第15話 変わらないもの

 名鳥くんはあの日を境に練習に本腰を入れたことにより、みるみるタイムが良くなった。

 僕と同じ長距離選手で正直、というより圧倒的に僕より速い。

 ライバルだけど僕たち二人は仲が良かった。

 

 僕の方も練習の成果か、好敵手の登場で練習に力が入っているのか、それとも一歳成長したためかベストタイムをここ数日縮めている。


 だけど全国には僕より速い人が大勢いて、大会ではベスト8に入ることすらできないままだった。

 くよくよすることはない、まだ今からだ。


 月日が流れて、高校に上がってから初めての夏休みに入った。

 一度家に帰省できると思っていたけれど、夏は合宿があるということで帰省は余程のことがない限り許されなかった。


 帰省せねばならない深刻な事情などないので、当然夏合宿に僕は参加した。

 山の中にある旅館を借りて、朝晩上下の激しい山を走り込む。

 山の中は涼しかったけれど、坂が急でふくらはぎがパンパンになる。


 走って走って走って走って、一日三十から多い日で四十キロを走る。

 正直言って、死ぬ……。

 だけどひと夏の過酷な修行のおかげで、僕は確かに成長し実感がある。

 

 一度も帰省することができないまま、僕は二年になった。

 選手としては絶頂期だ。

 後輩もできて先輩としての責任感もかかる。


 結果を出さなければ。

 成績も悪くはない。

 悪くはないが一定ラインを行くと、一秒の壁を越えることはできない。


 やはり努力で到達できる限界はこれまでなのか、とまたまた消極的になって、限界を感じ始めたある日、わずかな休みを利用して一度実家に帰省することにした。

 

 久々に家に帰り出迎えてくれた母は、しばらく見ない間に白髪がちょっと増えたような気がする。

 もう四十代なんだもんな。


「しばらく帰れなくてごめん」


「そんなこと気にしないで。練習大変なんでしょ」


「まあ……」


「昼食べた?」


「いや」


 昼食は実家で食べようと思って、寄り道せずに直接帰って来た。


「よかった、じゃあ少し待ってなさい」


 母は新鮮な刺身や、魚の煮つけ、魚の骨でダシを取った赤だしなどなど、魚尽くしの料理をすぐに持ってきた。

 海が近いだけあって、魚は新鮮。

 すべてうちの食堂の人気料理だ。

 

 久しぶりに食べる実家の味。

 毎日食べていたときは家の味なんて考えたことがなかったけれど、食べられなくなると、実家の味というものが存在するのだという発見ができた。

 

 レシピ通りに作ったって同じ味になるというわけではないのだ。

 不思議だけれど作る人によって味が違うし、実家の味というものはどこの家にだって必ずある。

 

 泣きはしなかったけれど料理を食べると、昔の色々なことが思い出されて感極まった。

 気が付けば大量に出された料理をすべて平らげていた。


「美味しかった」


「おそまつさまでした」


「いつまでいられるの?」


「明日帰るよ」


「一日だけなの」


「うん」


「じゃあ、燈ちゃんに会って来なさいよ。そのために帰って来たんでしょ」


「まあ……それもあるかな……」


 たまにメッセージのやり取りをしているけれど、じかに会うのは一年半ぶりになる訳だ。

 何を話せばいいのだろう……。

 とにかく直接手術の成功を祝わなければ。


 まあ考えるより先に行動しろ、ということで僕は燈ちゃんに帰ってきていることを伝えた。

 家にいてくれるといいけれど。

 燈ちゃんはこの町から一番近い高校に通っていた。

 

 僕なんか比べ物にならないくらい勉強ができるから、名門と呼ばれる高校に行くこともできたのだけど、体が弱いこともあり家から一番近い高校を選んだのだ。


 近いと言っても電車で一時間かかるから、毎日通うのはなかなか大変だ。

 手術して多少良くなったと言っても油断はできない。

 しばらくしてメッセージが帰って来た。

 

 家にいるとのことだ。

 よかった、もし今日会えなかったら次いつ会えるかわからなかった。

 今から家に行っていいか訊くと、なかなか返信が返って来なかった。


 会いたくないのだろうか……。

 なんていう極端な考えに陥ってしまう。

 悪い方に考えてしまうのは僕の悪いところだ。

 

 きっとまだ見ていないか、久しぶりだから燈ちゃんだって恥ずかしいのだろう。 

 そうはわかっていても画面とにらめっこするのを辞められない。

 そのとき返信が返って来て、僕は電話を落としそうになった。


〈待ってる〉


 そういわれてすぐに行くのは無礼か?

 少し時間を置いた方がいいのか?

 京都では約束の時間より遅れて行くのが礼儀だという……。


 以前はそんなことを考えることすらなく、燈ちゃんの家に遊びに行っていたのに、今では失礼ではないかとか、嫌がられないかとか色々と考えてしまう。

 

 僕はいい意味でも、悪い意味でも変わってしまったのだろう。

 海沿いを歩いて遠回りしながら、僕は燈ちゃんの家に向かった。

 海は穏やかでウミネコが海面すれすれを滑走しながら飛んでいる。

 

 何もかも変わってもこの町と、この海と、この空と、この自然は変わらない。

 だけどこれも永久不変ではなくて、数百年単位、数千年単位で移ろい行くもの。

 

 倍以上の時間をかけて燈ちゃんの家に到着した。

 幼い頃始めてきたときは白かった外壁も、少し黒ずんでいる。

 昔は僕の目線と同じくらいにあったチャイムも、今では追い抜いてしまった。

 

 チャイムを押してしばらく待っていると、木製の扉が開いて中から燈ちゃんが顔を出した。

 久しぶりに見る燈ちゃんはまた少し大人びていて、僕の胸はギュッとなる。

 

「久しぶり。突然押しかけてごめん」


「いいよ」


「練習が大変でなかなか帰って来れなかったんだ。少し話せる」


「うん。飲み物出すから入って」


 燈ちゃんは扉を開けて僕を中に招き入れた。

 その場になって僕は思った。

 こういうとき手土産を持参するのがマナーなんだよな、と――。

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