2話「ラ・ジャポネーゼ」ー後編
*
若松商店街、明王通り。
5つある通りのうちの1つである。特に通りによって店の偏りは無い。…ちなみに"アヌビスアーツ"と"AMANDA"は毘沙門通りにある。
そんな事より話は辰実と怜子が"AMANDA"で食事をとった少し後、午後1時前に進んでいた。
怜子には適当に時間を潰していてもらい、辰実はその間に外で商店街の人達に頼まれていた用事を済ませている。さっき怜子に何をしていたか訊いてみると、"雑貨店に本を観に行ってました"と言うので充実した時間を過ごせてはいたようだ。
「さて、入るか」
時計が午後の1時を過ぎるかの辺りで、辰実と怜子は"Studio Bianca"の入り口ドアを開け中に入る。
「お待ちしておりました」
穏やかな口調でゆっくり頭を下げながら出迎えてくれる、白髪混じりのオールバックの初老の男性。背は低いが骨太の体格のその男は、さっき見覚えがあったばかりであった。
「すみません、"藍染めの袴"と聞きまして…。気になって居ても立ってもいられず来てしまいました。」
「藍染、ですか。」
「古き良き、日本の染め物の文化でありますので。」
とにかく時代や歴史を感じさせるものが好きな伊達の好奇心(時代劇を観るのが好きらしい)を、辰実は否定する気にはならなかった。"仕事中の休憩"で事務所を空けるくらいは何の問題も無い。
「地元の文化でもありますからね。中々面白そうでもある。」
いきなり現れた伊達に驚く怜子を気にせず、辰実は会話をしている。怜子はまだ辰実と伊達の2人しか見ていないが、"アヌビスアーツ"は自由人の集まりでは無いかと思ってしまう。
「ちょっと伊達さーん、お客さん来たらどうするんですかー」
「申し訳ございません。お二方が来るのを防犯カメラで観ておりましたのでつい…」
笑いながら謝る伊達のちょっとしたイタズラをたしなめるように、真崎が出てきた。
「いやー黒沢さん、ありがとうございます!…ちょ、この子は!」
「最高のモデルでしょう?今さっき、うちの社員になる事が決まったんだ。」
「隅に置けませんねー、黒沢さんも。よっ、色男!」
「それはまた後で天田さんの方に言っといて下さい」
辰実と真崎の掛け合いが終わった所で、怜子は挨拶をし深々と頭を下げた。
「篠部です、よろしくお願いします。」
「"Studio Bianca"のカメラマンやってます、真崎です。」
"さあさあ"と、もてなすように怜子を真崎は案内して行った。それほど広くは無いが、受付フロアには今まで撮影したモデルの写真や、衣装のサンプルが置いてある。
"メイクルーム"と札が書かれたドアに、真崎と怜子は入って行ったようだった。…が、すぐに真崎は戻ってきて辰実と伊達を撮影室に案内してくれた。
「今日来るハズだったの、"わわわ"のモデルの子だったんですけどね。今朝方、急にマネージャーから"キャンセル"だって連絡来たんですよ。」
「急に、というのは困りましたね。」
「読者モデルだったのが、人気が出て専属モデルになった子で。…あんまり性格が良くないと思ったら、マネージャーも急に調子に乗り出して」
「マネージャーが、何を言ってきたんですか?」
「"彼女も言ってましたけど、アンタ等みたいな小さいスタジオの仕事なんてどうでもいいから"なんて、先約してた仕事を、後から"やりたいのが来た"なんて平気でキャンセルして、謝罪の一言も無しです。」
"Studio Bianca"も、モデルをやってもらえる事に感謝していたのだろう。…そう思われる事に胡坐をかいて、相手を馬鹿にした態度は許せるものでは無い、真崎の気持ちを辰実は汲み取る事ができた。
「最低ですよ、本当に。前来た時は、モデルの子どころかマネージャーまでスタッフを使い走りにしてたんです。…でも、今回は違うから本当嬉しい!」
マネージャーまでそれとは、余程の事だったのだろう。下げたくない頭を下げても、必死に仕事をする人間が馬鹿にされた怒りは、辰実にも察する事ができた。
「あの子、グラビアの"篠部怜子"でしょう?…黒沢さん、どこから引っ張って来たんですか?」
「グラビアの篠部怜子では無く、うちの社員です。」
「"アヌビスアーツ"に…。噂は本当だったんですね。」
「噂、と言うのは?」
「年明けに、グラビアの契約を解除されたって話です」
「でなければ、就活なんてしていないでしょうね」
面接の時には"質問を取り消した"が、それでも辰実は怜子が何かの事情を抱えていた事は理解できていた。傍にいた伊達も、謎が解けた時のような表情で話を聞いている。
「これも、噂なんですけどね。"篠部怜子"って言ったら、僕らフォトスタジオの間では凄く評判が良いんですよ。…そう、"黒沢愛結"くらい。売れっ子で何処からでも仕事来るのに、うちのような小さいスタジオ相手でも優しく接してくれますし。あの子もそうだって話を聞いた事があるんです。」
"先程あった事"を踏まえても、怜子の契約解除とその後には何か良くない事が"一枚噛んできている"状況があってもおかしくないように辰実には思えた。
それが分かっただけでも、"謎"は少し確信に近づく。
「だったらせめて俺達は、あの子のそういう所を見てあげましょう」
「そうですな」
ほっほっほ、と年季の入った笑い方を伊達はしていた。低い声で紳士風に笑うのが良く似合って仕方ない。
*
数か月ぶりにしてもらったメイクは、"やっぱり"自分を別人に変えてくれる。
メイクスタッフがしてくれた化粧と、ふわふわの団子頭を鏡で見ると、さっきまでの就活生の姿はどこへ行ったのか?何でも無かった自分が、偶像を現実に描いたようになっている事に思わず嬉しくなる。
「凄い…、別人になったみたい」
「元がいいからですよ」
もう一度、撮影ができるなんて思ってもみなかった。若干ギャル風のメイクスタッフは、怜子が予想外に喜んでいる様子に面食らってしまう。
「ちょっと最近、自信無くしてたんだけど…。今の聞いて頑張ってみようかなって思いました。」
「自信を失う事って…何かあったんですか?」
「この間、"わわわ"のモデルの子をメイクしたんだけどアレコレ難癖つけられちゃってー。現役の女子大生で、今人気のモデルの子なんだけど。」
思い当たる節が、怜子にはあった。…しかし、"わわわ"のグラビアアイドルでは無い今になってそんな話をするのもどうかという気持ちが言葉を喉の奥に押し留める。
掘り起こしてメイクスタッフを沈んだ気持ちにさせるよりも、喜んでいる今のまま撮影に行きたかった。
「駄目ですよね。メイクさんは私達をこんなにも綺麗にしてくれるのに」
怜子は、自分の着ている着物に目をやった。グラデーションで青にも藍にも見えてくる藍染に、白抜きのボタニカル柄は美しい。"凝り固まるぐらいに形作られたものを、打ち壊した"ように感じられたそのデザインが思い浮かべさせたのは、何故か辰実の事。
激しさと優しさが渦巻いている、そんなイメージ。
反して、袴は無地の碧色。明るさと安らぎを湛え生命を迎え入れるような、深海の色が"愛結"を思い起こさせる。繋がらない2人のイメージが、どうしてかバランスを取り合っているように見えた。
袴の間から見えた紫色の帯が、ちょっとしたアクセントになっている。
「じゃあ、撮影に行きましょっか」
メイクルームから撮影ルームに連れて行かれると、そこには既に撮影の準備を終えた真崎と、辰実と(好奇心で)伊達が待っていた。
「藍染という文化的なものでありながら、現代的なデザインでもありますな。…しかし、藍染の袴も美しいものですが着ている人が良いからこそでしょうなあ。」
「仰る通りです」
撮影が始まる。
立ち姿で、やや恥ずかしそうに笑顔を見せる怜子の姿が"年相応の"女の子を映し出す。"お、いいねー"と思った通りの言葉を真崎も漏らしてしまっていた。白ホリのスタジオに響くシャッターの音が彼女と会話しているのか、シャッターの音がする度に怜子は、色んな角度から女の子を見せてくれている。
恥ずかしそうに俯いて、右手を胸の位置で自然体に。
着物の袖を広げ、嬉しさを表現する。
斜めに視線を向けて、右の掌に左の掌を重ね小首をかしげる。
次のシャッター音でカメラに背を向け、少しだけ視線をカメラに向けようた。そして次のシャッターの音がして、怜子が視線ごとカメラに背を向けた"その次の"瞬間、ここにいる怜子以外の"全員"が息を飲む。
振り向いた怜子が、"女性に"なっていた。物憂げな表情で斜め上からカーブを描くようにカメラに向けた視線に、繊細な力加減で胸の上に置いた左手も、脱力し宙ぶらりんな右手も、全てが大人の"篠部怜子"を余す所なく表現している。
繊細な力強さで伸びるか細い左手の指先も、それぞれが自然体の右手の指先も、彼女が"被写体"として魅力を伝えるために欠かす事ができない要素としか言いようがない。神も、美しさもその細部にまで行き届いたからこそ宿るのだろう。
(雰囲気が全然違う)
(ほう、これは"美しい")
驚きで真崎は、シャッターを切る事を忘れ茫然としていた。気づいた怜子が"真崎さん?"と呼びかけた時には元の年頃の女の子に戻っているのを見て、真崎もこっちの世界に強制送還される。
「"ラ・ジャポネーゼ"でしたな」
「モネの絵の事ですか?」
"ラ・ジャポネーゼ"と聞かれて思いつくのは、侍の絵が描かれた赤い着物を着たブロンドの女性が、扇子を開いて振り向いている絵であった。モネの"ジャポニズム"を描いた作品の中でも、華麗に日本趣味の出た作品である(どこかの美術館でもそんな事を解説していた)。
アートが好きな辰実も、それぐらいの事は知っている。
"その通りでございます"と答えを心待ちにしていた伊達。
「しかし、モネが描いたのは"赤"の着物でした。俺の錐体がイカレていない限り、あの子が着ているのは"青"系統の色の袴ですよ?」
「ええ、モネも当時の"日本文化"のイメージを描かれたのでしょう。…しかし今は、"ジャポネーゼ"は青だと私は思うのです。」
言われてみれば、そうなのだ。"ジャパン・ブルー"と言えば藍の事で、その藍の着物はまさに"日本の文化"を象徴するものだろう。もう1つの"ラ・ジャポネーゼ"、即ち名画にも並ぶ表現をこの場で怜子がしたと言っても良い。
「慎ましく、そしてたおやかな彼女には、よく似合う色ですなあ」
「ええ。…ですが、"似合い過ぎる"と思うんです。」
"ほうほう。それでは黒沢さんには、何か本質的なものが見えているかもしれませんな。"と伊達が答えたのだから、今ここで考えるべき事ではないだろう。"推理"を展開し過ぎる所も"前職"の所為だろう。
「ありがとうございました」
撮影が終わり、カメラで映り具合を確認した怜子は真崎に深々と頭を下げる。
「いやいや、僕らも久々にいい仕事ができたから嬉しいよ!はじめっから"わわわ"じゃなく君に頼んでたら良かったかもしれないねー」
"偶然です"と怜子は答える。終わった様子を見てやって来た辰実と伊達に、真崎は頭を下げた。
「この写真を見たら、"わわわ"の奴らも肝を冷やすでしょうよ。…それを考えたら、今からスカッとしてきましたよ!」
「気が早いですよ、真崎さん」
「いや、これは本当に素晴らしい写真です。…そうだ黒沢さん、何かお礼にできる事は無いですか?」
会心を超える出来の撮影を終えて狂喜乱舞する真崎に言われ、辰実は怜子の方を見る。
「なら、今彼女が着ている袴をレンタルさせて下さい。レンタル料が必要なら、"アヌビスアーツ"で負担します。」
「構いませんよ。…いいや、レンタル代も要らないです!」
一瞬、怜子の顔が喜んだ。それが"一瞬"なのは、次の真崎の言葉の所為。
「あと、今回撮影した写真、スタジオの入り口に飾ってもいいですか?」
「…………」
"言いたくない事は言わなくていいけど、嘘をついていいって事じゃないから。言える事は正直に話してくれ。"
面接の時もそうだったが、怜子は"契約を解除された事"については"言いたくなかった"。そんな時に、面接の初めに辰実が言っていた事をふと思い出す。
その言葉の"本当の意味"は、怜子には分からなかった。ただ、"言える"事は正直に話して欲しいという言葉に何故か温かさを感じてしまう。…勿論、その時の辰実にもそんな風に思わせる気持ちなんて無い。
「私の写真で、スタジオのイメージが悪くなるかもしれません」
「…怜子ちゃん、それはどういう事?」
辰実と伊達に向き直り、怜子は面持ちで話を始めた。
「私は、今年の初めに"わわわ"から契約解除を言い渡されました」
面接の時に、言いたくなさそうな様子を見せたのだから"事情がある事"ぐらいは辰実も理解していた。それをこの場で話すのだから、怜子にも思う所ができたのだろう。
「原因は、私が"わわわガールズ"の後輩に行ったパワハラです。マネージャーだった人から、"第三者"の告発があったと聞きました。」
「……………」
辰実も伊達も真崎も、黙って怜子の顔を見ている。少ししか接していないが、それでも彼女と"契約解除の理由"が全く結びつかないという"噛み合わない"気持ち悪さが心の中にあった。
「僕はそんな事、信じられないかなー」
「真崎さん…」
真崎が怜子を信じようとすると、更に怜子は暗い表情になってしまう。辰実が状況を一転させる言葉を用意できたのはその時であった。
「だったらわざわざここで話す事も、そもそも撮影モデルになる事も拒否していただろう?すまないがここまでの君の行動を考えると、どうしても"パワハラ"と結びつかない。」
怜子の矛盾を、辰実は突く。面接の時から見せていた"前職"の癖がここでも発揮される。…そんな辰実の鋭さに負けたのか、怜子は少しづつ本音を話し始めた。
「今回撮影をさせて頂いた事で、もしかしたらこんな私でも誰かの力になれるのかもしれないと思いました。…だから、正直に話をしたくなったんです。」
「言いにくかっただろうが、話してくれてありがとう。」
表情から陰りが消えた怜子の様子を見て、伊達と真崎は安堵する。
「私の契約解除の事も、いい話ではありません。…でも、撮ってくれた写真を真崎さんが誇らしく飾っていられるように頑張ろうと思います。」
"若者が前向きになった瞬間は、いつ見ても嬉しいものですな"と、年寄り臭い事を伊達が言った所で辰実も頷く。まだ32歳なのに、急に老け込んだように感じたのは気のせいだろう。
「そうだよ。辛い事もあったかもしれないし、これからまたその事が何か嫌な事になってくるかもしれないけど、怜子ちゃんの事が分かれば絶対に"パワハラなんて嘘だ"って思ってくれるからさ。」
小さな一歩かもしれないが、大事な事。
辰実が怜子の契約解除に"何か事情がある"と察したのは面接の時の様子以外にも、"もう1つ"確信を得られそうな出来事があったからなのだが、"信頼を得る"事は怜子自身にしかできない。
星には星の輝く理由があるのだろうが、"アヌビスアーツ"の2人は怜子の"理由"について少しだけ理解できたのであった。
(思った以上の収穫でしたね)
(そうですな。…ではこれから本格的に"謎解き"といきましょう)
それから1週間後。
桜の咲く、殆ど快晴に近い日である。
卒業式の会場で袴姿で笑顔の怜子が送って来てくれた写真を、辰実は昼休憩中に真崎のところへ見せに行ったら何故か"可愛いなー"と言って泣いていたのは内緒にしておこう。
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