第26話 想い

 一言出てしまうと、それが呼び水となって溜まっていた想いがすべてあふれ出た。

 泣いていた赤子が聞き慣れない音を聞いて、かたまってしまうみたいに、陽花里はポカンとした顔で俺を見た。

 

「帰ってくれ……」


 謝るつもりなどない。

 悪いなどと思っていない……。

 これで未練もなくなった。

 体にまとわりついていた鎖が断ち切れた気分だ。


「ちょっと待ってください……。いったい何を言っているんですか?」


 陽花里は無理やり扉をこじ開けようとした。

 

「誤解です……!」


 陽花里は見た目からは想像できない力で、強引に扉をこじ開けて玄関に上がり込んだ。


「私、付き合っている男性なんていませんよ……。いったい何の話をしているんですか?」


 いったい何の話をしているのか訊きたいのはこっちだった。

 俺はいったい何の話をしているんだよ……。

 

「付き合っている男がいるんじゃないのか……?」


「いませんよ」


「だって……この前……喫茶店で……」


 パニックになっていた。

 色々なことがとてつもない速さで頭に浮かび上がっては消えてゆき、思考がまとまらない。

 

「喫茶店? ああ、もしかしてひろくんのことですか。違います違います。私と浩くんは付き合っていませんよ」


 ヒロとは喫茶店にいた男のことか。

 

「浩くんはわたしではなく弥紗みさの彼氏です」


 弥紗とは陽花里がよく話してくれる友達の名前だったはずだ。

 昔から仲が良かったという。

 愛染堂の一人娘の……。


 あの男は弥紗の彼氏?

 じゃあ……俺はずっと勘違いしていたのか……。

 ここまで勘違いも度を越すと、もはや病気だ。


 なのにとんでもないことを言ってしまった。

 全身が泡立ち、冷や汗が背中を伝う感覚。

 場を覆っていた雰囲気が落ち着くと、変な空気が俺の陽花里の間に垂れ込める。


「私と浩くんが付き合っていると思われていたから、私は避けられていたのですね。それが知れてやっと納得しました。何か気に障ることを言って嫌われたのではないかと思って、ずっと気になっていたんですよ。嫌われたんじゃなくて良かった。本当に良かった……。だけど、吉良さんは誠実な人ですね」


 一時泣き止んでいた陽花里は思い出したかのようにまた涙を流し始めた。

 

「あれ……何でだろう。涙が止まらない……」


 俺は何て馬鹿なことをしてしまったんだ……。

 勝手に勘違いして、一方的に怒鳴って、俺のことを心配して来てくれた彼女を傷つけてしまうなんて……。

 男として、いや人間として最低じゃないか。

 

「ごめん……。ごめんな……。俺どうかしていたんだ。そう考えたら、そうとしか考えられなくなって……。何言ってんだ俺は……」


 許してもらえるとは、許してもらおうとも思っていないが、酷いことを言ってしまったことだけは謝りたかった。

 

「本当に……本当にごめん……。あんなこと言うつもりはなかったんだ……。自分の鬱憤をただぶつけただけだ。相手が傷つきそうな言葉を選んでぶつけただけだ……。あんな酷いことを言って……」


 謝れば謝るほど言葉が軽くなる。

 陽花里は涙を拭って、あんな酷いことを言った俺にまた笑顔を向けてくれた。


「私は気にしていませんから。誤解が解けたならそれでいいですよ。でも、どうして……私と浩くんが付き合っていると勘違いして……その……そんなに怒っていたんですか?」


 陽花里は涙のためか、照れくささのためなのか赤くなった顔をそむけてたどたどしく訊いた。

 それは……。

 それは――。 


「嫉妬していたんだ……」


 そうだ、俺は嫉妬していたんだ。


「それは……その……どう受け止めたらいいのでしょうか……?」


 全身に力が入る。

 頭の半分では言うなとブレーキをかけているのに、後の半分がアクセルをべた踏みしている。


 今の自分は自分ではなく、何者かに体を乗っ取られてしまっていて、俺の自我は精神の奥に閉じ込められている感覚だった。

 理性ではなく本能が俺を乗っ取ってしまっている。


「い、いつからはわからないけど、きみのことが好きになっていたんだ……。きみの笑顔を見ると胸が苦しくなって……。今までこんな気持ちになったことはなかった。こんな感情が本当にあることすら知らなかった。ずっと物語を面白くするための、フィクションだと思っていた。だけど違ったんだ。俺はきみのことを、好きになっていたんだよっ……」


 呼吸ができなかった。

 一息に言った。

 この世界から消えてなくなりたい。


「私もです」


 陽花里は俺の目を真っすぐに見つめて、続ける。


「私も吉良さんのこと好きです! ぶっきらぼうだけど、本当は優しくて、口下手だけど、それはちゃんと言葉を選んでいるからで、むすっとしているけど、たまに見せてくれる笑顔は素敵で、面倒くさいけど、ほっておけなくて、そんな吉良さんが好きです」


 けなされているのか、褒められているのかわからなかった。

 だけど問題はそんなことではない。

 間違いではない。

 これはつまり……。


「俺なんかでいいのか……? そんな面倒くさい俺なんかで本当にいいのか……?」


「逆に訊きますが、本当に私なんかでいいんですか……? 体も弱いし……。吉良さんが思ってくれているような女でもないし……。それに……今まで話す機会がありませんでしたが……」


 陽花里は言葉を詰まらせた。


「私には親がいません……」


「亡くなったのか……?」


「いえ……子供の時からいませんでした……。私は……その……捨てられたようなんです……。だから私と付き合ったって、親族関係が広がる訳でもないんですよ……。今まで黙っていて、ごめんなさい……」


 その話を聞いて今までの小さな違和感に合点がいった。

 だから、陽花里も自分の過去を余り話してくれなかったのだ。

 昔のお家関係ならともなく、そんな理由で俺は告白したのではない。


「何で謝る必要があるんだよ?」


 きっと幼い頃からそのことを引け目に感じていたのだろう……。

 自分にはあんな母親でもいてくれたから、色々あったけれど心の支えになっていた部分があった。

 だが陽花里にはそんな心の支えがない。


「そんなこと謝る必要もないし、引け目に感じることでもない」


 陽花里の気持ちを思うと、自然と涙が出てきた。

 一人でいるときの心細さを知っているから。

 今まで強がっていたけれど、俺だって一人が怖かった。


 辛くて泣いた夜が何度もあった。

 寂しくて泣いた夜が何度もあった。

 悔しくて泣いた夜が何度もあった。

 

 産まれた環境を何度も呪った。

 だがどれだけ呪ったところで、環境は変わらないし、置かれた環境で生きていくしかない。

 一人の怖さを知っているから、同じように一人を嫌う母親を嫌悪したのだ。


 それを人は同族嫌悪という……。 

 友達はいても、本当の辛さを打ち明けることはできない。

 置かれた状況、環境、境遇が違っても、辛さや気持ちは違わない。

 陽花里も俺と同じだったのだ。


「引け目を感じる必要なんてない。そんなこと俺は気にしないし、そんなことで嫌いになったりしない。今までよく頑張ったよ……。今までよく頑張ったよ」


 それなのに俺みたいに卑屈にならず、いつも明るく笑顔を絶やさない。

 辛かっただろうに……。

 寂しかったろうに……。


 悔しかったろうに……。

 俺には陽花里を抱きしめてやることしかできない。

 埋まることのない虚空を一瞬でも満たしてやりたかった。

 

「もう一人で抱え込む必要ない。俺がいるから。きみは一人じゃない」


 それは自分に言った言葉でもあった。

 陽花里は「うん」とうなずいて、俺の背中に手を回した――。

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