第27話 これから先、何があろうとも

 陽花里はこの町の中心から離れたところにある、児童養護施設で育ったという。

 どういう経緯でそこに捨てられたのかは本人もわからないそうだ。

 物心ついたときにはそこにいて、幼い頃はそこが本当の家のように思っていて、そこに勤めている職員を本当の親だと思い、お母さん、お父さんと呼んでいたらしい。


 真実を理解するのは小学校に上がってからのこと。 

 決して珍しいことではないのだろうが、実際にそういう人生を送った人物に出会うのは、陽花里が初めてのことだった。

 本人は今でこそ平気な顔をして語るが、そう語れるまでどれほど苦しんだことだろう。


「まあ、今となっては全然気にしていないんですけどね。優しい人たちにも出会いましたし、言い方はおかしいかもしれませんが、そのおかげで今の私があると思っているので」


 俺はまた陽花里を強く抱きしめた。

 幸せにしてあげたいと思った。

 俺にそんなことができるだろうか?


「くるしいです……」


「あ、ごめん……」


 俺は慌てて離れると陽花里は安堵のため息をついた。


「ところですごく部屋の中綺麗にされているんですね。男の人の部屋ってもっと散らかっているのだと思っていました。まあ、人に寄るのでしょうけれど。綺麗っていうか、何もない。まるで引っ越しするみたい」


 部屋の中を物珍しそうに見渡しながら陽花里は言った。

 

「この町を出るつもりだったんだ……」


「出るってどういうことですか? もしかして家のことで忙しいって言っていたのは……。ご両親に何かあったんですか?」


「いや……」

 

 どう説明していいのか困った。

 すべては俺の勘違いで、子供みたいな理由で逃げるように出て行こうとしていただけなのだ……。

 

「やけを起こしていただけなんだ……」


 俺は正直に引っ越そうと考えた理由を話した。

 すると陽花里はお腹を抱え、目に涙を浮かべ笑った。


「アハハハハ。ああおかしい。本当にめんどくさい人ですね。そこまで想い悩む必要なんてないじゃないですか。少し調べればわかることなのに」


 何の反論もできない……。


「じゃあ出て行かないんですよね」


「ああ……」


「良かったです。誤解も解けて。忘れていましたが、これ食べてください」


 陽花里はトートバッグの中からタッパーと、水筒のようなものを取り出して、座卓の上に広げた。

 ご飯と、サバの塩焼き、サラダ、味噌汁。

 どれもまだ温かくて、残り物とは思えなかった。


「いつも夜は何を食べているんですか?」


 味噌汁で口の中の物を流し込みながら答える。


「男の料理って感じであまり上手くは作れないが、自炊はしている。インスタントばかりでは高くつくからな」


「あの、その、たまにですが……その、ご飯、作りに来ましょうか……。嫌でなければ」


 むせて口の中の物を吹きそうになってしまう。

 聞こえていないと思ったのか、陽花里はもう一度言った。


「その、もしよければですけど……。ご飯作りに来ましょうか……」


 その日から、陽花里が週三、四くらいの頻度で夕食を作りに来てくれるようになった。

 ラブコメでよくあるような展開だがこれは夢ではなく現実なのだ。

 愛染堂で働いているだけあって、料理の腕はプロ顔負けで、もうプロと言っても差し支えないほどだった。


 自分だけのためだけに作られた料理。

 他人が、同じレシピで同じ料理を作って差し出してくれたとしても、陽花里の料理かどうかを見極める自信があった。


 それから数ヵ月が過ぎ、お互いの性格や趣向、生活リズムもわかってきて、始めはたどたどしかった生活も大分落ち着いた。

 お互い休みができるとよく遊びに行った。


 車の免許を取得していて良かったと心の底から思ったのはそのときが初めてだ。

 陽花里は今まで修学旅行くらいしか、旅行と呼べるものをしたことがなかったらしく、その埋め合わせをするように二人で、色々なところに行った。


 自分一人ならすることのなかったこと、行くことのなかったところにも行った。

 今まで朝起きて、仕事して、夜眠るだけの人生が華やかになった。

 一人の時はどこに行っても、何をしても楽しいと思ったことがなかったが、陽花里と一緒なら楽しいと思えた。


 生まれてきた訳、生きてきた意味、これから生きる意義がこの歳になってやっと見つけられた気がした。

 俺は陽花里に出会うために生まれてきて、今まで生きてきたのだと。

 

 この広い世界の中で、違う場所で生まれて、違う環境で育って、違う人生を辿って来た俺たちが、今こうして出会えた。

 運命の赤い糸というものは本当にあったのだ。

 

 時間を見つけては、俺たちはよく二人でこの町を散歩した。

 そんなある日、陽花里にリスがいるという小学校横の森に連れて行ってもらったことがある。


「ほら、あれ見てリス」


 リスと言う名前は知っているが、この目でリスを見るのは初めてだった。


「あれがリスか。本当に日本に生息しているんだな」


「そりゃあいるよー。あれはニホンリスってリスだよ。この森に昔からいるんだ。弥紗に教えてもらったの。近くに動物園とかないから、よく弥紗と二人で、見に来たものよ。何時間見ていても飽きないの」


「何時間も見ていればさすがに飽きるだろ」


「飽きないよ」


 そうなのか?

 俺たちは木の上にある巣穴を飽きることなく見続けていると、もう一匹リスが顔を出した。


「夫婦かもね」


「かもな」


「上手く言えないけど、ずっと昔からこの森に住んでいてすごいよね。これから何年、何十年経とうとここにいるんだろうね。いるといいなー」


 そういう陽花里の横顔を見て、突然目の前に陽花里と年老いていく自分の姿が見えた気がした。

 幻にしては、現実味のある幻だった。

 そのときから、俺には“この人しかいない„と思った。

 

 俺は以前よりも仕事に精を出しお金を貯めた。

 今まで意味もなくただ将来のために貯金しているだけだったが、目的ができると貯めることが自体が楽しくなる。


 付き合い始めて一年とちょっとが過ぎたころ、やっとまとまったお金が貯まり、俺はあるものを買った。 

 ロマンティックなことなんて俺にはできない。


 日常生活の延長線上にある、飯食って眠るような、当たり前のワンシーンのような感じだった。

 夕方、陽花里を誘い出し、砂浜に座って二人で海を見ていたとき、俺は何の飾りっ気もなく陽花里に渡した。


「俺と一緒になってくれるか」


 夕日のおかげで顔が赤くなっているのを隠すことができた。

 陽花里はなかなか指輪を受け取ってくれなかった。

 ほんの数秒間のことだったけれど、とても長く感じられて最悪の状況が頭を過る。


「私にこんな日が来るなんて夢にも思っていなかった……。誰かと一緒にいる自分なんて、夢でも考えられなかったの。ずっと一人で生きていくものと思っていたから……」


「俺も同じだよ。俺も夢でも考えられなかった。だけど陽花里。きみと一緒にいる未来なら考えられるんだよ」


「本当に私でいいの……。後悔しない?」


「後悔なんてするはずがない。きみがいいんだよ。きみじゃなきゃ駄目なんだよ」


「こんなに幸せになっていいのかな……」


「どんな人間だって幸せになっていいんだ。幸せになる権利は誰だってあるんだよ。だけどほとんどの人間が幸せになることを恐れて、幸せになることを諦めるんだ。幸せになるには勇気がいるから」


 おぼつかないしゃべり口だけれど、これだけは言わなければならないと思った。


「不幸せになれてしまうと、今度は不幸せでいることに幸せを感じるようになるんだよ。俺もそうだったからよくわかるんだ……。だけどきみと一緒なら幸せになれる。一人じゃ無理だけど、二人なら幸せになる勇気が出せる。俺がきみを幸せにするから、きみが俺を幸せにして欲しい」


 もう二度と言うことのない、一世一代のきざな台詞だった。

 夕日の赤さ以上に顔が赤くなってしまっていると思う。

 だけどそれは陽花里も同じだった。

 俺たちはもう何も隠す必要も、偽る必要もない。


「私があなたを絶対に幸せにしてみせるから」


 陽花里は溜めていた涙を流してそう俺に言った。


「俺がきみを絶対に幸せにしてみせる。結婚しよう」


 これから先、何があろうとも二人でならどうにかやっていける、絶対に――。

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