6話「桜の咲く日」ー中編


大粒の唐揚げを、辰実は口にする。


噛めばザクザクと気持ち良い音がするくらい、歯ごたえのある衣。程よく熱が通ったもも肉は軟らかく、歯で衣ごと噛み潰そうとすれば肉汁が溢れ、感激とともに味覚の決壊が始まった。そして肉に染み込んだ甘めのタレも良い。砂糖醤油とショウガを日本酒でまとめた、まろみのある味が白いご飯や塩味の少し利いた柴漬けとも相性良く、箸を止める事が全くできない。


「美味しいぞ馬場ちゃん」

「喜んでもらえたなら良かったです」


辰実が食事をしている様子を、梓は嬉しそうに見ている。"以前からの知り合い"というのは怜子にも分かったが、それ以上に深い関係のように見えた。



「お二人は、どういう関係なんですか?」



怜子に訊かれて、辰実は"言葉を選んでから"答える。


「前の職場の、上司と部下だった。」

「前の仕事、ですか…?」


「俺は半年前に辞めて今に至るんだが、馬場ちゃんは?」


怜子に振られた質問を逸らして、辰実は梓に話を振る。この行動は怜子に一種の"疑念"を持たせてしまう、"何故黒沢さんは自分の話をしたがらないのか?"と。怜子がグラビアアイドルであった事について"意図的に"深堀りせず、花嫁姿の愛結と写っている写真を伏せ、更には"前の仕事"の話を逸らした。


辰実は、自分の何かを知っている。


怜子の疑念は、じわじわと確信へ変わっていった。…しかし、自分が辰実を相手にその"秘密"を暴く事ができるのかと言われれば難しい。


彼女が辰実に対し、"どうすべきか"と思った時に出た選択肢は、選択肢ではなく一方通行のルートであった。



「実は私も、退職したんです。」


辰実がさっきから組んでいた腕。肘の関節が軋む音が聞こえた気がするのは、それが真剣な様子で梓の話を聞く姿勢になったという事なのだろう。



「そんなに、真剣な顔をしないで下さい。私が自分で考えて決めた事ですから。」

「じゃあ、"ダイニングあずさ"を…」

「はい、私のお店になりました。」


辰実が変わったように、知らない間に梓も変わっていた。新しい環境で気持ちを入れ替え、人生を再スタートさせた梓の事を、もっと激励したい気持ちはあったのだが複雑であったのは、辰実の方の"退職した"理由にある。…少なくともその事で、梓が被った迷惑は小さくない。


「言っときますけど、黒沢さんの所為じゃないですからね?…黒沢さんの"当時の事"を考えれば、退職して商店街に流れた理由も私にはよく分かってますから。」

「そう言って貰えると有難い。」


「その時の気持ちを少しだけ渡してもらえただけでも、私は幸せでした。」


飯粒の境界がはっきりしつつも、コネクトし合った白ご飯を一口分残し最後に食べた唐揚げの味が心にも染みていく。味わっているにも関わらず梓の言葉を噛み締めていたから、美味しかった唐揚げの味は分からない。



(馬場ちゃんが"ダイニングあずさ"の店主になったのか…。また店が開いている時に聞きに行ってみるのもアリだな。)


"若松物産"の藤本が襲われたのは"ダイニングあずさ"の前であった。その時に、誰かは分からないが女性に介抱されたという。それが梓かどうかは分からないのだが、梓が店番をしていたとなれば、”梓が藤本を介抱した"という事実が浮かび上がってくる可能性も少なくは無い。


どちらにせよ、当時の状況を梓に訊いてみる必要はありそうだ。藤本が飲みに行っていた状況から追っていくように探れば、"襲われた"時の状況に近づく事ができる。



(お前自身に協力してくれる奴を探せ)



ふと、ボビーの言葉を思い出す。怜子が今、何を考えているのかは分からないが辰実は辰実の目的を達成するために"古浦の警告"について追っていく必要があった。


…ここにきてすぐに、"梓の"協力が必要になるとは辰実も思わなかったのである。



「それにしても、黒沢さんがデザイン事務所にいるなんて思ってもいませんでした。」

「大学でデザインを勉強してたんだ、本来ならこっちが鞘だよ。」


食後のコーラを飲んでいる辰実の様子は、怜子には"緊張が解けている"ように見えた。物腰柔らかな伊達の様子と少し被る所はあるが、いつもは常に一歩引いて様子を見ている所に"緊張感"がある。


先程、怜子はそれを"自分の身上、心情を言いたがらない"事だと気づいた。


自分の事情は能く知っているのに、怜子は辰実の事を全く知らない。…ただ分かっている事は、自分がされた"契約解除"に潜む事情を知っている可能性がある事だけ。



「"アヌビスアーツ"っていうデザイン事務所の事は知りませんでした。…前は確かここ、"神室広告店"って名前の会社があったと思うんですが。」

「それはうちの事だが?」


「え?でも、店長は黒沢さんじゃ無いですよね?」


食後のコーラを一口。ペットボトルでは無く冷えた缶のコーラを頂くのは、辰実の好みである。


「馬場ちゃんの言ってるのは、先代の"神室さん"だな。あの人なら去年のハロウィンが始まる前に"俺は引退するから後は頼む"とか訳の分からない事を言って退職していったぞ。…そう言えば昨日、ハワイから写真を送ってきてくれたな。」

「どうりで、最近は神室さんを見なかったと思ったんですよ…」


辰実にとってはそこまで付き合いの長い男では無いが、"先代"にあたる神室という男は、何十年も前から商店街にオフィスを構え広告店を経営していた。商店街で生まれ育った梓と顔見知りであっても当然の話である。


「10年間貯め込んだヘソクリで旅に出るとか言ってたな。…そう言えば馬場ちゃんは商店街で生まれ育ったんだから、神室さんとは付き合いが長いのか。」

「日中に仕事をサボりに、店に来ては父さんと話をしてたそうですよ。…夏休みとかで私が家にいる時は、いつも飴をくれました。」


"大阪のオバチャンの話かそれは…"と一瞬、辰実が呟いた。


「そうそう、夏休みには"どの魚が旬になってる"とか話をしてくれたんです。…確か、"若松物産"とも長い付き合いで広告を担当してたとか。」

「"若松物産"の広告の仕事なら、今は俺が引き継いでやってるよ。先日、6月に旬の魚がいっぱい出てくるから、それに合わせたポスターを作るってもんで打ち合わせに行ったな。」


"コーヒーでも飲むか?"と辰実が訊くと、梓は"いいですか?"と答えていた。席を立ちあがり辰実がエスプレッソのカプセルを手に取り、準備を始める。その間に、怜子はテーブルで待っている梓と目が合ったと思うと、ニコリと微笑みかけられた。


傍らで、"アルペジオ"を手に取った辰実。彼とは離れたイメージの紫色は、もしかして自分の目の前にいる女性の事では無いのかと怜子は考えてしまう。片思いのような、想い続ける愛の形を表現した淡い紫が、梓の艶やかに静かに咲く華のイメージと被って見えた。


だとしたら、静かに思い続ける華の願いは叶ったのだろう。



「黒沢さん」


アルペジオのカプセルをエスプレッソメーカーに入れ、薫り高い中身を抽出して持ってきた辰実に梓はスマートフォンの画面を見せる。"昨日見つけました"と言っているのは、SNSに投稿されたとある動画だった。



「黒沢さん、"わわわ"の人と一緒に仕事してるんですか?」

「してないが、どうして?」


"この動画を観てくれたら分かります"と梓が言うものだから、何も言わず辰実は再生されている動画に目をやる。グラビアの黒沢愛結が、朝日をバックに撮影している様子であったが、本題はまた別のシーンなのだろう。


怜子も座っている辰実の上から画面を覗き込んでいたが、彼女の表情に辰実は目を合わす事はなく動画に視線を送り続けていた。



『撮影お疲れ様でしたー』

『いい撮影だったね。もう朝日すらアクセサリーだって!』


愛結を持ちあげるスタッフの歓談。"甘い蜜に群がる虫みたいだ"と溜息を思わずについてしまう。ただ単に綺麗なものに群がりこびへつらう単細胞な男達の様子に、梓は思わず辟易してしまっていた。


(黒沢さん怒ってるのかな…)


梓が横を向いた時に、いつも何も言わずぶっきらぼうな表情をしている辰実が静かに見えた。"いつもの様子では?"と思ってしまいそうだが、梓は辰実のいつにも増してぶっきらぼうな様子が、いつもより静かなように見えている。


『そうそう、6月は鰹に鯵、鮎、鱚、鱧、他には飛魚や鱸、アサリやホタテ。色んな魚介類が旬で、"若松物産"でもセールが始まりますねー!鮎のPRなんてどう、"愛結"だけに?』

『駄洒落じゃなくて、私は鰹が食べたいかなー』

『え、愛結ちゃん鰹好きなの?』

『好きですよ、特に藁焼き鰹!…一度でいいから藁焼きしてみたいんですよ!』


『え、だったら"若松物産"の6月の旬の市に合わせて"藁焼き鰹"を作ってみたいです!』

『お、じゃあそれをPR動画にしてもらおう!愛結ちゃんがPRすればバカ売れ間違い無しだな!』


海鮮丼を見せたり、それを食べながら"美味しい"と感想を言っている8分くらいの動画であった。


"やっぱり美人だな…"と熊谷が呟き、伊達が感心するようにニコリとしている。辰実は黙りこくっていて、梓だけがその様子を察していた。



「…基本的に黒沢さんの仕事って、神室さんから引き継いだものですよね?」

「勿論だ。」

「"若松物産"から仕入れをしている所であれば、毎年どの時期にどの魚が旬なのか分かってるんです。」


(さすがだ馬場ちゃん!とんでもない"女子力"、もとい"女将力"だ。6月が旬の魚なんて俺には分からないぞ、だって何時どんな時も魚ってのは美味しいんだからな。)


「でも、そう言われて"6月の旬の魚"を鰹以外即答できる人は少ないだろう。俺みたいに、少なくともこの動画に映っている"黒沢愛結"だって鰹ぐらいしか知らなさそうだ。」

「だから、こういう風に宣伝する事に意味があるんでしょう」



「そうなんだよなー」



おおよそ棒読みとしか言えない台詞で、辰実は頭をポリポリと搔いていた。そんな辰実の様子を見て梓はニコニコしているのだから、熊谷と怜子はよく分からない様子の顔をしている。


"ほっほっほ"と、時代劇の御老公みたいな笑い方をするのだから、伊達には分かっているのだろう。せめて辰実と梓の間には"信頼関係"というのができているぐらいの認識でしかなかった。


「黒沢さん、研修は上手くいってるんですか?」

「たぶん」


"たぶんって…"と、梓は困ったように笑っている。彼女は"アヌビスアーツ"の社員が思っている以上に辰実の偏屈っぷりを理解しているのだろう、まるで夫のふざけっぷりを慈愛で受け止める"妻"のようにも見えてしまう。…勿論、辰実の妻が梓では無い事は周知の事実なのだが。


「それで、また"スケベなニワトリ"でも描かせてたんですか?」

「バレたか。…しかし、あのニワトリが要所で活きてくるのは、馬場ちゃんもよく理解してるだろう。」

「ええ、そうですね。」


辰実はその後も少し、伊達や熊谷、怜子にも話を振りながら梓と久々の時間を楽しんでいた。頃合いになって彼女が帰ろうとした後、"すまないが今日、店に行っていいか?"と訊いていたが梓は"待ってますね"と笑んで答える。


その様子が"ふざけた顔"じゃなかったのを、怜子は目ざとく見ていた。



 *


関羽通り、"ダイニングあずさ"


その日の夜9時半になる。6時開店から盛り上がっていた客足も今は落ち着き、梓は落ち着いて食材の仕込みや食器の片付けをやっていた所であった。


ガラガラ、と使い込まれた引き戸の動く音がしたのは、恐らくこの時間を見計らった客が来たのだろうと思いながら梓は顔を上げる。外の喧騒に紛れて息をしながら、いつもの様子を引っ提げて辰実が現れたのであった。


「いらっしゃいませ、お好きな席へ」


梓の正面に、辰実は座る。


「ここへ来るのも、半年ぶりぐらいになる」

「来なくなったと思ったら、お客さんが急に来てくれるのはよくある話です。」


「俺にとっては昨日今日ぐらい短い半年だった」


突き出しで牡蠣のバター焼きを出される居酒屋なんて珍しい。それだけ辰実が来ることを梓は待ってくれていたのだろう。


「えらく豪華な突き出しだな。」

「久方ぶりのお客さんですので。…黒沢さんにとっては"昨日今日ぐらい"の半年でも、私にとっては"行く戦の寒い冬"くらいの半年でした。」


メニューを見ながら、"ハイボールと唐揚げ、あと春菊のおひたしを"と注文をする辰実。急に大人になって再開した梓の様子に気持ちを落ち着かせる時間を少しだけ拝借したのであった。



「成程、雑誌でも話題の居酒屋になる訳だ」



大粒の牡蠣の、旨味が凝縮した味をバターが宥めている。2粒だけの突き出しをよく咀嚼し飲み込んだ辺りで先に出されたハイボールをあおると、残りの2品は同時に出された。


「これだ、これを食べに来たんだよ」


甘辛いタレに漬けこまれたもも肉の食感と、衣のザクザクした食感を味わった後に残った脂とタレの甘みをハイボールで流し込む。商店街の一角でこんな贅沢ができるなら毎日来たっていい。


「"饗庭(あいば)さん"も、最近は唐揚げばっかり食べに来てくれます。」

「饗庭が…。この間結婚したとか言ってたな、式は挙げないと言ってたが。」

「連絡は、取り合ってるんですか?」

「まあ、ぼちぼち。恥ずかしながら数少ない友達なんでな。」


唐揚げの後に食べるおひたしも、爽やかな味で口の中を落ち着かせてくれる。"牛スジの煮込みをくれないか?"と次の注文をしたところで、手書きで何かがかかれたボトルから注がれたタレと調味料を入れた鍋に梓は火を点ける。


「馬場ちゃん、思い出せる範囲で答えてくれていいんだが教えてくれ。先日にこの店の辺りで"倒れたサラリーマン風の男"を介抱しなかったか?」

「…確か3月にそんな事が。私が店の看板を片付けようとした時に見かけたんです。…確か、起きた後に右の側頭部に氷を当てて応急処置をしました。」


"若松物産"の藤本を介抱したのは梓で間違いないだろう。辰実は事の詳細を知ってはいるが、梓の方が"その事情"に気づくかどうか待っていた。


「商店街の真ん中で倒れていたんですよ、しかもうつ伏せに。…"不自然"じゃないですか?」


(お、気づいたな)


「痛そうにしてたのは側頭部も側頭部、倒れて頭の真横を打ちますか?」

「…その人だが多分、何者かに襲われている。"若松物産"の社員なんだが、先日に直接話を聞いた。」


煮込まれた牛スジが、辰実の前に出される。箸で角切りにされた肉を器用につまみながら、少しずつ取り分けるように辰実は説明を始めようとしたが、先に梓に核心を突かれてしまった。


「怜子ちゃんの事でしょう?」


"当てられた"事にどう反応して良いのか分からなかった辰実は、とりあえず眉をしかめる。


「商店街の情報網を甘く見てましたね」

「情報網なんてのがあるのか。…そりゃあ昔からある商店街だもんな。」


「"アヌビスアーツ"に入社した新入社員が、"AMANDA"で今年からアルバイトをしていた女の子。その女の子の名前が"篠部怜子"っていう所まで、商店街の面々が知っていると思って下さい。」

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