第32話 理想の父親
瞬く間に、事務処理的に何事も過ぎてゆく。
医者に言われるがまま手続きを済ませ、葬式が行われた。
そう陽花里は亡くなった。
予想もしていなかった突然の別れになった。
俺が赤ちゃんを選んだせいで陽花里が亡くなった。
今になっても俺の選択が最善だったかどうかわからない。
命の選択に正解などない。
五人を助けるために、一人を犠牲にしていいことにもならないし、一人を助けるために、五人を犠牲にしていいことにもならない。
だがその正解のない選択を迫られれば、答えを出すしかない。
俺は最愛の人の命を犠牲に、新たな命を救うことを選んだのだ。
死因は難産による大量出血と、持病の心臓病の悪化が原因でのことだった。
赤ちゃんを諦めても、陽花里が助かるかは難しかったそうだが、もし赤ちゃん……燈を諦めることで陽花里が助かる確率が高かったのなら、俺は迷わずそっちを選んでいたかも知れない。
確率の問題だったのだ。
そんなことを平気で考える俺が、父親になどなれるのだろうか……。
子供を育てていく自信がなかった。
思い描いていた理想の父親になれる自信がない。
無責任もいいところだ。
もし虐待してしまったらどうしよう。
幼い俺が受けて嫌だったことを子供にしてしまったらどうしよう。
ちゃんと子供を育てられる自信がなかった。
どこか、ちゃんと子供を育ててくれるところに、燈を預けた方がいいのだろうか。
いや駄目だ。
陽花里の願いとは違う……。
俺の願いとも違う。
陽花里は俺と子供が幸せに暮らすことを望んだ……。
俺も子供と幸せになることを望んでいる。
だが、今の心の状態では、幸せに暮らすなど不可能ではないだろうか。
心の整理がつかぬまま、物事だけは淡々と進む。
小さな葬式をするつもりでいたが、店の常連客だった人や、陽花里と親交のあった数人が参列し、借りた小さな葬式会場に入りきらないほどの人が集まった。
葬式の最中泣くことはなかった。
涙は枯れ果てた。
そして色々なものが枯れてしまった。
心にぽっかりと開いた穴から、人間として大切な何かがこぼれ出てしまったような気がする。
「き、吉良くん……。その……これからどうするの?」
弥紗だった。
お腹が大分大きくなっていて、もうすぐ赤ちゃんが産まれるらしい。
「もし、何か困ったことがあったらいつでも相談してね。力になるから。燈ちゃんの世話もするし」
弥紗たちと俺を繋いでいたのは陽花里だった。
陽花里がいない今、俺とこの人たちを繋ぎ止める義理はない。
「大丈夫だ……。俺が育てる。育ててみせる。俺が……俺が……立派に育ててみせる……。だからもう、ほっておいてくれ……」
俺は陽花里が亡くなってから、弥紗たちとの付き合いを避けるようになった。
もともと俺は人付き合いが下手で、誰かと一緒にいるより一人でいる方が好きだった。
昔は、そのはずだったのだ
この町にいると辛いことばかりが思い出される。
陽花里がいない今、俺をこの町に繋ぎ止める鎖はなくなった。
違う場所に移って、そこで燈を育てようか。
そう考えたこともあるが、この町を去ることはできなかった。
陽花里がいなくとも、陽花里と過ごした思い出はこの町の至る所に見つけることができる。
この町を去るということは、その思い出を捨て去るということ。
陽花里が愛したこの町を去ることはできない。
どれだけ辛く苦しかろうと、この町で燈を育てて行こうと思った。
赤ちゃんの状態が落ち着いてくると、燈を育てるために必要な技術訓練を叩き込まれた。
ミルクの飲ませ方、お風呂の入れ方、おむつの替え方に抱っこの仕方まで、憶えなければならないことはいっぱいあった。
幸いなことに、悲しんでいる暇はなかった。
俺は燈に救われたのだ。
仕事に行くときはベビーシッターに燈のことを頼んだり、市のサービスを利用したりした。
現代ではひとり親でも、子供を育てていけるサービスが充実していることを知った。
だがそれでも子供を育てるということは、想像の何十倍も大変なことなのだと身をもって思い知らされる。
夜はぐずるし、眠ってくれない。
数時間おきにミルクをあげなければならないが、機嫌の悪いときはミルクを飲まないし、そこら中汚す。
おむつはしょっちゅう変えなければならず、かぶれないように注意が必要。
未熟児として生まれてしまい、熱を出すこともよくあった。
病院で検査を受けて見ると、陽花里と同じ先天性の疾患が見つかった。
そのため普通の子供よりも体が弱く、何十倍も気を付けてやらなければならない。
疲れているときや、夜起こされたときなどイライラして、酷いことが頭を過ってしまう。
だがその度に陽花里の言葉と、自分に科した言葉が蘇り怒りの感情を抑えてくれた。
俺はそんなことしない……。
大丈夫、大丈夫だ。
良い父親になる。
虐待とまではいかないまでも、燈を傷つけてしまわないために、自分と燈との距離を適度に保つことを心がけた。
陽花里の死を女々しく引きずっている暇などなく、毎日が忙しくすぎてゆく。
あっという間に一年が過ぎ二年が過ぎ、陽花里はしゃべれるようになり、歩けるようになった。
嬉しかった。
だが、歩けるようになると一層忙しくなる。
転ばないよう気を付けてやり、危ないところに行かないように気を付けてやる。
子供は好奇心旺盛でちょっと油断すると、外に出ていたり、高いところに上っていたり、危ないことばかりだ。
毎日の生活だけでいっぱいいっぱいで、思い描いていた父親らしいことなど何もしてあげられていない。
理想とはかけ離れている。
きっとどの親もそうなのだろう。
俺の母親も、一人で俺を育ててくれたのか……。
何から何まで初めてのことばかりで、男の子ならまだしも、女の子をどう育てればいいのかなど未知の領域だった。
どうやって娘とコミュニケーションをとって良いのかわからない。
血の繋がった家族なのに、預かった子供のようにたどたどしくなってしまう。
体が強ければ一緒に、キャッチボールをしたり、追いかけっこをしたり、そういう体を動かす遊びもできるが、それは望めない。
世間一般の親はどうやって、子供とコミュニケーションを取っているのだろう。
俺の性格上子供を猫かわいがりすることができない。
まるで昔の頑固おやじ気質だ。
物心がついてくると、駄々をこねることも、何かを請求することも、困らせることもなくなって、落ち着いてきた。
子供は親に迷惑をかけるものだということを、俺は考えもしなかった。
燈はこの幼さにして、大人に気を遣うことを覚えてしまった。
それは、とても悲しいことだった。
余り話しをすることもなく、俺も幼稚園であったことや、話を訊き出すこともしなかった。
俺はハリネズミのように燈を傷つけない、適切な距離を保っている。
傷つくのを怖がり、傷つけるのを怖がって、心の距離は縮まらない。
本当に大切な人とは、気持ちをぶつけ合わなければいけないのに、俺にはその資格がないように感じられた。
陽花里以外の人に心を開いたことのない俺には、余りにハードルが高すぎた。
赤ちゃんなどいらないと言ってしまったことが、喉に刺さった小骨のように俺を常に苦しめている。
一生墓までそのことを持っていくべきか、ちゃんと燈に打ち明けるべきか。
別に打ち明けなくてもいいのではないか。
打ち明けなければ、一生わかることはない。
それに、打ち明ければ、燈の心に一生消えない傷を残すことになる。
俺は嫌われるかもしれない……。
いつか打ち明けるとしても、まだ打ち明ける決意が固まらない。
打ち明けるにしてもまだ早い、分別の付く年頃になってから話そう。
そうやって俺は燈と向き合うことから逃げてきた。
今までずっと戦って来たつもりでいたが、俺はずっと逃げてきたのだ。
子供の成長は早く、陽花里が亡くなり、燈が生まれてから七年が過ぎ、燈は小学校に上がった。
いつもむすっとした顔をしていて、幼稚園の頃から友達ができず常に一人で過ごしていると、担任の先生から聞いていた。
俺に似ているな……。
そういうところで、親と子の繋がりを実感することが多々ある。
友達はいたが、俺もどこか友達関係を続けるのが苦手だった。
このままずっと燈に友達ができないなんてことになったら、どうすれば……。
こういうとき陽花里がいれば的確なアドバイスをしてくれたはずだ。
だが俺がしてやれることは何もない。
友達を作る技術を俺は与えてやれない。
何も与えてやれない。
俺が燈と友達になってやってくれと、小さな子供に頼んでも、逆に怖がらせてしまうだけ。
見守るしかなかった。
小学一年生のときは、ほとんどを保健室で過ごし、本ばかり読んでいたらしい。
それでは友達ができないぞ、とアドバイスすべきか。
だが否定は良くないと聞く……。
本当に友達が欲しいなら、積極的に輪に加わるはずだ。
俺と同じで一人で過ごすことの方が好きなのかもしれない。
だとしたら無理に友達を作れと言ってやる必要もないのでは……。
それに友達とは作ろうとして、できるものではない。
俺がそんなことを言っても説得力の欠片もないが。
二年になり俺の悩みは思わぬ形で解決を見た。
燈は愛染蓮という子供と仲良くなったらしい、という話を聞いた。
愛染蓮、弥紗と浩の子供だった。
蓮くんのおかげで燈は少し明るくなったようだった。
愛染の人々とはつくづく縁があるらしい。
陽花里が亡くなってから交流を避けていたが、こんな形でまた繋がることになるとは想像すらしなかった。
俺たちの子供がまた俺たちを繋げる。
陽花里が弥紗に出会い、燈が蓮くんに出会った。
蓮くんと燈が遊ぶようになってから、疎遠になってしまっていた弥紗たちとまた交流を持つようになった。
時の流れが必ずしもすべての傷を癒してくれるわけではないが、少しは痛みを和らげてくれるのは確かなようだった。
今でも陽花里のことを思い出すと、どうしようもなく胸が苦しくなる。
陽花里を亡くしたときは、もう一生立ち直れないものと思っていた。
陽花里の後を追おうと、一番苦しかったときは考えた。
だが陽花里との約束が、そして何より燈の存在が俺をこの世に留まらせた。
そう、俺は燈に命を救われたのだ。
あのときは燈を愛せるか不安だった。
虐待してしまうのではないかと不安だった。
だが燈を育てるうちに、こんなに愛おしい存在がこの世にあるのかと思えた。
テレビなどで流れる虐待のニュースが信じられなかった。
こんなに愛おしい子供に酷い仕打ちができようか。
陽花里に感じる愛おしさとはまた違った、言葉では説明できない愛。
だが、俺は不器用で、この気持ちを形にして伝えることが下手くそだった。
この世に生まれて来てくれたことに、こんな駄目な父親のもとに生まれて来てくれてありがとう、と伝えたいのに……伝えられない。
そう思うたびに自分が昔言ってしまった酷い言葉が、重い十字架となって俺の心を苛むのだ。
十字架のせいで自分は燈に罪悪感を感じてしまっていた。
この十字架を抱えたままでは、本当の愛は伝えられない。
そのことを言い訳にして逃げているだけだとわかっている。
わかっているのに……。
そんな気持ちを抱えたまま、時間だけは過ぎてゆく。
燈も高校生を卒業する歳になり、分別が付くようにもなった。
だから今まで話すことを避けていた自分の過去のこと、昔言ってしまった取り返しのつかない酷いことをちゃんと謝らなければ、何も始まらないと思った。
「陽花里」
決意を固めるために、俺は仏壇の前で陽花里に報告する。
これでもう逃げることはできない。
「もう、十八年が過ぎたな。……昔、思い描いていた立派な父親にはなれなかったよ。失敗ばっかりだった。何も授けてやれなかった。これじゃあ、おやじには顔向けできないな。だけど、燈はおまえに似てしっかりしているから、どうにかやって来れた。陽花里、これだけは謝っておきたいんだ。やっと向き合えるようになったんだ。あのときあんな酷いことを言ってしまったけれど、今では感謝しかない。――俺に燈を授けてくれて、ありがとう――」
俺もやっと陽花里を亡くした悲しみを受け入れ、燈と共に未来を歩めると思えた。
その矢先だったのだ……。
燈は……自殺未遂を起こした――。
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