第30話 俺といっしょに生きてくれ

 その年は暖冬だった。

 それと関係があるのかはわからないが、雪が少ない年だった。

 年内には雪はかいもく降らず、一月半ばを過ぎても数センチ積もっただけだった。


 テレビでは地球温暖化がどうのこうの騒がれていた。

 自分がまだ子供の頃は地球温暖化など騒がれていなかった気がするが、ここ数年よく聞く言葉だ。


 専門家や国がどれだけ警鐘を鳴らそうと、一般人である俺を含めて市民にはまったく響いていなかっただろう。

 大抵の人たちがそんなものだ。

 自分一人が環境保護に取り組んだところで意味がないと考えている。


 そんなことに取り組んで、一生懸命になって馬鹿だと思われるのが嫌なのだ。

 一生懸命になるのが恥ずかしいという心理が働いてしまうからだろう。

 その付けが回り回って誰かの不幸に繋がることになるなど考えもしない。


 雪が降らないと思われていたためか、スノータイヤに替える人たちがその年は少なかった。

 だが降らないと過信してしまっていた人々をよそに、自然は人々に怒りをぶつけるように牙を剥く。


 一月の終わりに記録的な大雪が降ってしまった。

 夕方くらいに粉雪がパラパラと舞い始め、暖冬だと思われていた冬は一気に冷え込んだ。


 陽花里が体を冷やさないようにストーブを焚き、こたつを点けてこれでもかと部屋の中を温かくした。

 部屋の中はサウナみたいに、空気がくねっているようだ。

  

「寒くないか?」


「大丈夫、暑いくらい。まるでサウナの中だよ。それより名前もう決まった?」

 

 男の子の名前と女の子の名前の候補をいくつか決めていたが、一向に決まっていなかった。

 産まれてくるのが女の子だとわかり、候補は半分に絞られたが、それでも一向に決まらない。


 名前とはその子の一生を左右するものなのだ。

 名は体を表すというから、そう簡単には決められない。

 子供がこの名前で良かったと、心のそこから思ってもらえるような名前を付けてやりたい。

 

「まだ決まっていない。時間の許す限り考えたいんだ」


「まあまだ十分時間があるからゆっくり決めて」


「だけど本当に俺が決めていいのか……。俺にネーミングセンスなんてないぞ」


「私だってないよ。だから一緒。だけど変な名前だったらそく変えてもらうからね」


 変な名前になどするつもりはないが、そういうわけで余計に変な名前にできない。

 時間をかけてでも慎重に決める必要がある。

 何年だって考えていたいが、刻一刻とタイムリミットは迫っている。

 近頃、午後十時には寝るようにしていた。 

 

 早い内から子供のためにも生活リズムを整えておかなければならない。

 十時が迫りそろそろ眠ろうとしたときだった。

 陽花里が激しい陣痛を訴えた。

 想定よりもかなり早く、まったく予期していなかったことで何の準備もしていなかった。


「あ……あなた……。もうすぐ産まれるかも……」


「だ、大丈夫か!」


 俺は何を訊いている、大丈夫な訳ないだろ……!

 どうすれば……どうすればいいんだ……。

 落ち着け、陽花里の方が大変なのだ。


「救急車を呼ぶから、少し辛抱してくれっ」

 

 俺がしっかりしなければ。

 俺は息つけの産婦人科病院に電話をかけて状況を伝えた。

 頭が混乱して語順がバラバラだった気がする。

 

 救急車を手配してくれるという話だったが、雪のため少し時間がかかるという話だった。

 往復を考えると、救急車を待つよりも俺が車を出した方が速い。

 陽花里を後部座席に寝かせて、俺は車を出した。


「大丈夫か……?」


「うん……。もうすぐ産まれるんだよ。この子……。外に出たがってる」


「ああ。もうすぐ会えるな。苦労かけるがもう少しだけ頑張ってくれ」


 夕方から降り始めた粉雪は、俺のくるぶしほどまで積もっている。

 この町の病院には産婦人科はなく、数十キロ離れた病院に通っていた。

 普段なら車で一時間ほどの距離だが、雪のせいでスピードが出せず何倍も、何十倍も遅く感じられた。

 

 後部座席で苦しそうに陽花里が息をしている。

 自分が苦しい訳ではないのに、心臓が早鐘を打ち冷や汗がにじむ。

 外の気温と社内の気温の差異で窓ガラスが曇ってしまう。


「すぐに着くから。もうしばらく頑張ってくれ……」


「うん……」


 山を越えるのは一苦労だった。

 粉雪の肌理が細かく数メートル先すら見えない。

 サーチライトの光が粉雪一粒一粒を照らし出して、まるで生き物のようにうねって、フロントガラスに襲い掛かって来る。


 まだ踏まれていない新雪を踏みしめ、タイヤのわだちを刻んでゆく。

 何とか一つ目の山を越えて、もう一つ山を越えれば目的の病院がある町に着くというときだった。


「うそ……だろ……」


 数十台の車が峠で立ち往生し、赤色灯が白い闇の中に点滅していた。

 何でこんな峠で渋滞なんてしているんだ……。

 それもこんな時間に……。


 クラクションを何度も鳴らしたが動かない。

 クラクションの音が雪に解けて消える。

 しばらくして、前方の車から中年の男が苛立たしそうに降りてきた。


「ちょっと……何度も何度もうるさいよ……。見てわからない。スリップ事故だよ……」


「スリップ事故……。どうして……どうして! どうしてなんだよ!」


「冬用タイヤに替えていなかったかららしい……。一時間以上も待たされて怒りたいのはこっちだ」


「通してくれ、速く!」


「無茶言わないでくれよ……。もう少ししたらレッカー車が来るからもう少し待てよ」


「つ、妻が……妻が……」


「妻?」


 男は後部座席の氷を払いのけて中を覗き込んだ。

 

「産まれそうなのか……」


 俺は今にも泣き出しそうな惨めな顔だったと思う。

 放心状態の俺に男が喝を入れた。


「あんたがそんなんでどうする! レッカー車が来るのを待っている方が遅くなる。ここを引き返して、遠回りになるが山を回るんだ! そっちの方が速い!」


 俺は必死に涙を堪えて、男の言う通り峠を引き返した。

 無我夢中だった。

 急がば回れというように、始めから峠を通らずに少し遅れても山を回るべきだったのだ。


 だが後悔先に立たず。

 こんなことになっているなどわかるはずもない。

 もし神と言う何かがいるのなら、神は俺を嫌っているらしい。


「もう少しで着くから。もう少しだから」


 破水が座席シートを濡らしていた。


「あなた……」


「しゃべっちゃ駄目だ……」


「これだけはお願い……。もし……もし……私にもしものことがあったときは、この子を助けてあげて……」


「もしものことってなんだよ……。もしものことなんてあるわけないだろ……」


 俺がしっかりしなければいけないのに……。

 その言葉を聞いて涙を堪えることができなくなった。


「お願い……。お願いあなた……」


 陽花里は何かを悟っているのだ。

 最悪な何かを……。


「もしものことがあったら、俺はおまえを助ける。陽花里さえ無事なら、また子供は作れるじゃないか……! おまえさえいれば何もいらない……。子供なんていらない。おまえがいてこその家族だろ。俺たち二人だけでも十分に幸せだったじゃないか。だからそんなこと言わないでくれ……」


 最低だ。

 俺は人間として最低のことを言っているとわかっている。

 何も学んでいない。


 今まで何度も自分を最低だと思うことはあったが、今回は今まで生きてきて間違いなく一番最低なことを言っている。

 だが撤回することはしない。

 もしそんな最悪の状況になっても、俺は子供を見殺しにしてでも陽花里を助ける……。


「お願い……お願いあなた……」

 

 俺は返事をしなかった。


「そんなこと言うなって言ってるだろ……! おまえに死なれたら俺はどうやって生きていけばいいんだよ……。身勝手すぎるぞ……。おまえがいなかったら、もう俺は生きられないよ……」


「うん……」


「だから、頼む……。俺と一緒に生きてくれ……」


 もしもの選択など、俺には重すぎる……。

 俺は哲学者でも、政治家ではないのだから、そんな選択を迫らないでくれ。

 いったい何が間違ってしまったのか。

 

 救急車を待たなかったことか。

 ちょっとでも早く着こうとこの道を選んでしまったことか。

 こんなことになるかもしれないと、予期していなかったことか。

 

 日ごろから地球をいたわっていなかったからか。

 俺が良い人間でなかったからか。

 徳を積んでいなかったからか。


 何が何が何が何が何が何が……。

 いったい何が悪かった……!

 病院についたときには想定時間を大きく回っていた。


 すでに赤ちゃんの足が見えている。

 逆子だった。

 様子を確認して深刻な顔で医者が俺に言った。


「最善を尽くしますが……。覚悟はしておいてください……」


 陽花里は手術室の中に消えた――。

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