第31話 燈
医者が言った言葉の意味がわからない。
何て言った……?
何を覚悟しろ、と?
命の選択。
テレビドラマや映画だけの話ではないのか……。
あれはフィクションで、現実の世界で本当に起こることではないはずだ。
ファンタジーのはずだ。
昔ならまだわかる。
昔の出産は命懸けだったと聞く。
だが今は昔じゃない。
科学の発展した現代だ。
現代医学ならどちらも助けられるはずだ。
現代医学に不可能はないはずだ。
現代医学なら、現代医学なら、現代医学なら……。
わからない、わからない、わからない、認めたくない……。
認めた瞬間本当になってしまうんじゃないか……。
体の血液が滞った感じで、すっぱいものがこみ上がる。
夕食を食べたのは六時過ぎ、陽花里の体調が急変したのは十時前、時計を見ると十二時を過ぎて、午前一時になっていた。
手術室の使用中の赤いライトが付いたままの扉を見つめて、俺はずっと祈っていた。
祈ることしかできない。
俺は何に祈っているんだ……?
神なのか、仏なのか、医者なのか、陽花里になのか。
こういうとき、すがる存在がいない人間は弱い。
何かに依存する人は、依存することで心の安定を得ている。
だが現代日本人のほとんどが無神論者で、依存する対象がない。
だから弱い人間は怪しげな新興宗教や、何かに依存してしまう。
考えなくていいように。
自分を導いてくれる何かに。
自分を救ってくれる何かに。
信じる者は救われるのなら、神を信じてこの状況が良くなるのなら、俺は神の奴隷となる。
仏を信じてこの状況が良くなるのなら、俺は仏の奴隷となる。
悪魔を信じてこの状況が良くなるのなら、俺は悪魔の奴隷となる。
すべての原因を生み出した全知全能者がいるのなら、頼む助けてくれ……。
祈ることしかできない自分の無力さ加減に吐き気がこみ上がる。
だが、神や仏や悪魔がいないことはこれで証明された。
いやもし本当にいたとしても、俺のような何のとりえもない一般市民など助けてくれるはずがない。
俺のような奴を助けるなら、もっと苦しい想いをしている者を助けるだろう。
今まで何千、何万、何億、何十億の人間が神の名の下に死んで逝ったと思っている。
けれど、神は誰一人としてその者たちを助けなかったではないか。
どんな敬虔な信者にも特別視はしないように、俺にも特別視はしない。
神は全知全能の傍観者なのだ。
愚かな人間を見て楽しんでいる、観客席の観客に過ぎない。
俺がどれだけ映画の登場人物に感情移入しようと、助けることができないのと同じ。
神とて例外ではない。
手術室の中から医者と助産師が深刻な顔で姿をあらわした時点で、俺の望みは絶たれたと悟った。
医者が何かを言っていた。
病院の壁や天井がゴッホの星月夜の空のように渦を巻いて見えた。
医者と助産師を押しのけて俺は手術室の中に駆け込んだ。
機械の詰め込まれた部屋。
無機質な台の上に薄い布をかぶされた状態で陽花里は寝かされていた。
照明灯の白い光が降り注ぎ、まるで実験体にされているかのように見えた。
口には人工呼吸器が取り付けられて、過呼吸のような呼吸を繰り返している。
陽花里の命が、モニターに視覚可能なグラフとなって映し出されている。
俺はそれを見て、命が軽視されているように思った。
見るな、見るな、見るな、おまえらみんな見るんじゃないと。
「陽花里……」
俺は陽花里の名前を呼んだが返事はなかった。
陽花里に駆け寄り手をとる。
まだ弱々しいものの命の気配を感じる。
「陽花里!」
いつものように笑ってくれよ……。
俺は産科医にすがりついて、必死に助けを乞うた。
惨めでもかっこ悪くても構わない。
どうにかしてくれるなら、土下座でも、靴でも、トイレの床でも舐める……。
「吉良さん! 落ち着いて聞いてください。子供か奥さんどちらを助けますか……。奥さんは気を失うまで、何度も何度も赤ちゃんを助けてくれと言っていました。旦那であるあなたが選択しなければなりません」
「なんだよ……その選択……。冗談だろ。冗談だって言ってくれよ……」
だが産科医は深刻な顔で俺を見て、「旦那であるあなたが、しっかりしなくてどうするのです」と厳しい声で言った。
陽花里だ、陽花里を助けるに決まっている……。
子供ならまた作れる……。
陽花里いてこその家族ではないか……。
「陽花里を――」
助けてくれ、と言おうとしたとき〈あなた〉という声が聞こえた気がした。
陽花里の声だった。
意識を取り戻したのだ、と思い陽花里を見たが眠ったままだった。
〈あなた、お願い〉
人間にはテレパシー能力などない。
これは、おかしくなってしまった俺が現実逃避のために作り出した幻聴なのか……。
幻聴に……幻聴に……決まって……。
〈子供を助けてあげて。授かった私たちの子供。私はずっと昔から家族を持つことが夢だった。家族ってものに憧れを持っていた。子供のころはそんな夢、叶わないと思っていた。そんな幸せそうな家庭を見るたびに、酷い感情が湧き上がってくるの。そう思う私は、あなたが思ってくれる、女じゃない〉
幻聴だ……。
〈内気で体が弱くて誰にも相手にされなかった。本ばっかり読んでいて、家庭ドラマが好きだった。そのころ一番好きだった本がアンのお話。アンも私と同じだと思ったから。だけど本当は、私とは正反対の性格で、アンはみんなから好かれて、好きな人と結婚して、素敵な家族に恵まれて、ずっと羨ましかった。自分には絶対に手に入れられないものを、手に入れてゆく〉
気が付くと俺は我が家にいた。
陽花里も俺のとなりに座っている。
夢……だった。
今までの出来事はすべて、夢だった!
最悪の悪夢だったのだ。
良かった……良かった……良か……。
そう思ったのも束の間、陽花里の言葉が続く。
〈だけど違ったの。人間は変われるの。私にも友達ができて、親切な人たちに恵まれて、私の世界は色付いた。そうしたら、あなたが私の前に現れてくれた。初めは怖くて不愛想な人だと思ったけれど、少し話せば優しい人なのだとすぐにわかった。色々面倒くさい人だけど、あなたと結婚できて本当に良かった。苦しいことも辛いことも二人でなら乗り越えられるって〉
〈ああ……ああ……俺も……俺もきみと結婚できてよかったよ。きみに出会えてよかったよ……。辛くて苦しいこともこれから沢山あるけど、二人でならどんな困難も乗り越えられる。まだこれからじゃないか……。これから一緒に色々な思い出を作って、たまには喧嘩なんかして、それでもまた仲直りして、一緒に歳を取って、年寄りになって、そのときに昔話に花を咲かせたりして、色々あったけど出会えてよかったって、お互い言い合いながら、最期を迎える……。その光景がありありと想像できるんだ。現実になるはずだったんだ……〉
古いフィルムが回るように、あるはずのない未来の映像が目の前を次々に通り過ぎてゆく。
それは何事も起こらなかったハッピーエンドの未来。
陽花里と俺と俺たちの子供、家族仲良く暮らしている別世界の物語。
別世界の現実の物語。
子供と仲良く笑い合っている未来の俺たち。
赤ちゃんだった子供が時系列順に大きくなってゆく。
幼稚園、小学生、中学、高校、大人になって子供は結婚して孫が生まれて、ごく普通の人生。
みんな笑い合えている未来。
普通が一番幸せなんだ……。
普通が幸せであることを、ほとんどの者たちはわからないんだ。
それなのに、みんな欲求不満そうに、普通の生活を嘆くんだ。
普通の自分たちがどれだけ幸せ者なのか考えもせずに。
俺は陽花里を抱きしめた。
温かくていい匂いがして、何も変わらない。
ここにちゃんといるんだ。
幻なんかじゃない。
〈これからじゃないか……。まだこれからだったんだ……。おやじと約束したんだ……。きみを絶対に幸せにするって、約束したんだ……。俺にはきみしかいないんだ……。きみがいれば何もいらない……。きみだけがいればそれでいい……。心の底から、きみだけを愛している……。だから……だから……だから〉
陽花里はぐずる俺を優しく抱きしめて、いつものようにしなやかな指を髪に通した。
〈私も、私もあなたを一番に愛しているよ。あなたと子供を一番に愛している。優劣なんて付けられない。私は昔から十分幸せだった〉
俺は陽花里の胸に顔を埋めて、強く抱きしめた。
絶対に放さない……絶対に……。
〈親切な人に助けられて、あなたに出会えて幸せだった。あなたから一生分の幸せをもらった。もうそれで十分だよ。だけど最期にもう一つだけわがままを言ってもいいのなら、子供を助けて欲しい。わがままだってわかってる。無責任だってわかってる。だけど殺したくないの……。あなたと私の子供を殺したくない……。あなたと子供には生きて欲しい……! 私は世界一のエゴイストだ。そういう未来になれば私は世界一の幸せ者なんだから〉
涙が止まらなかった。
認めては駄目だ。
認めては……駄目だ。
なのに――。
〈子供の名前が決まったよ……。やっと決まった。候補はいっぱいあったけど、そのどれも選ばなかった。今思いついたんだ〉
頭の中に突如現れた名前。
もう、この名前しか思いつかない。
これ以上の名前はない。
〈あかり。
認めるつもりなどなかったのに。
仕方がないじゃないか……。
愛する人にあんな顔をされたんじゃ……。
仕方がないじゃないか……。
〈意味は命を繋ぐ。陽花里の命の炎を燈に託す。命の燈火〉
〈うん、素敵な名前。燈、私とあなたの子供の名前〉
陽花里は自分のお腹に手を当てて言った。
〈燈、私たちの元に生まれて来てくれてありがとう〉
俺は陽花里に寄り添い、最期のその時までずっと手を握りしめていた――。
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