8話「暁の子」ー後編
「さくらちゃんの事ですか?」
「ああ、ラグドールの女の子で"さくら"という名前ならうちの猫だ。」
(そりゃあ愛結と接点があるのだから、知ってても当然だろう)
「さくらの話はまた今度だ。…それより今日はまた、"若松物産"に行くぞ。」
昨日に色々あったにも関わらず、間を置かずの商談。
(これは、"早く取り返せ"という意味なんでしょうね。)
「…、という事で40秒で支度してくれ」
事務所に着いてみれば、いきなり"支度をして若松物産に行くぞ"と言われて焦る。そんな事を言っている辰実がもう既に支度を終えているものだから、慌てて怜子は支度をする。
"話し合い"の記録に主に使ってるA4サイズのノートをリュックに詰め込んで、忘れ物が無いか確認し、先に事務所を出ようとする辰実に慌ててついて行く。丁度、事務所を出る前に何とか追いついた所で急に立ち止まった辰実が振り向いて、怜子の視線のど真ん中に人差し指を当てる。
慌てて立ち止まった怜子に、圧の利いた声で辰実は一言を告げた。
「先に言っておく。篠部怜子の"ジャイアントキリング"は、今日この時間から始まるぞ。」
「え?…あ、はい!」
*
話す事も特になく、"若松物産"には直ぐに着いた。その間に車を運転しながら、辰実が缶のコーラを1本開けて飲んでいたのは怜子も覚えている。そんな怜子はと言うと、味元に合わせる顔をどうすればいいのか緊張していた。
"若松物産"に到着し、すぐに応接間へと案内される。いつも通りに剥きたてのゆで卵みたいなおでこをハンカチで拭きながらやって来た味元も、どこかしら緊張しているように見えた。
「具合もよさそうで…」
「昨日は、申し訳ありませんでした」
(さあ、しっかり前に出て行かないと。…私は、私のできる事を精いっぱいやるって決めたんだ!)
深々と頭を下げる怜子に対し、"いえいえ、構いませんよ"と味元は穏やかに答える。さっきまで緊張していた怜子の表情が、ほっとして少し緩んだのを味元は確認できた。
「それでポスターの件ですが、一度話をし直しますか」
「いえ、そんな事はしなくて構いません」
基本的に、"話し合い"となると辰実が相手方と先導で話をしていくのだが、この時は怜子が辰実よりも先に切り出した。さっきまで緊張して、緩んでと忙しい表情が今度は"覚悟を決めたような"真剣味を帯びたようになっている。
(今日この時間から始まるぞ)
「昨日お話されていたポスターの"モデル"の件、やらせて下さい。」
身勝手に未来を奪われた私の、一身を賭けた仕返し。言い換えれば、ここからの人生大逆転。足元も行く先も何も決まっていないまま"悔しさ"だけを思い出した怜子に、"今やれる事をやるといい"と整えられた舞台。
決して、"誰かに決められた"道程ではなく、怜子の思うままに行くための道であった。
「私は…構わないんですが。黒沢さんは、構わないんですか?」
「あくまで申し出を承諾するのか断るのかは、彼女の判断に任せてあります。…彼女が"承諾"するのであればこちらは一向に構いません。」
商談が元通り進む事に、味元は安堵する。
「ありがとうございます。…そうそう、今日は早速、新潟からコシヒカリを取り寄せて釜で炊いてるんですよ。良かったら皆さん、今日は新鮮な鯛や魚介類がいっぱい乗った海鮮丼を食べて帰って下さい!何なら鯛茶漬けもオススメですよ!」
嬉しそうなのか、早口で話をする味元。
「それは今もう、炊けてるんですか?」
「ええもう。想像するだけでおでこに汗が…」
「でしたら味元さん、今日ここで撮影しても構いませんか?」
「構わないんですが、うちに撮影の設備はありませんよ?」
「大丈夫です。カメラなら持ってきてますので。何なら撮影の人手もこちらですぐに手配できます。」
「カメラなんて持ってきてたんですか!?」
「こうなると思って既に一眼レフを車に、真崎さんをその辺に仕込んでおいた。」
"と言う訳で、俺はカメラを車から取ってくる"
そそくさと立ち上がり、待つ事数分。
小会議室に辰実が連れて入ってきたのは、"Studio Bianca"の真崎と、撮影スタッフの1人であった。恐らく一眼レフが入った鞄を片手に引っ提げた辰実は、得意そうに鞄からカメラを取り出した。
「昨日買ってきた一眼レフだ、性能は保証する。」
「そのカメラは!…黒沢さん、目利きですねえ。」
真崎が突然やってきた事も、よく分からない状況であった。更に辰実が一眼レフまで用意していたという状況と、更によく分からない。
「触らせてもらって、一番しっくりくるのを選びました。」
「へえ…。でも黒沢さん、撮影とか実際にされた事あるんですか?」
「勿論」
「さすが店長さん、凄いですね。」
真崎が感心しているのだから、恐らくカメラの性能も凄いのだろう。写真の成否は勿論、被写体の"元々の美しさ"にも依るのだが、それを十二分やそれ以上に惹き出すとなると当然、カメラをはじめとする機材の存在も重要になってくる。
その1つは勿論ながら、"カメラ"の性能である事は間違いない。
「ですが、モデルの撮影は初めてです。…こういう日も、いつかあるかと思って撮影の事については学習してきました。だから素人と思って侮らないで下さい。…と言っても素人なので、真崎さんに助けてもらいたいんですよ。」
「そんな事気にせず。黒沢さんと一緒に仕事できるなんて嬉しいですし、遠慮なく頼って下さい!」
辰実だけでなく、真崎も"スタジオ"を持って撮影の仕事を専門としている。撮影においては頼もしかった。ここで怜子の事を理解している2人が手を組むという事は、彼女にとっても安心だろう。
「もう、すぐ撮影に入って大丈夫ですか?」
「大丈夫です!…じゃあ、すぐ機材持ってきますね。」
「ありがとうございます。…とりあえず、"モノブロックストロボ"と"レフ板"を2台お願いできますか?」
「分かりました。」
真崎が動くのに紛れて、"じゃあ私はお茶碗にコシヒカリをよそって持ってきます"と味元も部屋を去って行った。辰実と怜子だけが会議室に残っている。
「さて、俺達も準備をするか。」
「準備って、何をするんですか?」
「決まってるだろう、メイクだ。」
写真撮影の時に、スタイリストが被写体となるグラビアアイドルの化粧や髪をセットするのは怜子も能く知っている(そりゃあ4年もグラビアアイドルをしていたのだから当然だろう)のだが、さすがにメイクをしてくれた男性がいた経験は無かった。
「…メイクさん、いませんよ?」
「俺がやるんだからいなくて当然だ。」
「黒沢さん、が?」
「愛結が化粧をする所ならよく観てる」
唐突にカメラを持ってきて、スタッフまで手配しているわ、挙句にはメイクを自分がやるとまで言い出すわ、辰実の言う事が先程から破天荒でしかない。…それでも、その言動の中に"美しいモノをデザインする"という目的のもと動く真剣さを黒い瞳に感じた怜子は、どうしてか辰実を信頼できた。
「化粧品は、今持ってるか?」
"これだけですが"と、怜子がリュックから取り出したのは小さなポーチ。中を開けてみれば下地、パウダーファンデーション、アイシャドウ、マスカラ、アイライナー、リップ、そして櫛が出てきた。
(一式持ってるんだな。)
最低限であれば3、4品くらい持っている女の子はよくいる(現に辰実の妹2人はそれぐらいの持ち歩きであった)。怜子がこうやって化粧品一式を持ち歩いているのも"グラビアアイドル"であった名残なのだろう。
「十分だ」
「鏡はあるか?」
どうやら、鏡も用意している様子。少し大きめの、折り立て式の鏡をリュックから取り出して立て掛けると、怜子は自分の顔を改めて見つめ直した。今の顔がどう変化するのか、楽しみではある。
「私が持ってる化粧品でいいんですか?」
「基本的に愛結が持ってるのと一緒だろう、君も元々が可愛い顔をしているから、そこまで塗り込んだりする必要は無い。…何なら塗り込んだ所で、"若松物産"のイメージからは遠ざかるしな。」
「考えてみれば、"若松物産"のイメージに合わないかもしれませんね。」
化粧できらびやかな女の子よりも、怜子のように元がいい子、何なら彼女のように"普通の女の子に近い"女性の方がいいだろう。
「だから化粧もそこまで直す必要がないから、俺でも十分だ。」
(化粧品の揃えも愛結と一緒という事は、だ。あくまで推測でしかないが化粧のやり方も愛結と被る所があるだろう。)
1人っ子の愛結が、怜子を実の妹のように可愛がっていたのがよく分かる。
(…しかし、母親から化粧を教わらなかったのか?)
そんな疑問は今、どうでもいい。ファンデーションを手に取ると、怜子の量の頬に軽く当てる。軟らかい感触が数回頬に当たると、さっきよりも少しだけ綺麗になった女の子の顔が怜子には映って見えた。
次に辰実が手に取ったアイシャドウは、紫とボルドー、グレー、ニュートラルブラウン、マットとダークブラウンの6色がパレットに詰め込まれていた。辰実はそのうちのダークブラウンにチップを擦りつける。
愛結が使っているのはニュートラルブラウンだったが、それよりも暗い茶色。
「アイシャドウ、うちは別に色の指定は無いぞ?」
怜子が塗っていたのは、ラメ入りのヌーディーカラーだった事に気を遣ったのだろう。襟を正した就活生でも無いし、1人の大人として彼女を見ていたからの発言である。
「ダークブラウンは、愛結さんが"これが似合う"って言って塗ってくれた色です。」
「愛結の肌は黄色みが少しあるけど、君の肌は薄いからその分化粧が映えるんだろうな。」
基本的に化粧は、塗る肌の色に合わせてやっていくものとなる。その辺りの事を分かっているから、辰実も愛結と一緒の事を言うのだろう。チップに擦りつけたダークブラウンを、辰実は怜子の閉じた瞼に丁寧に塗る。
「後は、指でぼかしてもらえるか?」
言われるとおりに、怜子はアイシャドウを指でぼかす。目を開けた時に、彼女はまた少しだけ大人になっていた。
「アイシャドウも、ネイルだって塗ってたって別にいい。…"仕事場だし"と言って気にしなくていいぞ。」
「ありがとうございます。」
「オシャレは自分のためにするものだ。…ところで、ヘアゴムは"2つ"あるか?」
左手首に巻いていたヘアゴム2つを、怜子は辰実に手渡す。受け取った辰実は慣れた手つきで、怜子の長い髪を2つに束ね、お下げを作った。
「お下げで、いいんですか?」
「こうしておけば色々と面白い事になる」
やや波がかった2つのお下げを、丁寧に櫛で梳くと"女の子"が完成する。
「よし、では最後。表情の練習だ。」
"表情の練習"と言われるも、常に仏頂面に近い表情をしている辰実からは全く説得力の欠片も無い。
「俺の表情が険しいからと言って何か疑ってないか?」
「だっていつも険しいですもん」
「ちゃんと笑う時は笑うんだぞ?」
「本当ですか?」
"なら試してみよう"と言っても、辰実はぶっきらぼうな表情のままだった。その表情も、突然変わる。
「にっ」
「にっ」
辰実が急に"にっ"と口角を上げ、歯をむき出しにする。釣られて怜子も"にっ"と口角を上げ、歯をむき出しにした。
「…よし、表情はこれでいい。あとは本番あるのみだ。」
*
市場のロビー、新鮮な魚介類が一望できる空間。見通しの良い場所に、真崎は撮影セットを置いた。
スタンドで固定した"モノブロックストロボ"と"レフ板"が左右に置かれている。施設の照明では、光の量が足りない事を考慮して、"モノブロックストロボ"で光を照射、"レフ板"を反射させて被写体に当てるという試み。
レフ板やストロボの向きを観れば、どの位置に被写体を立たせればいいのか分かった。味元から厳かな黒い茶碗に盛られた白米、そして木製の箸を左手右手で怜子は受け取る。
「あの辺りで、こっちを向いて立ってくれ」
「分かりました。」
辰実は怜子に指示し、ストロボの光が反射し合う交差点に立たせた。スタンドに固定した一眼レフのカメラと、彼女が対面し合うと、辰実はズームレンズを回し、怜子の立ち姿の写真を撮影し始める。
「ご飯を肩ぐらいの高さで、箸も同じぐらいの高さにしようか。」
「これでいいですか?」
辰実の指示に沿って、怜子は手を動かす。"そのままで"と更に指示をして、次は光の調整をする。被写体にいらぬ影を作って、写真や作品の価値を損ねる事を避けなければならない。
「左右とも、光強くしてください。」
「はーい」
「真崎さん、気持ちもうちょっと弱くして大丈夫です。」
「これぐらいですか?」
「はいそれで、いい感じです。」
光の使い方で、写真の色がより綺麗になる。微妙な調整であるが、辰実は真崎とスタッフの手を借りて上手い事こなしていく。"カメラを使った仕事"と言うのは以前にやった事はあるのだが、モデルの撮影と言うのは初めてである。…にも関わらず、レンズを覗き込みズームレンズの、ピント調整の方のリングを動かしている辰実からは全く"素人"という感じがしない。
少しだけの余白を持って、怜子の全体が写るように焦点距離を合わせ、彼女の存在がくっきりと写るようピントを動かしていく。ほんの少しぼやける"市場"の背景は、これで良かった。
「1枚撮りまーす」
カシャ、と小気味良いシャッター音が響く。口角を上げただけの怜子の写真は、綺麗にできていた。…あともう一押しすれば、もっと"よくできた"一枚が仕上がる。怜子視点で、ひょっこりとカメラの影に隠れていた辰実が顔を出し、"にっ"と歯を見せる。声には出ない指示で、怜子は準備した顔をもう一度作り上げた。
(にっ)
グラビアの経験値が、怜子にじっとしたまま表情だけを動かせた。白い歯をむき出しにし、いじらしくも無邪気な笑顔を見せた彼女の様子は、以前に袴姿で撮影をした時の者とまた別人に見える。
「いい感じ、もう1枚」
カシャ、カシャ、と、辰実らしい切れのあるシャッター音が数回響く。数秒間、無言でシャッターを切った後に、"よし、終了です"と辰実の合図で脇目も振らず、3人がカメラに駆け寄ってきた。
「いやほんと、初めてですか黒沢さん?」
「俺の腕じゃない、この子が良いんですよ」
遠回しに、"見た目を褒められている"のが分かって、途端に嬉しくて怜子は恥ずかしくなってしまう。言い慣れてそうな言葉であったが、言われて嫌な気持ちなんて無い。
「完璧ですよ本当に、ありがとうございます」
「いえいえこちらこそ。良ければまた呼んで下さい。」
いい仕事ができたようで、真崎も納得していた。…しかし、ここで話が終わる訳では無い。
「でしたらちょっと、また手伝って頂きたい事があるんですが…」
「何なりと!」
「来月から"わわわ"ともう1つ、商店街の宝飾店と合同でアクセサリーを作るんですが、その時のモデル撮影もお願いしたいんです。」
"何ですかソレ!?"と食いつく真崎の目が光っていた。期待値の高い仕事に巡り合えた喜びと共に、仕事に身を置く人間が持つ"野心"もそこにある。
「詳しくは、お昼でも一緒に食べながら」
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