第25話 しがらみも何もかなぐり捨てて

 そう決めても、すぐに去れるわけではなかった。

 荷物はそれほどないので、少し大きめのボストンバッグがあれば事足りるが、済ませておかなければならないことがあるのだ。


 まったく人間の生活は面倒くさいことが多すぎる。

 ただ生きるだけならこれほどシンプルなのに、人間は生きるために生き辛くしてしまう。


 一年間世話になった人たち礼を言い、この町を去ることを伝えなければ。

 今まではそんな気苦労もいらなかった。

 人との関りを持っていなかったからだ。


 長く同じ場所にとどまり続けるとこういうしがらみができてしまう……。

 面倒くさい。

 しがらみも何もかなぐり捨てて、楽になりたい。

 自由に……なりたい……。


 それから数日で俺は荷物をまとめた。

 一人暮らしの男の部屋という感じで、雑誌や缶などが散乱していた部屋の中はスッキリと綺麗になった。

 ごみはゴミ袋二袋にもなっている。

 

 家具などは置いていないため、小物などが片付くと六畳の部屋はこれほど広かったのかと久々に感じた。

 一仕事終えて、俺は少し休むつもりで六畳間の真ん中で大の字になり天井を見上げた。

 

 ネズミの糞尿でできた天井のシミを見るのも、あと数日か。

 糞尿のシミはそのときの気分によって、色々なものに見える。

 天井を見上げていると、ホコリでも目に入ってしまったのか目先がかすんだ。

 

 目を指先でこすると湿っていた。

 どうして……涙……。

 この部屋を、この町を去ることが悲しいのだろうか……。


 そんなはずは……ない。

 今までだって色々な町を転々としてきたが、こんな感傷に浸ったことなど一度もなかった。

 だから、断じて違う。

 

 じっとしていると色々なことが頭に浮かんできて気持ちが揺らいでしまいそうだったので、やるべきことを先に終わらせることにした。


 簡単な物でも作って夕食を済ませようと思ったが、冷蔵庫の中にはわさびやからしなどの薬味しか入っていなかった。

 流し台の下も調べるが、インスタント類もない。


 この町には小さな商店街があって、俺はいつもそこで買い物をしていたのだが、この町を出て行くと決めてから足が遠のいてしまっている。

 そのため、食品の買い足しをしばらくしていなかった。


 何も食べずとも一晩くらいは辛抱できるが、食材が何もないのは明日も同じ。

 どっちにしろ買い物には行かなければならなかった。

 仕方がない、買い物に行くついでにゴミ袋も捨ててしまおう。

 

 俺はフグのように膨れ上がったゴミ袋を持って、家を出ようと玄関に向かった。

 ドアノブに手をかけたそのとき、丁度チャイムが鳴った。

 俺が扉を開けるのとチャイムが鳴るのとは同時だったため、外開きの扉はチャイムを鳴らした人物に直撃してしまった。


「イタっ……」


 若い女性の声。

 俺のアパートに若い女性が訪ねてくるなど、セールスか、怪し気な宗教の介入以外にはあり得ない。

 色気のないことだ。

 わずかに開いた扉から見えた人物を見て、俺はほぼ無意識的に扉を閉めていた。


「あ! ちょっとっ! 閉めないで」


 とっさに指が差し込まれて、俺は慌てて扉を抑えた。

 あと少し反応が遅かったら指を挟んでしまっている。


「あ……いや~……。今日はいい天気ですね。あはははぁ~……」


 いい天気って、もう夕方だぞ……。

 と心の中でツッコミを入れる。

 俺の家に訪ねてきたのは、セールスでも怪しげな宗教介入でもなく陽花里だった。


「何で俺の家知ってるの?」


「おじさんに訊きました」


 おやじは何で知っているんだ……という疑問は解消されない。

 電話帳にも載せていないし、住んでいるところを伝えた記憶もない。


「何かよう……」


「はい、愛染堂で料理が余り過ぎてしまったのでおすそ分けに……。『どうせ大したもん食ってないだろうからな』っておじさんが」


 エスパーか……。

 いやエスパーじゃなくても、一人暮らしの男の食生活など誰でも想像できるか。


「今まで、余った料理を持ってきてくれることなかったよな」


「え……っと……。今日は特別余り過ぎてしまって……。あはははぁ~……。立ち話も何なので入っていいですか?」


 それは俺が言うことだろ……。


「駄目だ。帰ってくれ」


「少し話しましょうよ……」


「帰ってくれ」


「ついでなので、何か困っていることがあったら手伝いますよ。最近家のことで忙しいって言っていましたよね」


「別に困っていることなんてない。帰ってくれ」


 陽花里は話題を探すように、玄関に置かれたゴミ袋を見て慌てて続けた。


「掃除しているんですか。私も手伝いますよ」


「もう終わった。帰ってくれ」


 俺は扉を閉めようとするが、今度は扉につま先を引っかけられて扉を閉めることができなくなった。

 警察の家宅捜索か何かか?


「どうして避けるんですか!」


 突然のその気迫に気圧されて、俺は目を丸くした。

 何ムキになっているんだ……。


「避けてない……」


 嘘が下手な俺は、よく嘘をつくときに眼を背けてしまう無意識的な癖がある。


「何か困っていることがあるんじゃないですか……。一人で抱え込まずに相談してくださいよ……。お見舞いに来てくれたとき私に言ってくれたじゃないですか。『困ったことがあったら何でも相談してくれ。できる限り力になるから』って。吉良さんも困っていることがあるなら、相談してくださいよ……」


「困っていることなんてないって……」


「嘘です……。漁師さんたちに訊きました。最近心ここにあらずって感じで、何か思い詰めているようだって言っていました……。私もそう思います。何か困っていることがあるなら相談してくださいよ……」


「だから別に困っていることなんてないって言ってるだろ……」


「じゃあどうして目が腫れているんですか……?」


 ほんのわずかしか腫れていないが、どうして気取られたのだろう。

 男なら気にも留めない変化……。


「さっきまで眠っていたんだ……」


「どうして最近店に来てくれないんですか……?」


「別に深い意味なんてない。ただ行けていないだけだ……」

 

「じゃあ、何で私を避けるんですか……。吉良さんに嫌われるようなこと私しましたか……?」


 陽花里はひまわりが萎むかのような悲しい顔をした。

 彼女のこんな悲しそうな顔を見ると、胸が締め付けられるように痛んだ。

 

「避けていない……」


 と言いながら俺は目をそらせる。

 嘘をつくときほど相手の目を真っすぐに見つめる方が怪しまれないというが、俺にはできなかった。


「嘘です。嘘です……」


 繊細なか細い声で、彼女は何度も呪文のように繰り返した。

 震えていた声が段々湿っていく。


「私が気に障ることでも言ったのなら謝ります……。だから避けないでください……」


「だから避けてないって言ってるだろっ!」


 完全な逆ギレだった。

 泣いている女性に逆ギレする男なんて最低だ……。

 自分が嫌になる。

 ああっ、もうっ、何もかも煩わしい。

 

「そうだよっ、避けてるよ!」


 嫌われてしまえばいいのだ。

 中途半端に嫌われたくないと気遣っていたから、こんなややこしいことになってしまったのだ。

 もう何もかも壊してしまえば、未練など残らない。


「あんたも男がいるなら、違う男に構うなよっ! 男の家に押しかけてくるなよ! 笑顔を誰彼かまわず安売りするなよ! あんたはそんな安い女なのかよ! だから勘違いされるんだッ!」


 何もかも終わった。

 自己世界の終焉の音が聴こえた気がした。

 ガラスが割れるかのような甲高い音に似た音が聴こえた気がした――。

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