第24話 弱くなってしまった

 愛染堂はまた以前のように、人々の心を温める陽だまりとなった。

 入院していたのが嘘のように彼女は毎日元気で、セクハラ発言をするおっさんたちをあしらっている。

 どうしてそれほどまでに明るくいられるのだろう、と俺は不思議に思う。


 俺が同じ状況に置かれたら、自分の境遇を恨むと思う。

 どうして元気な体に産んでくれなかったのか、と。

 どうして俺だけがこんな目に遭わなければいけないのだ、と。

 

 だが彼女はどんな境遇に置かれても笑顔を崩さないのだろうと思う。

 俺が彼女を神聖視しているのではなく、彼女を見ているとそう思うのだ。

 彼女の笑顔でみんな笑顔になる。


 笑う門には福来る、という言葉がそう言えばあった。

 笑顔の人の周辺には、自然と良い人々が集まるのだろう。

 生まれた境遇ばかり憎んで、いつもしかめっ面している俺のもとに福など来るはずがない、と自分でも思う。


 幸せになれる人とは、彼女のように笑顔を絶やさない人なのだろう。

 俺も彼女と出会ってから笑顔が増えたかもしれない。

 心の底から笑えているのかもしれない。

 

 彼女から幸せを分けてもらっているのかもな。

 彼女と一緒にいるときは、幸せな気持ちになる。

 この感情のことを世間一般では、何と言うのだろうか。


 今まで、こんな気持ちにはなったことはない。

 恋愛をテーマとした物語の心理描写なんて訳がわからなかった。

 ただ物語を面白くするための演出とばかり思っていた。


 だが、演出などではなかったのだ。

 この気持ちを言葉で表現する能力が俺にはないが、彼女を前にすると呼吸が浅くなり胸が苦しくなる変化が起きる。


 緊張と似ているが非なるもの。

 緊張したときの恐怖感はなく、それとは逆に幸せな気分に満たされる。

 この感情が、世間でいう……。


 俺は自分の感情に診断を下して、やっと納得できた。

 俺は彼女のことが好きなのかもしれないと。

 いや、間違いなくそうなのだと。

 この感情が自分の理性によるものなのか、それとも本能によるものなのかわからない。


 俺は彼女のことを欲しているのだと。

 この気持ちをどう処理すればいい……。

 そんな感情を抱く自分が気持ち悪い。

 

 まるで思春期の子供が、性に対して嫌悪感を抱くみたいに。

 母親に寄って来る男を俺は幼い頃から嫌悪していた。

 どれだけ優しそうにしていても、心の中は皆同じことを考えているのだ。


 俺はそのような男たちが嫌いで嫌いで、足でさえも触れたくないと思った。

 だが……俺もあのときの男たちと同じではないか……。

 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……。


 自分のこの感情が気持ち悪い……。

 彼女と一緒にいると気がおかしくなってしまいそうだ。

 もしこの気持ちを抑えられず、おかしなことを起こしてしまったら……。


 九十九パーセントあり得ないと言い切れるが、残りの一パーセントがあるのなら、ないとは言い切れなかった。


 おかしな気を起こさないように、少し距離を置いた方がいい……。

 俺はその日から、少しずつ距離を置くことを努めた。

 週五日通っていたが、徐々に四回に減り、三回に減り、二回に減った。

 

「最近、忙しいんですか?」


 と陽花里が訊いてきた。

 明らかにあからさまなかんじで、俺は距離の取り方が下手くそだった。


「あ、いや……その……。最近お店に来る回数がめっきり減っているので……。忙しいのかな、と……」


「ああ……。家のことで色々と」


 仕事が忙しいと言ったところで、漁師仲間に確認されるとすぐにバレる恐れがあったので、家の都合と言う方が色々と調整が利くと思った。


「そうなんですね……。もし何か手伝えることがあれば、何でも言ってください。何でも手伝いますから」


「きみに言って何ができるの?」


 言ってはならないことだった。

 俺は何イライラしているのだろう……。

 意地の悪い言葉で彼女を傷つけてやりたい、という最低な気持ちになってしまったのだ。


 親切にしてくれているのに、何で酷いことを言うんだ……俺は……。

 謝ることもできず、俺はむすっと押し黙る。

 最低だ。


「えっと……、力仕事とかは無理ですけど、掃除とか……、食事を作ったりとかなら……」


「いいよ。それくらい一人でできるから」


 これではガキだ……。

 小学生くらいの男子は、好きな女子をからかうとよくいうではないか。


「そう……ですよね……。でも何か困ったことがあったら何でも言ってくださいね。こんな私でも少しは助けになれますから」


 陽花里は終始大人の対応だった。

 そんな気まずい日々が続き、俺が愛染堂に行くようになってもうすぐ、一年になろうとしていたある日のことだった。

 

 仕事に行くために毎日、この町に古くからある喫茶店の前の道路を、原付バイクで通るのだが、そのとき陽花里を見つけたのだった。

 信号機にひっかかったときの出来事だった。

 

 喫茶店は全面ガラス張りになっていて、外から店内が見える状態になっている。 

 陽花里はテーブル席に座って、誰かと話をしている様子だった。

 俺は気にしないことにしたが、赤信号がいつもより長く感じられて、陽花里の対称側に座っている人物にチラリと視線を向けていた。

 

 若い男だった。

 俺と同じくらいか。

 この町であんな若い男を見るのは珍しい。


 どうして一緒に喫茶店なんかに……。

 陽花里があんなに笑っているのを見ると、親しい間柄であることがわかる……。

 胸がむかむかした。

 

 どうしてこんなにイライラしているのだろう……。

 笑顔はあの男に限らず誰にも向けているではないか。

 クラクションの鳴る音で俺は正気に戻った。


 軽い渋滞ができていた。

 尾を引かれながら俺はその場を走り去った。

 あの若い男は誰だったのだろう……。


 陽花里は誰に対しても笑顔を絶やさないが、あの男に対する笑顔はいつものと違って見えた。

 ただそう見えただけかもしれないが……。

 一日中そのことが頭から離れなかったせいで、仕事に身が入らず親方から叱られた。


「おい、どうした、ちゃんと巻けよ! そんなんじゃ魚が逃げちまうぞ!」


「はい!」


 頭から振り払おうにも振り払えない。

 俺はとっくにおかしくなっている。

 このかきむしられる感情は何なんだ。


 嫉妬?

 この俺が嫉妬……?

 何に……?

 そんなこと決まっている……。


 この町にいたら心をかきむしられる。

 俺はいつの間にかこの町に縛られてしまっていたのだ。

 今まで同じ場所に長居はせず、気の向くままに各地を転々としてきたではないか。


 あの家の鎖から逃れ、もう何にも、誰にも縛られないはずだっただろ。

 この町だって少し滞在したらすぐ次の町に旅立つつもりでいた。

 なのにどうしてこんな長期間滞在しているんだ。

 

 これ以上この町にいたら、もうこの町から出られなくなると思った。

 気付かぬ間に、鎖が俺の体に巻き付いている。

 このままでは体に巻き付いた鎖のせいで、身動きができなくなってしまう。


 これ以上いては駄目だ。

 これ以上この町にいたら、俺は弱くなる。

 俺は強い、俺は強いんだ。


 母とは違う。

 あの男とも違う。

 俺は二人とは違う、俺は強い!


 独りでだって生きられる……。

 独りで生きられない弱い人間ではない……。

 この町を去ろう。

 これ以上弱くなる前に。


 これ以上自分を嫌いになる前に。

 この町を去ってしまえば、全ての未練を断ち切ることができるじゃないか……。

 もっと早くそうすべきだったんだ。

 俺は一年近くいた、この町を去ることを決めた――。

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