第19話 罪悪感に愛
目が覚めると橙色の斜陽が差し込んでいた。
窓の外を見ると夕方。
いつもなら夕日は好きだけど、今は感傷なんかにふけれない。
一体僕は何時間眠っていたんだ?
椅子で眠っていたせいで背中と首が痛くなっていて、これでよく眠っていられたなと、我ながら感心する。
僕は寝違え気味の首をほぐすためにゆっくりと首をひねると、道を歩いているとき、細長い蛇でも見つけてしまったように、とっさに椅子から飛び上がってしまった。
燈ちゃんのお父さんが僕の斜め前方に座っていた。
「あ、お久しぶりです……」
「お母さんから聞いたのか?」
悪い人ではないとわかっているのだけど、どうしてもこの人の前だと緊張してしまう。
「はい……」
「すまない。練習で忙しいというのに。わざわざ帰って来てくれて。君のお母さんには伝えないでくれと念を押していたんだが……」
「伝えてもらえてよかったです……。燈ちゃん、調子が悪かったんですか? そんなこと一言も言ってくれなくて……」
燈ちゃんのお父さんは眉間に皺を寄せて、しばらく黙っていた。
看護師さんも同じような表情をしていたけれど、どうしてだろう……。
「河原に打ち上げられていたのを、通りかかった人が見つけてくれたらしい……」
「どうして河原なんかに……?」
「詳しいことは目覚めてから本人に確認するしかないが、燈は学校で友達と折り合いが悪かったという話を昨日、燈のクラスメイトから聞いた」
「それって……どういう……」
「学校でいじめを受けていたらしい……」
心臓が収縮して息苦しくなった。
そんなのテレビの中だけで起こる事件ではないのか……。
こんな近くで、それも自分の友達に起こることなのか……。
「そ、そんな話……一言も……」
いつから……。
半年前のあのときから……。
だとしたら、気付いてあげられなかった僕の責任じゃないか……。
全身から力が抜けて、僕は背もたれに全体重を預けた。
「君の責任じゃない……。毎日側にいるのに気付いてあげられなかった俺の責任だ……。昔からそうだった……」
燈ちゃんのお父さんの声が震えた。
こんな弱々しい声を聞くのは初めてで、僕はとっさに燈ちゃんのお父さんの顔を見た。
うつむき、大きな両手で顔を覆っている燈ちゃんのお父さんは、いつもの怖そうな感じはもうどこにもない。
この人も涙を流す、人の子なのだ。
燈ちゃんのお父さんの指の隙間からこぼれる涙を見て、僕はそう思った。
ああ、やっぱりこの人は燈ちゃんの父親なんだな、と本当の意味で理解できた気がした。
昔から燈ちゃんに対する態度が何故かよそよそしくて、まるでよその子と接しているかのように見えていた。
自分の子供を愛していないのかな、と子供心に不思議に思った。
子供を愛さない親なんているはずがない。
両親に愛されて育った僕は、我が子を愛さない親がいることをまだ知らなかったのだ。
だけど現実にはそんな親がごまんといる。
燈ちゃんもそのことをずっと昔から気にしていた。
自分は父に愛されていないのではないか、と。
唯一の家族である父親の話を、燈ちゃんは全然してくれたことがなかった。
昔、一度だけ、燈ちゃんがその気持ちを僕に吐露してくれたことがある。
自分は「父親に愛されていないのかもしれない……」と。
幼かった僕は上手い答えを返してあげることができずに、「そんなことない。子供を愛さない親なんていないよ」とナイーブに答えた。
何の解決にもなっていない。
当たり障りのない答え。
それ以来、燈ちゃんは僕にそれ以上、気持ちを打ち明けてくれることはなかった。
あのとき、もっと、上手いことが返せていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。
「燈……ごめんな……。本当にごめんな。もっとおまえと向き合ってあげられていたらぁ……。俺はずっとおまえと向き合うことから逃げていたんだ……」
燈ちゃんのお父さんの指の隙間から、大粒の涙がぽとぽととズボンの上に落ち続ける。
大人がこれほどまでに泣いている姿を見るのは初めてだった。
「本当にごめんな……。おまえがそのことを気にしていることを、ちゃんと知っていたのに……向き合ってやらなくてごめんなぁ……。怖かったんだ……。おまえに本当のことを打ち明けるのが怖かったんだ……」
この人も燈ちゃんと同じで、ずっと近くにいたのに向き合うことができなかった人なのだ。
家族なのに、いや家族だからこそ本当の気持ちを伝えることができずに、苦しんでいたんだ……。
遠すぎると苦しみに気が付かず、近すぎると気づいていても向き合えない。
人間関係とはハリネズミだ。
寄り添い過ぎれば、棘が相手を傷つける。
離れ過ぎると、孤独で寂しい。
遠すぎず近すぎず適度な距離を取ると、今まで話せなかったことが不思議と話せるようになることがある。
「逃げずに向き合っていられたら、こんなことには絶対にならなかった……。俺は何て弱い人間なんだ……。もう逃げないから、頼む……目を覚ましてくれ……」
だが、ドラマや映画で見るような奇跡は起こらず、無情にも燈ちゃんは眠ったままだった。
再び耳が痛くなるほどの静寂に包まれ、僕は意を決して訊いてみることにした。
「何で二人は仲が悪かったんですか?」
燈ちゃんのお父さんは顔を上げて、みっともない姿を見られたのを恥じるように、脹れた顔をそむけた。
「いや、仲が悪かったわけではないと思っている……」
「じゃあどうして……」
燈ちゃんのお父さんはしばらく考えて、「仲が悪い理由はこれといって見当たらない。今まで一度も喧嘩をしたこともないし、ちょっとした言い争いもない」と答えた。
わけがわからない……。
じゃあどうして、燈ちゃんはずっと悩んでいたんだ。
昔、燈ちゃんに言われた言葉が蘇る。
〈そんなこと言っちゃ駄目だよ……。怒ってくれるってことは愛されていることのイコールなんだよ。愛されていなければそもそも怒ってすらもらえないんだから……〉
あのときどうして、燈ちゃんがあれほどまで怒っていたのかわからなかったけれど、今ならわかる気がした。
血の繋がりとかそういうのではなく、喧嘩したり、ぶつかったりしてこそ家族なのだ。
「一つ理由があるとすれば、俺が壁を作ってしまっていたんだと思う……」
「壁?」
その壁とは手に触れられる物理的な意味の物ではなく、目には見えないし触れられもしない心の壁のことを言っているのだろう。
「俺はずっと燈のことを、心のどこかで憎んでしまっていたんだ……。燈には何の罪もないのに……。完全な八つ当たりだ。当時は陽花里のことしか頭になくて……」
聞き慣れない名前だ。
ひかり……ああ、燈ちゃんのお母さんの名前ではなかったか。
確か陽の当たる花の里という漢字で陽花里だったはず。
「俺は陽花里のお腹にいた燈を、殺すつもりだったんだ」
燈ちゃんのお父さんは自身の過去を僕に語ってくれた――。
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