口から出た言葉の温度も音波も冷たいものだった。いつも愛結の前では温かい言葉をくれる夫の、初めて見た人に見せる厳しさは"社会人"としての一面なのだろう。


数回ではあるが、いい加減に腹の探り合いをしても得が無い。"怜子のシンデレラストーリー"を古浦が描いているのか辰実と饗庭は知りたいと考えており、もしそれが"正解"であれば古浦は自分の腹を割って話をしなければならない。理由は?と聞かれれば、古浦が描いているストーリーも、辰実が計画している事も、"描き方"が違うだけで"内容"も"配役"も全く同じものだからだ。



「愛結さん、"貴女も"呼ばれた理由はどのようにお考えですか?」

「古浦さんが何か計画している事は、私も予想がついてます。…貴方が計画されている事に、私も必要なのでしょう?」


辰実が険しい表情で古浦を見ているが、喉から出そうな言葉を抑えている。ロビーで饗庭に"誰とも手を組む気は無い"と言った通り、愛結であっても辰実にとっては"妨害要素"と成り得る事を考えれば彼女の腹も割ってもらわないと判断材料が足りない。



「質問に答えました。…次は、私の質問に答えて頂いてもよろしいですか?」

「…分かりました」


この場にいる3人の中で古浦に対して苛立っていたのは、饗庭でも辰実でもなく、"愛結であった"事を今更になって辰実は思い知らされる。



"怜子とお揃いのエプロンワンピース"



その事を疑問に思っていさえすれば、愛結の真意に早く気づく事ができただろう。…しかしながら、それは"夫婦"の話では無い、社会人としての"黒沢辰実"と"黒沢愛結"の線が曖昧に引かれていた事に気づかされる。


「亜美菜ちゃんが怜子ちゃんを恫喝していたのは、貴方も聞いていたでしょう?何故止めなかったんですか?」


"後で黒沢さん、饗庭さんにも答えてもらいます"と、静観していた2人に棘を刺す。夫を"黒沢さん"と他人行儀に呼称した事を見れば、"線引き"ができていたという点で辰実より愛結が一枚上手であった。


「古浦さん、先に俺から答えてもいいですか?」

「構いません」

「…言っておきますが、俺が答えている間に弁明の内容を考えていても分かります。気を付けて下さい。」


古浦をフォローするためでは無い。わざと"弁明を練る事のできる"時間を与え、その行動の如何で彼の人となりを理解しようとする試みであった。それ程までに古浦は信頼されていない。


「"わわわ"のモデルが、うちの篠部を呼びつけて一方的に恫喝している。…問題行動でしょう、それを止めてしまえば数少ない"アヌビスアーツ"が"わわわ"に斬り込める一刀を自ら捨てる事になる。後は、あの場は"彼女自身"の問題であった。本人が"契約解除"が嘘の理由だったと証明するには遅かれ早かれ、向き合わねばならない事です。」


あの場で否定せず、"私が後輩に暴言を吐きました"と認める態度でも取ってしまえばそこで終わりだった。本当は止めたかったにせよ、やり口に多少の問題は指摘されるであろうが、怜子のピンチを"わわわ"に斬り込むチャンスに捉えたのは"ジャイアントキリング"の鉄則だという事は3人に理解できた。


無論、そんな事を言いながら辰実が恫喝の事実を"斬り込み"に使う性格だとは愛結に考えられない。どこまで行っても人の"本性"は、仮面について回る。…辰実が"一刀"と比喩しているのはまた別の事だ。


「俺には止める理由が無え、それだけだ」


自分の弁明を終え、饗庭と辰実は鋭く古浦を見据える。


「では僕の番でしょうか?…理由は黒沢さんと被るかもしれませんが、怜子ちゃんのためです。」

「怜子ちゃんのため、ですか?」

「先に言っておきましょう。横山さんがどう言うかは分かりませんが、僕が考えているのは怜子ちゃんの"グラビア復帰"です。」


辰実は古浦を見据えたまま何も反応しない。その様子から愛結は、古浦が"まだ嘘は言っていない"事を判断した。


「人が名誉を得るためには"物語"というのも必要になる。たとえ不祥事が"嘘"だったとしても、その嘘すら暴いてもう一度煌びやかに被写体として返り咲ける、その話題性を持つだけの"物語"が要ると思うのですよ。」

「…怜子ちゃんは、グラビアとして持つモノは十分に持っていると思います」

「そう思うのでしたら愛結さん、貴女の認識こそ甘い!」


ここまで飄々としていた古浦の言葉に、初めて熱が入る。急に変化した様子に驚いていた愛結だったが、辰実と饗庭は静観していただけであった。


「貴女が怜子ちゃんと知り合ったのは、産休から帰ってきた時。怜子ちゃんがデビューして1年経つ少し前、人気が出始めたぐらいの頃でしょう?…それ以前の彼女を知らないから言える事です。」


怜子の苦労は知っているつもりであった。しかし"それ以上の事を知っている"と言われれば、何も言い返す言葉が無い。熱の入りようを見て、古浦が怜子の事を想って"発言している"という事は誰もが分かっていた。


あのスカした男が、繕った態度を捨てて話をしてくれているのだ。考えている事の差異はあれど、この時の古浦に対しては辰実も饗庭も好感を持つ事ができている。



「…失礼、取り乱しました」


状況を察した表情のウエイターが、4人分のステーキを運んできた。運ばれたステーキに舌鼓を打ちながら、笑顔で頭を下げた古浦が、誰よりも早く赤身の牛肉にナイフを当てる。


「これは、"わわわ"だけでは無く"アヌビスアーツ"の黒沢さんにも関わってくる事です。…今の"わわわ"を見ると、僕にはどうしても"伏魔殿"の類にしか思えないのですよ。」


"悪魔が跋扈する場所"と言われれば、外部の者にとってこれ程分かりやすい例えは無い。


「それは一部の者だけが利権を貪る、という解釈で合ってますか?」

「間違いではありません。…厳密に言えば、各々が"金のなる木"と思ってやまないグラビアやモデルをゴリ押しする、"人気があれば大丈夫"と思って、売り方なんて全く無視をする。そんな意識を持っている人間たちが上にいるから、誰に対しても傲慢な仕事になってしまう。」


グラビアの人気を、さも自分たちの権力のように振舞う。それが跋扈しているのだ。


「栄枯盛衰、それは誰にでもある。どの人にも言えるのが、盛り上がりもあれば引き際もある事。それを嫌だと言って、ずっと舞台に立たせようとし続けるのは、僕は如何なものかと思います。」


"そうでしょう、愛結さん?"


話題を振った古浦の意図は、愛結に現実を突きつけていた。32歳という年齢であれば、グラビアアイドルとしては若くない。これからのキャリアを考える事だってあるし、今もまだ"求められている"からこそ現役でグラビアを続けている。


「今"金のなる木"を失えば、彼女達を祀り上げてきた輩は、吸い続けていた美味い汁を失ってしまう。吸ってしまった美味い汁の味はそう簡単に離れられない。」

「そうなれば今ある"金のなる木"に依存してしまって、他のモデルやグラビアの存在が疎ましくなるってか?」


饗庭の答えは正解だった。両手を器用に使いこなし、フォークで肉を突き刺しながらナイフの腹を、肉に食い込ませた状態で"仰る通りです"と答える古浦。


「けっ、下らねえ」


悪態をつきながらも、目の前の大きな肉が焼けている音に匂いに歓びを隠せない饗庭は、切り分けた一辺を口へと放り込んだ。軟らかく仕上がった赤色の残る肉片に、塩コショウで味ついた肉汁と、色取り取りの野菜と果物を混ぜ合わせた酸味のあるソースの味がタッグを組んで味方を刺激する。


「同じ事がずっと続く、そんな"なあなあ"ってのは退屈過ぎんだよ。追い落とすも追い抜かれるも、そんな事があるから面白いってのに。」


"大物を食らう"


その意味と達成感を表現し、それを疑似的に体験するように饗庭は切り分けた一口大の肉片に豪快に齧り付く。人間の理性を被り、その中身は"獣"である事を自覚しているからこその落ち着きが彼にはある。



「そうです。…怜子ちゃんはもっと、色んな人を追い抜いてくれたと信じていました。」

「それはまだ彼女が、"花形"だったという事ですね。」


"プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント"。資金や人材といった、会社資源を適切に分配するための分析手法で、成長性と市場でのシェアを縦軸横軸に、"問題児"、"花形"、"金のなる木"、"負け犬"と分析対象を分けていく。グラビアアイドルとして完成された愛結は成長率は低いが、シェアの高い"金のなる木"と考えて良い。


古浦の考えであれば、怜子はグラビアアイドルとして"未だ完成に向かっている"という状況なのだろう。市場でのシェアもあり、未だ成長性がある"花形"と彼女を例えていた。


「黒沢さんは、怜子ちゃんが"契約解除"でグラビアを追い出されて被った被害についてはどこまでご存知ですか?」

「実のところ、あまり分かっていません。」


辰実も、話を切り崩すようにナイフを前後させ肉の繊維を擦り千切る。


「少なくとも知っているのは、"Lucifer"のアクセサリーのモデル、20代前半を担当していたのが"彼女だった"という事ぐらいです。…どういう事情で"月島亜美菜"になったんでしょうね?」


「"わわわ"にも、色んな事情があるんですよ。…そうそう、怜子ちゃんの被った被害について話をしてたんですね。まず、怜子ちゃんが年明けに出す予定だった写真集、この話が無くなりました。他にも話すと長くなるくらい色々ありますが、その仕事は"黒沢愛結"と"月島亜美菜"に分配されましたが。」

「それも、"金のなる木"を祀り上げる者の所為ですか?」


「その通りです。」



腹を割って話していた古浦だが、いつもの笑顔を見せていた。それが急に真剣味を帯びて重苦しい表情になったというのを、辰実も愛結も饗庭も、"本題に入る"と察知してフォークとナイフの手を止めた。



「…本人がいる前で話してしまう事になり申し訳ありませんが、僕はその事がどうしても気に入りません。手前勝手な都合の為に怜子ちゃんを斬り捨て、その責任も取ろうとしない。…あまつさえ、それを良い事にグラビアもモデルも仕事を増やしのうのうとしている。」


目を伏せる愛結。…隣に座っている辰実は、"何か言いたそうな様子"を横目で感じ取ったのだが本人が何かを言おうとして押し殺している様子があったために静観を続けた。


手を止めて目を伏せつつも、古浦に視線を向けている愛結の向かいで、"勝手に言ってやがれ"と他人事のように饗庭はステーキを切る手を動かし始めた。



「僕は、今の"わわわ"が嫌いです。…そして怜子ちゃんにはそれを変えられるだけの才能がある、だからこそ返り咲いて"わわわ"を食らうだけの物語を見せて欲しい。」


大口に切ったステーキの一切れに、古浦は豪快に齧り付く。自らの野心を曝け出すように、白い歯をむき出しにして肉を食らう様子は、怜悧な仮面の下に隠された彼の"攻撃的な側面"であり、生物の雄としての存在証明でもあった。



「だからこそ、ここにいる皆さんに手を貸してもらいたいんです。」

「…………………」


今にも抜刀をし、鈍色の刀身で輝度の高い直線を描きそうなくらいに"張り詰めた"様子で辰実は古浦を正面から見据えた。一瞬、そんな空気を醸しだした後は、いつもの落ち着いた様子でフォークでステーキを固定し、ナイフを前後させ大きな一口の大きさで切り始める。


大口を開けなければ食べられないぐらいの大きさをフォークで口に運ぶ前に、ようやっと口を開く辰実。



「"ジャイアントキリング"。…確かに、篠部怜子にはその素養はある。その成長ができる環境と切欠があればの話ではありますが、あの子に降りかかった災難も受け止めて戦う事ができれば。古浦さんの言う通り、"わわわ"を食らうだけの物語にもなるでしょう。」

「仰る通りです。お互い、視えているモノは一緒なのかもしれませんね。」


"最も、饗庭さんも愛結さんも同様にお考えかと思われますが"と付け足した古浦であるが、自分のヴィジョンが誰と深く一致していたのかと言えば"辰実"だと言うのだろう。…ここに来て、彼の目的が"アヌビスアーツ"もしくは"黒沢辰実"と手を組む事だとハッキリ分かる。



「ですが、俺はアンタとは手を組まない」



先程の古浦に当てつけるように、白い歯をむき出しにし大口の肉片に齧り付いた辰実。同じ事を考えている、以前に"同じ穴の狢"だと例えた事を理解したうえでの"手を組まない"という交渉決裂に眉をしかめずにいられない。



「メリットはあると思います。"篠部怜子"が返り咲く為には"Lucifer"のモデルに戻らなければならない、即ち月島を"椅子から外す"事。…俺はどういう事情で月島が持ち上げられたか知りませんが、古浦さんはその事情をご存知なのでしょう。」

「僕も"そちら側"ですので、勿論知っています。」


「…でしたら何故、あの子が"わわわ"にいる間に守ってやらなかったんですかね?手を組んで事を元に戻すメリットはあるが、結局アンタの言っている事は自分のやらなかった事のケツを他人巻き込んで拭かせているだけですよ。理由はあるのでしょうが、それでも気に入らない。」


古浦にとっては耳の痛い発言であった。"篠部怜子のシンデレラストーリー"を彩るという理由が正しい事ではあるのだろうが、その為に彼女が"わわわ"を追い出された事を黙認したにも等しい行為は普通に考えれば"非難すべき"行為である事は間違いない。


分かっているからこそ、当然に古浦の心に打撃を与える一言一言であった。



「結局、見捨てた者の戯言だ。あの子を平然と見殺しにしておいて、"あの子を助けたいんです"なんてムシが良すぎる。」

「そうでしたね、申し訳ございませんでした。」


古浦にとって、最も手を組みたい相手が"黒沢辰実"であった。彼、そして"アヌビスアーツ"と手を組む事ができれば怜子を元の鞘に戻すように話を進めるには効率が良い。


"効率"よりも大事にしていた事があった。それに気づかなかった自分の落ち度に、古浦は心を痛める。…しかし、この"提案"は辰実だけにしたものではない。緊張に包まれた中、堂々とステーキを食らう饗庭にも気を遣いながらフォークとナイフを動かす愛結にも向けた提案なのだ。



「古浦よ、俺もこの話には嚙めねえな。そんな退屈な提案があるか?」

「面白く事が進むと思ったのですが」

「言っとくが俺と黒沢は"手を組んでる"んじゃねえ、今一緒にいた方が面白えから"つるんでる"んだ。」

「だとしたら、僕はお2人の事を見誤っていたかもしれません」

「俺を計ろうなんて無理なこった」


ここで、更に愛結が口を挟む。古浦には、整えて次に何を言うか考える暇も与えられない。


「古浦さん、私も怜子ちゃんに戻ってきて欲しいとは思っていますが、貴方の提案に合意する事はできません。」

「貴女もですか」


暗がりの店内でハッキリとその色彩を捉える事ができなかったが、愛結の青い瞳はしっかりと古浦を見据えていた。それが辰実や饗庭、はては古浦にまで気を遣った"妥協"でなく、"自らの意志"によって出た答えだと分かる。


「私は何もできなかったんじゃない、何もしていなかった。…怜子ちゃんを助けたい気持ちはありますが、私の立場からあの子に手を貸す事は出来ません。」


愛結を祀り上げる者がいる。愛結が一度"怜子を戻したい"と言ってしまえば、その真意を汲まずに動き出す輩が出てしまう。そうなってしまえば結局、"怜子を追い出した者達"と一緒になってしまう。


力になりたくても何もする事ができない。切り分けた肉を嚙み潰す事でしか愛結は悔しさを表現する事ができなかった。


「ごめんなさい」

「気にしないで下さい。貴女の立場を考えるべきでした。」


(この3人が手を組んでいないと分かっただけでも儲けだな)


愛結を気遣う古浦の腹では、"一応の収穫"があった事に喜んでいる。傍から見れば何を考えているか分からないが、古浦は知恵の回る男ではある。これ以上収穫が無いと分かれば、次に考えていたのは"引き際"であった。




 *


若松商店街。


静かに食事を済ませ、店外に出る4人。4月の終わりで温かく、そして暑くなっていくだろう時期と思えど、夜に商店街を駆け抜ける風は若干冷たかった。


「今日は来て頂き、ありがとうございました。」

「いえこちらこそ。お誘い頂きありがとうございます。」

「おう、また飯ぐらいなら付き合ってやるよ」

「…でしたら今度は、酒を酌み交わすのもいいかもしれません。僕は焼き鳥にうるさいんです、今度良い店を紹介させて頂きますよ。」

「ナンコツの美味しい店なら大歓迎だ。…コークハイはあるんでしょうね?」

「勿論」


先程まで緊張感漂う雰囲気で話をしていたのに、食事が終わって商店街に戻ってきた途端に打ち解けた様子の3人。立場は違えど、敵対する事はあれど、互いを"男として認め合った"という心理は愛結だけに分からない。愛結だけは、"ありがとうございました"と礼をした古浦に"ありがとうございます"と辰実と一緒に頭を下げていたのだが、居心地の悪そうな愛想笑いをしていた。



「そうだ古浦さん、篠部から"渡しておいてくれ"と頼まれた物があったんです。」

「怜子ちゃんからですか?」


辰実がジャケットのポケットをゴソゴソして取り出したのは、黒いヘアゴムであった。編まれた黒の中に金色の糸が混じっているのは、"普通の女の子に見えて、一際光る魅力を持っている"から意図しての事。自分でオーダーしに行った一品、かつ逸品を、古浦自身が忘れる事は無い。


手渡されたヘアゴムを、掌の上に乗せたまま眺める古浦。辰実と会話を交わしながらも、ステーキを食べる時に見せていた時よりも真剣な目をヘアゴムに向けている。


「…そうですか、彼女が」

「俺にはそのヘアゴムの事は分かりませんが、"渡せば分かる"と言われました。」

「成程。」

「まあアレですよ、古浦さんと彼女の間の事なんで、察するのもアレです。確かに渡しましたよ。」


適当に濁そうとして"アレ"を多用する辰実。古浦も察していただろう、"ヘアゴムを渡される"事の意味を察してはいたが、怜子の意思表示に便乗してものを言う野暮を起こす気にはならなかった。


「タイミングが良いですね。さすがは、素晴らしい奥様と結ばれた方だ。」

「冗談を、ただの男ですよ」

「ただの"男"でいる事も、相当に難しい」


掌の上にあるヘアゴムには、いい意味も悪い意味も両方あった。両方あるでは無く、"いい意味"がある事が古浦にとっては重要であったのだ。"タイミングが良い"と言うのは、蚊帳の外で4人話をしているとは思っていたのに、その場に"怜子がいた"事を最後に教えてくれたにくい演出に対する礼だと言うべきだろう。


「では僕は、お先に」

「俺も帰るぞ」


頃合いになり、タイミングよく4人は解散する。時間をずらし去っていく古浦と饗庭、残された辰実と愛結の2人は散った2人と逆方向に歩き始めた。


並んで歩きながら、愛結は何かを考えていたように気の抜けた表情をしていたのだが、辰実と目が合うと、首をかしげて笑みを浮かべる。古浦と話をしていた時も何かを考えていたようだが、"辰実にだけ話をしたい事がある"という意図がある事には気づく。


レストランのテイクアウトで、コーヒーフロートを頼んで歩きながら口にする。


「男の人の考える事は分からないわ」

「別に味方だから"良い奴"だという訳じゃ無いんだ」


"分からないわよ"と言葉で言わない。愛結は辰実を一度見て、またコーヒーフロートを口にする。


「腹の探り合いなんかじゃなくて、"腹を割って"話をする事ができただろう?…認めなければ、そこは男じゃない。」


"変なのー"と愛結は少し冷めた笑顔を見せた後、またコーヒーフロートを口にした。



 *


帰宅し、風呂を済ませた辰実は、本日何本目かになる缶のコーラ(ちなみに家にいる時にはコーラは2本までと愛結に言われている)を取るために冷蔵庫のドアに手をかけた。


「うにゃあ」

「どうした?」


猫のさくらが辰実の左足にしがみ付く。この鳴き方は"相手をしてくれ召使い"と言っているのだと分かったのは勘で、冷蔵庫から缶のコーラを取り出しリビングのソファーに持って行くついでに、さくらのブラシを手に取る。


長毛猫であるラグドールはブラッシングを欠かしてはならない。今日も今日とて、長い毛並みをブラシで整えれば抜け毛が取れるわ取れるわで、すぐさまふわふわの毛玉が出来上がる。以外にも抜け毛の少ない種類の猫ではあるが、換毛期となると話は違った。


ソフトボール大の毛玉ができたのを見て、満足したさくらは辰実の膝からリビングのソファーに戻って丸くなる。向こうから聞こえるドライヤーの音が止んだと思えば、寝間着のTシャツ1枚姿の愛結がリビングに戻ってきて、さくらを抱え上げソファーに座る。



暫くの沈黙の間、さくらがゴロゴロ鳴く音だけが聞こえる。



「4ヶ月。でもほんの少し見ない間に、怜子ちゃんも成長してたんだ。」


辰実が怜子から受け取っていたヘアゴムの"意味"は愛結にも分かっていた。"悪い意味"で言えば古浦に対し、"私は私で決めた事がありますが、古浦さんとここからを一緒に行く気はありません"という決別。"良い意味"で言えば怜子が自分の意思で動き始めた事、そして失ったものを取り戻すため"わわわ"と"Lucifer"の前に"アヌビスアーツ"の一員として相対するという意思。


どちらも共に、彼女自身が能動的に動き出したという"成長"を意味していた。


俯きながらさくらの頬や頭を撫でまわし、抱きかかえて愛結がリビングの床に着地させると、さくらは2階へと上がって行く。燈の所で寝るのだろう。その様子を見ながら、辰実は持ってきた缶のコーラを手に取ってプルタブを起こし、一口分喉を潤す。


まだ液体の重さも残っている缶を置いた辰実の左半身に寄りかかる愛結。帰り道でも見せた、考え事をしているようで気が抜けたような、"憂い"に近い表情。


辰実が置いた缶のコーラを手に取って、控えめに喉を鳴らし愛結は吐息を漏らした。



「"栄枯盛衰"、分かってた事なんだけど…。もし私が古浦さんの言う"引き際"を分かってなかったとして、その事が怜子ちゃんを苦しめたとしたら。私はどうやって償ったら良いのか分からない。」


辰実に寄りかかりながら、折り畳んだ膝を抱える愛結。


「…怜子ちゃんの"契約解除"は、私達にも後になって知らされたのよ。」

「後になって知らされたのは、"事前に防がれたくなかった"からだ。それを愛結が償う必要があると言われたら、それはおかしい。あとは古浦さんが愛結の事を"引き際も分かっていない時代遅れ"などと言うのであれば、それこそ古浦さんの審美眼がおかしいと思うんだがな。」


「そう?怜子ちゃんはまだ若いけど、私はもう32よ?…グラビアとして考えるなら、もう若くは無いわ。」


グラビアアイドルの"寿命"は、大体が20代のうちと言われている。愛結のように30を超えても続けられる人というのは中々いない。…それこそ、愛結が未だ美しいと言われる所以だった。



「…辰実はもし、私が"グラビアを辞めたい"って言ったらどう思う?」

「別に止めはしないさ。…元々は普通に"わわわ"の社員でライターの仕事もできるんだから、そっちに集中したって良いと思う。」


愛結は笑って、ゆっくり頷いた。



「こんな事を考える事も無く、"続けられる仕事"を勝手に消された怜子ちゃんは、本当に辛かったんでしょうね。」


膝を抱え辰実に寄りかかりながら、俯いてぽつり言い放った愛結の息遣い。その湿気の中に怜子を助ける事ができなかった後悔と、何も手助けができない悔しさが吐き出されていた。

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