第21話 優しくなれない

 中学二年に上がると俺の暮らしは激変した。

 まず姓が吉良きらに変わった。

 以前の姓に未練がある訳ではないが、男の姓に変わるのは何故かいけ好かなかった。

 

 まるで体の一部を取り替えられたかのよう。

 そしてもう一つの大きな変化、実質的にこの変化の方が大きい。

 男の家に住むこととなった。

 

 大きくはないがちゃんとした家で、建てられてまだ間もないらしく外装に汚れ一つついていない。

 普通に考えればボロアパートから、立派な一軒家に住めることになったのだから、間違いなく玉の輿だった。


 こうでもしなければ、底辺の人間は成り上がれないのか。

 そして最後にもう一つ、男にはまだ幼い子供がいて、俺は必然的に義兄にさせられた。


 男の妻は数年前に亡くなったらしく、子供のためにも母親がいた方が良いと思い結婚を決めたらしい。

 母と男がどのような出会いをしたのかはしらないが、その取ってつけたような理由もいけ好かない……。


 子供はまだこんなに幼いのに、母親を欲しているとわかるのか?

 俺がこの子くらいのころは別に父親がいなくても寂しいとも、惨めだとも、欲しいとも思わなかった。

 この子だってそうだろう。


 この子は父親であるあんたさえいればいい、と思っているかもしれない。

 母親なんていらないと思っているかもしれない。

 ちゃんと子供の意思を尊重しているのか。

 

 ただあんたが一人でいることに耐えられなかっただけだろう……。

 あんたは自分の弱さを隠すために、子供のためと言い訳しているだけだ。

 再婚なんて望まずに、子供を育ててやれよ。

 

 俺なら絶対にそうする。

 母やあんたみたいに俺は弱くない……。

 俺は以前にも増して反抗的になったと思う。

 

 男は誠実で明るく、連れ子の俺にも愛想よく接してくれるけれど、俺は口を訊かなかった。

 普通に考えたら良き義父なのに、俺は何故これほど反抗的なのか自分でもわからない。

 

 完全に悪いのは俺だと自覚はある。

 ただ引くに引けなくなって意地を張っているだけかもしれないし、もっと他に潜在的な理由があるのかもしれない。


 男の子供もすぐ俺に懐いてくれて、よく遊んでくれとやって来た。

 だけれど、俺はその度に跳ねのけて、その子と遊んでやることはなかった。

 心の片隅では、自分よりも幼い子供に嫌がらせのようなことをして、罪悪感を常に感じていた。


 子供には罪はないのだから遊んでやればいいだろう、と俺の良心が訴えている。

 だが意地を張っていた俺は、どう接し方を変えたらいいのかわからず、結局最後まで遊んでやることはなかった。

 

 これでは俺の方がガキだ。

 男の家に来て半年と少しが過ぎた頃だった。

 母が妊娠した。

 

 男は喜びの涙を流し、男の子供は自分に弟か妹ができると大喜びだったが、一人嬉しそうではない奴がいた。

 俺だ。

 俺は欲求不満そうな仏頂面を崩すことはなかった。

 

 誰もが新たな生命の誕生に喜び震えているのに、俺だけは違う。

 喜べない……。

 それどころか産まれなければいいのにとすら思ってしまう。

 

 こんなことを思う俺は血も涙もない悪魔なのだろうか……。

 いつから俺はこんな酷い人間になってしまったのだろう。

 幼い頃はこんな酷い人間ではなかった。


 いったい、いつから、俺はこんな……。

 母は泣きながら言った。

 こんな駄目な私が、幸せになっていいのかな、と


 誰だって幸せになっていいに決まっている。

 幸せになりたければ、幸せになる努力をしなければ幸せにはなれない。

 だが幸せになるのはとても大変で、勇気のいることだから、ほとんどの者が現状維持で我慢する。


 幸せになる勇気がない。

 幸せになるのを諦めると、人は不幸になろうとする。

 昔の母のような状態がそれだろう。


 不幸な自分に酔って行く。

 悲劇のヒーロー、ヒロインに自分を見立てる。

 すべて上手くいかないのは運がないからだ。


 すべて不幸が悪い、環境が悪い、と不幸や環境に責任を押し付けて自分を擁護する。

 この世には幸も不幸も存在しない。

 人間が他者と自分を比較することで、勝手に作り出した幻想なのだ。


 生まれる場所、環境、時代によって幸も不幸も変化する。

 永久不変の幸もなければ、永久不変の不幸もない。 

 実際に、運や環境は信じられない程大きく関係していると思うが、それを理由にして諦めてしまえば、その時点でおしまいだ。

 

 俺は諦めない。

 俺は弱くない。

 いつか、俺は自分の力で幸せを勝ち取ってみせる。

 母は続ける。


「今まで酷い母親でごめんね……。 寂しい想いをさせて、酷いことを言ってごめんなさい……。これからは良い母親になれるように頑張るから」


 勝手だ……。

 あんたは、何から何まで勝手過ぎる。

 俺はイエスのような聖人ではない。

 すべての罪を許してやれるほど優しくはないのだ。


 それからときが流れ、俺にとって実際に血の繋がった妹が産まれた。

 みんなは妹を可愛がったが、俺だけはその仲間に加わることはない。

 産まれるなと思ってしまったことが引け目となっていた。


 穢れの無いその瞳で見つめられ、無邪気な笑みを向けられると顔を合わせることができない。

 家族とはなんだろう。

 血が繋がっていることか?


 血が繋がっていない者同士が家族となるのだから、血の繋がりは関係ない。

 なら心の距離が近いことか。

 家族を定義する明確な境界線などわからない。

 

 だがこれだけはわかった。

 俺は部外者になってしまった。

 自分の居場所はもうないと思った。

 

 今に始まったことではなく、昔からなかったのだ。

 俺はすべてを捨てて、高校入学と共に家を出ることにした。

 学費は男が出してくれるそうだ。

 

 その点でいうなら、俺は恵まれていた。 

 男の力など借りたくはなかったが、俺はまだ子供でかねがない。

 高校に通っていた三年間、俺はバイトをしてできる限り金を作った。

 同年代の子供たちが送るような青春をあえて拒んだ。


 俺は早く大人になりたかった。

 早く大人になって、誰にも頼らずに生きられるようになりたかった。

 長かった高校三年間が終わり、俺は晴れて自由の身になった囚人の気分だった。


 大学に行く金を払ってやる、と男から言われていたが俺は断った。

 今の時代大学を出ていなければ見下されることはわかっていたが、もともとそれほど俺は頭が良くなく、行けてもFランクだ。

 

 それならこのまま就職して、男の頼りにならない方がいい。

 都会では俺を使ってくれるところがないと思い、俺は郊外で就職先を探すことにした。

 自然豊かな場所がいい。


 俺は各地でバイトを転々としながら定住場所を探した。

 一年近くそうして日本各地を転々として、俺は一方を海に囲まれ、三方を山に囲まれた町に辿り着いた。


 夕日が地平線に沈みゆく景色が綺麗で、俺はその町が気に入った。

 しばらくこの町で暮らしてみてもいい。

 まず俺を使ってくれる仕事を探さなければ。

 

 技術や知識のない俺には肉体労働しかない。

 海が近くにあるという安直な理由で、俺は漁師に自分を使ってくれるように交渉した。

 船に乗ったことがなかったので乗ってみたいという、子供っぽい理由もある。


 もし、断られても、土下座でも何でもして、絶対に断らせはしない。

 だが、若い労働者不足で困っていたらしく、二つ返事で使ってもらえることになった。

 始めはそんな軽い気持ちで、飽きたら次の町に行くつもりでいたのだが、いつの間にかその町で暮らすことになっていた――。

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