第三章 俺の過去、そして現在へ

第20話 過ぎ去りし遠い日の思い出

 俺は母親が嫌いだった。

 別に酷い虐待を受けていたとか、酷い育児放棄をされていたわけではないのだが、気が付いたときには何故かそうなっていた。

 

 昔は好きだったのだ。

 だがいつのころからか、そうなっていた。

 嫌いだったが、愛されたいとも思っていた。

 

 それは自分の意思なのか、それとも本能的な衝動なのか、今となってはわからない。

 物心ついたときから俺には父はなく、幼い頃は別におかしいとは思わなかった。 

 なぜ、自分には父親がいないのか考えることもない。


 母に公園に連れて行ってもらったときに、大人の男と遊んでいる同年代の子供を見ても、何も思うことはない。

 そういうものだと思っていた。

 幼い頃は母によく遊んでもらっていたのに、どうして嫌いになったのだろうか。


 安い小さなアパートに母子二人で住んでいた。

 母はパートを掛け持ちして、それでも月、十万ちょっとの金しか稼げなく、家賃や水道費、電気代などの必要経費を払ってしまえば、ほとんど残らなかった。


 そのわずかな金で俺を食わせてくれたが、生活はギリギリで貯金何てできなかったはずだ。

 本当に厳しいときは生活保護を受けて何とか食いつないでいる、惨めな状態。


 学校に通うようになると、色々とそろえる物や、行事ごとに金が要る。

 俺は子供心に無理を言ってはいけないということを理解していた。

 俺が母を護らなければいけない、そう思っていたのかもしれない。


 俺は強がって生きていた。

 強くなければ生きられなかったからだ。

 友達にどうして父親がいないのか訊かれても言い返せたし、何も持っていなくて、馬鹿にされることがあっても気にしなかった。

 

 そうすると俺を馬鹿にする者はいなくなり、空気があるのが当たり前のように俺の存在は確立された。

 俺が小学校三年生になったくらいから、母は少しずつ変わったように思う。


 毎日イライラしているようで、空気がびりびりと、どんよりと重くまとわりつく。

 テーションが高いときもあれば、低いときもある。

 理由もなく泣き出すこともあれば、怒るときもあるし、無感情にもなる。

 

 気分の変動が激しく、病名を付けるなら鬱のような状態だった。

 俺は母の顔色をうかがいながら、言動には常日頃から注意した。

 ちょっと気に障ることを言ってしまえば、しばらくは口を聞いてくれなくなるからだ。


 だから極力、母が家にいるときは外で友達と遊ぶようにしていた。

 一緒にいなければ、母の機嫌をうかがう必要もないし、俺が機嫌を悪くしてしまう心配もない。


 友達に都合があるときでも、一人で外をぶらぶらする。

 そんな日が続いて、母は夜に出かけるようになり、明け方に帰って来るという日が増えた。


 朝帰って来て、パートに出て、夕方俺に飯を食わせると家を出て明け方帰って来る。

 小学校五年にもなれば、他の家庭と、自分の家庭を比較できるようにもなっていて、俺の家はおかしいということは理解していたけれど、誰にも話したことはなかった。

 

 そんなことを話してもおかしいと思われて見下されるだけで、弱みを握られることになるだけだ。 

 我が家の恥を他人に知られるのは、俺のプライドが許さなかった。

 そういう生活が一年くらい続いた。

 そんなある日、母は男を俺に紹介してこういった。

 

「今日から一緒に住むことになったから、仲良くしてね」


 唐突だった。

 四十代くらいのくたびれた男だった。

 母はまだ若くて二十代後半だったと思うから、かなり歳が離れていることになる。

 

 俺は当然嫌だった。

 犬が自分の縄張りに入って来た部外者を嫌悪するのと同じだ。

 だが俺の意思など始めから尊重されるはずもない、一方的な確認だった。


 その日から男と一緒に暮らすことになった。

 母もまだ若い女なのだから、外で男と遊ぶのは仕方がないと、そのころには俺も理解していた。

 だが家に連れてきて、それも一緒に住むのだけは容認できない。


 男はその日から、俺たちが暮らしていた狭いアパートに一緒に暮らすようになった。

 だがそれも半年ほどの短い間のことだった。

 男は母がいないとき、俺に手を挙げるようになった。


 よく聞く話だが、自分の身に実際に災難が降りかかるとそんな言葉で済ませられることではない。

 今回ばかりは誰かに助けを求めなければ、いつか殺されるのではないかと俺は恐怖した。


 だが誰に助けを求めればいいのだろう……。

 母に言ったところで、俺より男の話を信じる可能性が高いだろう。

 頼れる身内など知らない。


 母の両親、つまり俺にとっての祖父母にすら会ったことがない。

 そもそもこの世にいるのかすら知らない。

 近くの人には知られたくない。


 条件だけはいっちょ前で、結局俺は誰にも助けを求めることができずに、できるだけ男から距離を取る選択を選んだ。

 男が家にいる日は、俺は出かける。

 今度は俺が夜、家に帰らない日が多くなった。

 

 上手い理由を付けて友達の家を転々としたり、空き家や公園の遊具の中などに泊り、朝になったら学校に行って給食を食べる。

 そんな日々を過ごしながら半年が過ぎたある日、母は男と突如縁を切った。


 喧嘩別れのような感じで、母が男を家から追い出したのだ。

 それからしばらくは、ストーカーのようにアパートの周辺を男はうろついていたが、怪しい男がうろついているという近所の目もあり、警察も出動して、ぱったりと男は現れなくなった。

 

 しばらくは平穏な日々が続いた。

 家出をすることもなくなり、夜は安心して眠ることができる。

 父親なんていらない。


 今までも母子でやって来られたじゃないか。

 だが母はまた夜出かけるようになった。

 自分の心を埋めてくれる、何かを求める人形のように。


 人間は弱い生き物で、どれだけ強がっていても孤独には絶えられない。

 誰かに存在を認められ、必要とされ、生きていて欲しいと望まれなければ生き続けることはできない。

 存在意義を求めて、その日暮らしの毎日を送る哀れな生物。


 そんな生き物、人間以外にいるだろうか。

 他の動物は、誰にも存在を認められなくても強く生きているではないか。

 そんな強い動物たちの頂点に君臨している、弱い霊長類が人間。


 母は毎晩、自分の存在意義を確かめるように、または自分探しの旅をする若者のように夜に消える。

 俺だけでは駄目なのだ。

 俺では母の存在意義にはなりえない。


 それからときが流れ俺が中学に上がって間もなく、母は二人目の男を俺に紹介した。 

 以前の男より若い、母とそれほど歳が離れているようには見えない三十代後半ほどの吉良きらという男。

 

 くたびれた感じは微塵もなく、服装もしっかりしていて、見た目は銀行員やセールスマンといった印象を見る者に与える。

 以前の男と違い、ガキの俺に対してもフレンドリーだった。

 

 男は「これからよろしく」と手を差し伸べた。

 どんなに雰囲気が良くても、俺はよろしくするつもりはなかったが、母がとなりで俺を睨んでいて、手を差し出さないわけにはいかなかった。


 男と交際を始めてから、俺たちは少し大きなアパートに引っ越しをした。

 その金はどこからでたのかなど、当然決まっている。

 母と男の交際はそれからも続き、俺の中学一年の終わりに、二人は結婚した――。

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