10話「決戦前夜」

(前回のあらすじ)

"若松物産"にて、"Studio Bianca"の協力を得て怜子の撮影を行った辰実。更に撮影協力の依頼をした彼であったが、前日に怜子が"モデルの仕事を受けます"と連絡をしてきた直ぐに饗庭と"ダイニングあずさ"にて合流し、古浦に関する話を聞く。


やり方は違えど、彼も同じように"怜子の物語"を影で支えている者であると知った辰実は、怜子を"Lucifer"のモデルに復帰させる計画を饗庭に伝え話を終えたのであった。



 *


ダイニングあずさ。



「…楽しそうで何よりだ、本当に」


揚々と去っていく饗庭の背中を見送った後、残っていた皿を眺める辰実。1個だけ残った唐揚げを見つけると、それ以外はあらゆる肉料理が綺麗に食べつくされていて感心してしまう。最初に注文した何品かからも、更に色々と(ナンコツの串やら豚しゃぶもやしポン酢やら複数点)注文していたにも関わらず、饗庭と辰実(8割方饗庭が食べていたのだが)で平らげた。


「お、ダイヤモンドを残して帰りやがった。粋な事をやってくれる。」


残っていた唐揚げを、1口で頬張って飲み込む。この唐揚げはいくら食べても飽きない。


「本当に、饗庭さんはよく食べますよね」

「しかし今日は栄養に気を遣ってかサラダを注文していたぞ。更に俺にも気を遣ってくれたのか、唐揚げを置いていきやがった。」


"それは気遣いなのかな…"と、殆ど食べつくしてしまった饗庭の様子を見ていた梓は、少しだけ笑いながら綺麗に食べつくされた皿を眺めている。


「それも考えての万札なんだろう。呼び出したの俺だし、割り勘で出そうと思ったんだが。…ああ見えて結構気を遣ってくれてるんだよ彼は。」

「そうですね、ちゃんと残さず食べてくれる"いいお客さん"ですし。」


饗庭と辰実で綺麗に食べ終えた料理の皿を、辰実がカウンターに置いていくと梓は"ありがとうございます"と言いながら重ねて流しに置いていく。その後に、残ったコークハイをゆっくり飲んでいる辰実から視線を話して、何かを焼いている様子が聞こえた。


油で何かが焼ける音に、中華鍋がガチャガチャと音を立てている。少し経って音が止み、俯いてちびちびとジョッキをあおる辰実の目の前に置かれるできたての料理。


天津飯だった。具は無いが卵をのっけてあんがかかっている。ごま油の匂いとだしの匂いが香ばしく嗅覚を刺激して止まない。



「まだ、お腹空いてるんじゃないですか?」



じっと天津飯を見つめている辰実に、小首をかしげながら梓は声をかける。饗庭に話しかけられた時とは打って変わって辰実の事を気遣う梓の様子ではあったが、彼にとっては素直に嬉しかった。


「これはいける」

「お口に合うようで良かったです」


具は無くともふわふわの玉子に、水分を少なめにして炊いた白米、その両方に濃いめのだしで作ったあんが絡むと、一気に匙が進む。辰実が食べ終わるまでの暫くを、梓はじっと見守っていた。


「ご馳走様。釣りは取っといてくれ。」


饗庭に渡された1万円札を、そのままカウンターに置いた。



「…"わわわ"と、真っ向から戦うんですか?今はそうじゃないと言ったとしても、いつか必ずそうなってしまいそうな気がします。」

「選択次第では、と言いたい所だが。あの子が前に進むのであれば確実に"衝突"は避けられないだろう。」


「いつだって黒沢さんは、何かと戦っている気がします。…いなくなった半年前に、"もう終わった"のだと思ったんですが。」

「"俺の"戦いはもう終わったよ。…黒沢辰実という男の"物語"は終わって、俺はもう舞台から降りる事ができた。勝手に他人の物語に生きるだって悪くないだろう?」


梓も、その舞台に一緒にいた。巡り巡って最終的には"花嫁を救う"物語だったが、その花婿の"相棒として"共に最後まで花嫁のために戦い抜く役だった。


「本当に変わらないですね、黒沢さんは。」


梓が悲しそうに笑ったのか、嬉しそうに笑ったのかは辰実には分からなかった。純物質かと見間違うぐらいに感情が"その中間"に混ざり切っていたのを感じ取ってしまう。


「いつだって、誰かのために戦って傷つく黒沢さんの事。私はいつだって好きだと思ってました。…いいえ、今でも"想っています"。」

「ありがとう」


揚々とした背中の次に梓が目にしたのは、とうに舞台を降りた男が"生きていたいと"願い続ける淡々とした背中であった。



 *


辰実の自宅は、若松町の団地内にある。商店街からは歩いて10分くらいの場所にある一軒家。家の明かりはまだ消えそうにない19時半、肩に掛けたポーチから鍵を取り出して玄関のドアを開けると、ドアに取り付けたバーチャイムの乾いた音が鳴る。


「にゃー」


ぽたぽたと小さな歩を重ねてやって来たのは、ブルーポイントバイカラーのラグドール。"さくら"と名付けた大きな長毛の猫は、誰かが帰ってくれば忙しなく出迎えにやって来る。


まるで旅館の出迎えかのように、辰実の前で礼儀よくお座りをしたさくらは、飼い主に頭を撫でられると嬉しそうに鳴いて、靴を脱いで廊下に上がるのを待った。



「ただいまー」


リビングに入ると、家族は全員揃っている。妻の愛結は寝間着にしている太腿が付け根から少し隠れる程度のTシャツの上に、大きめのパーカー姿でソファーに座り雑誌を読んでいて、3歳になる次女と三女の希実(のぞみ)と愛菜(あいな)もその横でもう眠りこけていた。最近は寝るのが早い。


この双子は髪の癖や色といい目の色といい、愛結と殆ど瓜二つであった。一卵性なのも理由だろう、"あまりにも似てい過ぎて保育園の先生が困る"という事から、希実は髪を長くして愛菜はボブカットにしている。



「お帰りなさい。もっとゆっくり飲んで帰って来ても良かったのに。」

「饗庭も奥さんに気を遣ってか、早くお開きになったよ」


長女の燈(あかり)はと言うと、リビングに戻ってきたさくらをブラッシングしていた。黒髪のボブカットにやや猫目がちなのは、彼女が黒沢家の養女だから。簡単に言うと"辰実の恩人の娘"。養子縁組となって、愛結とは早くに打ち解けたが、辰実を"パパ"と呼ぶには時間がかかった。…今やもう忘れたように、ちゃんと家族をやっている。


「お帰りパパ」

「ああ、ただいま。…宿題の分からない所は無かったか?」

「今日は無かったよ。でも今度、算数のテストがあるから教えてね。」

「そうか、分からない所があればちゃんと聞くんだぞ。」


リビングにある階段から、2階の自室に上がり寝間着のパーカーとスウェット、肌着と下着を回収しリビングを経由して風呂に行く。


脱衣所で上の服を脱いで裸の姿を鏡で見てみると、筋肉質の体の左腹部に切り傷が残っているのが分かる。カッターナイフや包丁よりも、"もっと死を覚悟する"レベルの刃物に斬りつけられた時の名残は一生消える事は無い。"他人の物語に生きる"と言っても、結局は"自分の生"という枠組みからは逃れられない事を示唆しているようにも思える。


…考える間もなく湯船に浸からず、シャワーで全身を洗い流すだけで辰実は風呂を終えた。



「希実、愛菜。もう寝るなら布団で…」


雑誌を閉じて、右の人差し指を口元に当てていた愛結の様子を見て、辰実は言葉を止める。"仕方ない"と心の中で呟きながらも、両腕で揺り籠を作って希実を抱え上げた。同じように愛菜を抱え上げた愛結と一緒に階段を上がろうとすると、燈も一緒についてきた。…燈が寝ようとすれば、さくらも一緒に寝ようとついて行く。


「おやすみなさい」


夫婦が双子を仰向けに寝かせ、布団を被せたのを見届けて燈も自室へさくらと一緒に入った。


今日もまた、夫婦だけの時間が始まる。辰実がリビングに戻りソファーに座れば、愛結も隣に座った。暫く2人ともが何も言わないまま、愛結が雑誌を読んでいる横で、辰実が置きっぱなしにしていたタブレットを手に取り、磁力でくっついていた専用のペンを手に取って何かを描き始めた。



 *


翌日、まだまだ余裕があるぐらいに飲んでいた饗庭に二日酔いの気配は無く、折角の辰実との飲みを途中退席してまでしに行った"交渉"が上手くいった事にもご機嫌であった。本日は記事を書く事に専念するため、オフィスに籠りっきりなのだが"休憩"も必要だとコーヒーを1杯極めに休憩スペースに向かっている所である。



"草の者"。


"わわわ"内で他社から引き抜かれた、もしくは移ってきた社員のコミュニティであり、知らず"わわわ"に張り巡らされている情報網である。"てぃーまが"と言うローカル誌の会社からやって来た饗庭と早瀬も例に漏れない。


2つ折りの財布を見ると、小銭入れの部分に詰まった小銭の中から100円玉を取り出し自販機に滑り込ませる。自販機が小さな扉の向こうで紙カップを落とすと、その場所にブラックコーヒーを注ぎ始めた。…数十秒経って、温かいブラックコーヒーが注がれた紙カップを手に取り、観葉植物の壁に阻まれたテーブルの1席に座る。昼下がりの陽気が眠気を誘う中、苦い一口を繰り返し楽しんでいると、周りに誰もいない空間にやって来た早瀬が正面に座る。



「黒沢君との"飲み"は楽しかった?」

「何で知ってんすか!?」


辰実と飲みに行く話は、会社で誰にもしていなかった。いきなりに突っ込まれたプライベートにも、何も予測がつかない場所からの不意打ちにも饗庭はたじろぐ。


「明日"Lucifer"のアクセサリーの件で話し合いに行くスタッフさんの1人が、いきなり"饗庭君と交代する"なんて話をしたから。…しかも、あの"じゃじゃ馬"に小間使いにされて愚痴ばっか零してる奴。あの子の相手なんて誰もやりたくないのに、貴方が"わざわざ"それを買って出たという事は、何か"興味を惹かれるような"話でも聞いてきた?」                                                  

"饗庭と交代した"という話だけで、ここまで早瀬は推測していた。


「黒沢の奴が面白い事を言うモンだから、"一枚噛みに"行こうかと思って」

「"飲み"は当てずっぽうなんだけど。…もしかして、"篠部怜子"を"月島亜美菜"と挿げ替えようとでも考えてたのでしょう?」

「何から何までよく当たるっすねー、宝くじでも買ったらどうです?」


「何から何までって…、そんな事は少し考えたら分かるわよ。」

「エスパーですよ本当」

「"Lucifer"、20代前半向けのアクセサリーのモデル。…篠部怜子がクビになって、代役に月島亜美菜が入った。果たして、月島が"Lucifer"がイメージするモデルにふさわしいのか?少なくとも黒沢辰実という男は"No"と言うでしょう、彼なら確実に"納得のいく"仕事を達成しようとするわよ。」


辰実に"真面目な側面"があるのは饗庭にも分かっている。


「果たして、篠部怜子を"元の鞘に戻す"事にどういう理があるのか?」

「面白そうな事ってのは分かるんですけど。」


"怜子の契約解除に関する真実"を追っているうえで、古浦との衝突を予見している事と、怜子の契約解除に"裏がある"という所までは予見できている事は昨日会った時に整理できた。ただ優しくするだけでは、"採用するだけ"で終わるだろう。それが"真実を追う"という負担のかかる事をやっているのは"辰実に視えている"ものがあるに違いない。



「…饗庭君は去年の秋に"てぃーまが"から移ってきたけど、"わわわ"の居心地はどう?」

「悪くねえけど、若干退屈ですよ。」


「だったら、"彼"も退屈なんでしょうね。」


平常が平行線になっていくと、そこに"退屈"が生じる。それを埋めるために"変化"が必要とされるのであれば、

"商業"の世界であればそこに目をつける者が現れる事は容易に想像できた。


「早瀬さんは、"わわわ"が黒沢に引っ掻き回されると?」

「それを思ったから、"交渉"をしてきたんじゃないの?」


「まあ、そうっすね」


"お人好し"とばかり思っていた辰実の、本当は打算的な側面を饗庭が思い出した。情に厚いだけの男では無い、"勝算"や"その先のビジョン"が視えているのだろう。彼に視えていたとしても、その先を"視る気が無かった"饗庭には視えていなかった。



「もし、篠部が"そうなった"として。そうなったらなったで"折角自分の下に引き入れた奴"をみすみす手放す事にはならんですかね?"契約解除"なんてのが建前だってのは俺だって分かりますよ、どう転んだって悪い話を誰からも聞かない子だったんだし。それが"元居た所に戻れる可能性"を感じたらどうするかって考えると…」

「本当に"面白いか"で行動してるのね饗庭君は。」

「そりゃあそうでしょう、損得なんてずっと考えてると人生が面白くねえ。」


「ストレートに言うと、篠部怜子が"グラビアに戻っても"、"アヌビスアーツに残っても"どちらにも黒沢君に利があるわよ。」


「"グラビアに戻っても"?」


"草の者"が把握しているのは、怜子の契約解除に"陰謀"が絡んでいる事だけであった。その点を考えても、早瀬の"グラビアに戻っても"という内容も多少理解はできない。今誰かがやる"予定の"事を、怜子が変わってやる事に違いないように思えたからだった。


「これは今のところ一部の人にしか知られていない"企業秘密"なんだけど」

「社員、しかもスカウトマンの俺が知らん企業秘密があるんですね」

「だから"一部の人"って言ったじゃない。…去年、新メンバーが急遽脱退してしまってチームとしても活動ができなくなった"わわわガールズ"、再編しようっていう話があるみたい。」


「再編は需要がありますからねー、とっととやって頂きたい。」


"わわわガールズ"と言うのは、県内の観光大使としての仕事であったり、歌って踊れる"アイドル"としての側面もある、"わわわ"のモデルやグラビアから結集させたグループである。


怜子が"暴言を吐いて辞めさせた"と言われる後輩3人が所属していたのも、このグループであった。更に言えば愛結も所属していた時期があり、怜子に至っては当時サブリーダー的な立ち位置にあった。


県内の観光スポットや飲食店、更にはイベントに参加する等、"街おこし"において活気づけの大きなきっかけとなる彼女たちに需要があってあってなのは間違いない。



「もしや黒沢は、"ガールズ再編"も予想していると?」

「もしくは愛結ちゃんが漏らしたか…、でもあの子はそんな事しなさそうね。夫婦と言っても"その辺の"線引きはできてるでしょうし。」


愛結や怜子、当時のガールズ新人3名が被害に遭った"ストーカー事件"に辰実も関わっていた事を、饗庭は思い出す。…新人3名が脱退する原因として最も"信憑性が高い"のはこの事件であるのだが、辰実もこの事件に関わっていたのだ。


「思い出しましたわ。黒沢が"ストーカー事件に"一枚噛んでいた事を考えると、"わわわガールズ"の活動休止も知っているハズなんすよ。それに"元々"アイツはこっちの業界にいた奴ですし、そういう所に鼻が効くなんてのは当然かもしれなかったっすね。」


厳密に言えば、饗庭と辰実は"てぃーまが"というローカル誌の会社の方での同期なのだが。…そこに居た時の話は、饗庭の想像する限り辰実にとっては"思い出したくも無い悪い思い出"であった。


「それを考えると彼は今でも、"わわわ"の事だって恨んでるんでしょうね…」

「仕方ない部分もあるんじゃないかなと。…"あの人"が知らず黒沢を舞台に立たせた結果になったって言っても、最終的にアイツは分かって選択したんすから。」



「貴方は、彼が"そこまで小さい男じゃない"と?」

「そりゃあ、アイツがそんな男じゃないから"損得勘定抜きに"面白いと思って付き合ってんすよ。」


「でしたら、彼は私達が思ってるよりも"立派な"ビジネスマンだという事ね。知らずのうちに成長しているなんて、お姉さんは嬉しいわ。」


紙カップに注がれた安物のホットコーヒーを口にした後の早瀬は、口角が上がっていたのだから多分、"これから辰実がやりそうな事を楽しみに待っている"方の考えなのだろう。


(これは多分、早瀬さんも一枚噛んできそうだな…)


退屈を紛らわすには、十分ワクワクできる予感だと心の中で思いながら、饗庭はぬるくなったコーヒーの半分を一気に飲み干した。



 *


喫茶"AMANDA"


もう作中でも"Studio Bianca"や"Bobby's Sweets"くらい御馴染みになってきた、怜子の元アルバイト先の喫茶店である。仕事が終わって、早めの晩御飯でも決め込もうかと思っていた所であった怜子はよく通って顔を見せている店に入る事にした。


「いらっしゃいませ~。…あ、怜子ちゃん!」


天田の妻が出迎えてくれる。数ヶ月という短い期間であったが、怜子の事を実の娘のように気にかけてくれた恩人の1人である。"来てくれてありがと~"と、久々どころか結構な頻度で会っているからネタも尽きたような世間話も出てくる事なく、"ゆっくりしていってね"と空いている席に座るよう促され彼女は奥へと行ってしまった…。


6時を過ぎているが、客の入りは少ない。もう少し経つと、オシャレなディナーを目当てに客がやって来るのだろう。


(今日は"トマトのパスタ"にしようかな。オムライスもいいな~)


空いている席を探し辺りを見回していると、目が合ったスーツ姿の女性が怜子に向けて手を振る。黒いボブカットに、凛とした顔立ち。そんな"大人のカッコよさ"を持った女性と、怜子は以前に会っている。


怜子が、月島に恫喝されていた時に助けてくれた人であった。


業物にも引けを取らない切れ味を持った中にも、瑠璃のように輝く目を怜子もよく覚えていた。嬉しかったのか反射で怜子も頭を下げて挨拶する。


「こっち来て座りなさいな」

「え、いいんですか?」


姉御肌、と形容するのが正しいであろう喋り方で誘われ、怜子はおずおずと彼女の正面に座る。すぐに怜子が席に座ったのに気づいた店員がお冷を持ってくると、"あら、お知り合いでしたか"と言うので、恥ずかしそうに怜子は頷いて答えた。



「前に会った時はアレだったけど、今は元気そうで良かったわ」

「その節は助けて頂き、ありがとうございました。」


深々と頭を下げる怜子に、"いいのよ"と彼女は答える。


「…それにしても、モデルさんか何かでしょあの子?」

「そう…、ですね。あの子は。」

「貴女も可愛いし、そういう系の子なの?」

「私は…、"今は"普通の会社員です。」


まじまじと目を見つめられた怜子は、思わず"今は"と修飾をして半ば本当の事を言ってしまった。怜子の答えを"伺う"ように真一文字にした口元を視た後に彼女の両目を視てみると、"この人は優しいし、信用できる人だ"と思ったのは直感だろう。


「そうよね、"篠部怜子さん"。…ごめんなさい、言いにくいし"怜子ちゃん"で良い?」


喫茶店で恫喝されるような事があったから、名前ぐらいは知れ渡ってしまったのだろうか?…もしくは怜子と"同じ側"の業界にいた人か、いずれにせよ知られた所で彼女から悪意を感じる事は無い。


「フェアじゃないわね。私の名前も答えた方が良い?」

「いいえ、そんな事は…」


「水篠知詠子(みずしのちえこ)」


淡々と名前を語る知詠子に視線が向いていた所為でも無く、時間的に夕方を終えたばかりの喫茶店は、彼女の息遣いも怜子の息遣いも聞こえるくらいに静かであった。



「水篠さん…、知らない人……です。」

「ローカル誌とか、そういう関係の人かと思ったの?なら全然よ、私は。貴女の事ならローカル誌で目にしたぐらいだし。」


雑誌編集員でも、たまに知詠子みたいに綺麗な女性がいる。愛結も現在は"グラビアアイドル"として有名であるが、元々は編集員として"わわわ"に入社していた。



「前に会った時と、顔つきが変わったわね。何かあった?」

「自分の思ってる事が、やっと分かったんです。」


知詠子が飲んでいたコーヒーがアルペジオだと分かったのは、カップの形であった。コクの深い一口をゆっくりとあおりながら、怜子の言葉を伺っている。


「あらそう。何にせよ、元気そうで良かったわ。」

「私の中では、前も変わってないですよ?」


"何でも自分の好きなのを頼みなさいよ"と知詠子に言われるままに、怜子はオムライスとモカを注文した。特段変わったものでは無いが、この店のオムライスやトマトパスタは人気である。


「自分の事は、自分では見えないものよ。」

「水篠さんがそう言うなら、そうなのかもしれません。」

「言いにくいでしょ、水篠。"知詠子"で良いわよ?」

「でしたら、"知詠子さん"で。」


先日に会った時には余裕が無かったが、今回は落ち着いて話ができる。話によると、知詠子は月に何回かくらい、仕事が早く終わった時には"AMANDA"でコーヒーブレイクをしてから帰るそうだ。


「…知詠子さん、ご家族は?」

「旦那と、娘と息子が1人ずつ。…自分で言うのもアレだけど、独身じゃないの。」

「早くに結婚されたんですか?」

「今は30なんだけど、結婚したのは25。」

「早いんですね結婚。」

「運が良かったんでしょう、それは。」

「知詠子さんは、ご主人さんをお尻に敷いてそうです」

「敷いてる、と言われれば語弊よ。腰が低いのようちの人は。」


自由に生きているように見えて、実際は地に足を着いている。そんな生き方が"お手本"というのだろうか、そうであると考えるほどに実際は難しい生き方をしているのかもしれない。忠実に線を逸れないというのは、存外に難しい事をいつの間にか怜子は知っていた。


(実際は普通に生きる方が、難しい気がする。知詠子さんもそうでしょうし、黒沢さんも私の知らない所はそうなのかも。)


「うちの"店長"は、家では奥さんの尻に敷かれてるって言ってました」

「気づいたら缶のコーラばかり飲んでるし、ぶっきらぼうな人なんですけど、本当は優しい人だって最近分かったんです。」


一瞬、知詠子がコーヒーカップを持ちあげる手が止まっていた。怜子はそれに気づいていない。


(32歳で"缶"のコーラばかり飲んでる…、断定はできないけど"あの男"しか思い浮かばないのよね。)


「その店長さんには、"気を遣わず"話せるの?」

「私の方は、気を遣わず」


「…でしたら、もし自分の思う事があれば遠慮なく言ってあげて。私も仕事の上では、部下を持っている立場なんだけど"変に気を遣わず"思う事があったら素直に言ってくれた方が助かるのよ。上司だからと言って部下が気づいている事に当然気づいている訳でも無いし。」


「分かりました」


怜子がニコニコしながら話を聞いているという事は、理解できているのだろうと知詠子は判断した。


「そしてもう1つ。…もし、その店長さんが"自分の辛い事"を話すようになったら、ちゃんと受け止めてあげて。誰にだって辛い事の1つや2つある、貴女にならそれが分かる筈よ。」


(彼。…いや"辰っちゃん"にも、抱えているモノを受け止められる場所が必要よ。同じ傷を抱えた妻じゃない、この半年でそんな場所を見つけられたとは思えない。)


"急に年寄り臭くなった気分"と溜息をついて背もたれに大きく背中を預けた知詠子の様子を、怜子はオムライスを頬張りながら笑って観ていた。見た目はしっかりしてそうなのに、実際は軟らかいという昔ながらの風体の玉子と、ケチャップとチキンライスの酸味の強弱が食欲を刺激した。

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