第5.5話 lunch
ゴールデンウィークも過ぎたある日、昼前に立夏の席のすぐ隣のキャビネットに上に肘をついて覗き込む存在がいた。
「立夏ちゃん、お昼一緒に行かない?」
あまりの驚きに立夏はマウスを握ったまま硬直してしまい目の前で手を振られて我に返る。
「ワタシのこと維花に聞いてるでしょ?」
恐る恐る視線をあげると笑顔の美女がそこにいる。元同期の友人だとは恋人に聞いていたが、立夏と直接接触があったのは十日ほど前のほんの一瞬だけなのだ。
「聞いてはいますけど……」
「じゃあ、お昼行こう。大丈夫、ワタシの奢りだから」
そういう問題ではないのだが、と思ったが強引に手を引かれ立夏はついて行くしかなかった。今日は運悪くというか、恐らくそれを狙ったのだろう維花は社用で自社で作業をしている。
こういうところの方が落ち着けるでしょうと、個室のある小料理屋に連れて行かれるが、恐らく夜はそれなりに値が張るだろうと世間知らずの立夏でも簡単に予想がついた。昼は一つしかメニューがないと二人前を注文すると、部屋の中は当然ながら二人きりになる。
「じゃあ改めて、三坂藍理です。辞めちゃったけど。一応維花の同期よ。よろしくね」
「国仲立夏です」
目の前で微笑みながら両手を組む女性の左手にまず目が行く。薬指にシンプルな指輪が嵌められていて、藍理の年齢を考えればおかしくないものだったが、藍理は女性しか愛せないと維花に聞いていたため違和感はある。
「これ、気にしてる?」
あまりにも立夏がじろじろ見過ぎてしまったのだろう藍理が左手を持ち上げ、手の甲を見せる。
「その……女性のパートナーがいると聞いたので」
「うん。そのパートナーとの結婚指輪だから。会社でも女性のパートナーがいて事実婚状態だとは公表してるしね」
さらっと言ってのける存在に、立夏は羨望を感じる。維花と立夏は同じ会社ということもあり、流石に周囲が気づかれるようなことはできなかった。
「羨ましいって顔してる。可愛いな、立夏ちゃん」
「…………」
「ごめんごめん。維花からさらっとつきあってる話は聞いてるから、緊張しないで」
「はい」
「どう? 維花との同棲生活」
「今で半年くらいですけど慣れたと思います。一緒に住む前の維花さん、寝袋で寝てるとか言っていたので不安でしたけど、ちゃんと布団で寝てくれてますし」
「そのハードル低すぎでしょ。あの子はほんと自分自身には無頓着だから。やばすぎるってよく逃げなかったね、立夏ちゃん」
「絶対別れないでって何度も念押しされていたので」
それに藍理はまた笑い、途中で口元を手で覆ってしまうが、更に笑いは続いている。
「ワタシも維花が女の子とつき合ってるって聞いた時はびっくりしたけど、しっかりしてそうな子で良かったわ」
「しっかりしてそうですか? 私」
「いろいろ世話焼いてくれるって維花がいっぱい惚気てくるから」
「…………維花さん、やめてって言ったのに」
「まあそう怒らないであげて。ワタシは維花の前の恋人も知ってるけど、その時の維花は告白されたからつき合ってるだけみたいな感じだったから、維花も変わったなって思ってる」
「維花さんの前の恋人って男性ですよね?」
「食いついてきた。そう。別の拠点の同期で営業やってたけど、もう辞めたらしいね」
にやにやしながらやっぱり気になるよね?と聞かれるが、興味がないわけがなかった。維花に聞いても大抵はぐらかされるが、その情報を持っている存在がいるのだ。聞く恥ずかしさよりも先に知りたい欲が勝る。
「どんな人でした?」
「普通かな。ワタシは男の採点厳しいから、点数つけるなら20点だけど」
普通と言いながら、藍理の評価は100点満点中ということだろうかと思うくらい低い。
「その人以外は他に維花さんに恋人がいたことはないんですか?」
「大学時代にちょっとつき合った人はいたって聞いたことあるくらいかな。気になってたんだ、維花の過去の恋人」
「どうして私がいいって言ってくれるのか不思議なくらい素敵な人なので」
頬を染めた所で失礼しますと声が掛かり、二段組みの重箱が二人の前に並べられる。
食事を取りながらにしましょうと藍理に勧められて立夏は箸を握り、一口運んでその繊細な味付けに驚く。
「美味しいです」
「でしょう? 維花とも来たことあるんだけど、立夏ちゃん連れて来たいって言ってたよ」
「それを出し抜いちゃったら維花さん拗ねますよ」
「知ってる。そうやってからかうのが面白いから」
藍理の性格が立夏はなんとなくわかった気がした。
美人で男性からの誘いは引く手数多なのに全く興味がなく、パートナーを守る力を持っている強い女性。維花は自分が強くあろうと虚勢を張っている部分があるが、この人はぶれない強さを持っていて、だからこそ魅力的なのだろうと感じる。
この人が押せば維花は落とせたのではないかとさえ感じたが、流石にそれは口にしたくなかった。
「三坂さんのパートナーってどんな人なんですか?」
「藍理でいいよ。三坂って呼びにくいのよね。なつきは、真っ直ぐで真面目でワタシのことしか考えてない子かな」
「言い切るんですね」
「自信あるから」
にこっと微笑まれ、それ以上を立夏には突っ込めなかった。
「私もそんな風に維花さんと長く居続けられるんでしょうか」
「それは自分たち次第じゃない? 迷うなとは言わないけど、くだらない理由で迷って手を離しちゃうくらいなら、手はしっかり握っておくものよ」
「……それは藍理さんの実体験ということでしょうか?」
「秘密」
こんなに強く見えるのは、強くなるだけの理由が恐らくあるというくらいには立夏も大人にはなっている。
「で、立夏ちゃん最近維花のコーデしてるでしょう?」
「わかりますか?」
一緒に暮らすまでは私服だけだったが、なんだかんだと休日は一緒に行動することが多く、最近はスーツ選びも一緒にするようになっていた。
「維花はワタシが教えたブランドを忠実に守っていたから、最近変わったなって思ってたのよね」
「すみません」
「別に気にしてないから大丈夫。年を重ねれば着るブランドも変わって当然なのに、ほんとバカの一つ覚えだったから丁度良かったわ。でも、立夏ちゃんわざと地味めなスーツ選んでるでしょう?」
落ち着いた組み合わせを意図的に選び、過剰に好意を抱かせないようなスーツを着て貰っていることは事実だった。逆に私服は維花を最大限に格好良く見せるコーディネートを心がけている。
「維花さんを信用してないわけじゃないですけど、変な人には近寄って欲しくないので」
「独占欲強いなぁ、立夏ちゃん」
「だって維花さん元が良すぎるんです」
「大丈夫、その分マイペースすぎるから、つき合ってあげられるの立夏ちゃんくらいよ」
「藍理さんだってつき合いたいって思ったことありますよね?」
この人なら大丈夫だろうと、立夏はこっそり思っていたことを尋ねる。
「……隠しても仕方ないか。維花が猫被っていた頃にね。でも今の維花じゃないからノーカウントにしておいて」
「今後も手を出さないでいただけるならいいですけど」
「はっきり言って今はただの友人としか見てないから。ワタシにはなつきがいて、維花にはあなたがいる。それを壊すほどバカじゃないでしょ、お互い」
にこっと笑われて立夏は渋々了承を返していた。
この人は維花に再び近づくことはないだろうと今日は少し確信ができた。それだけでも大きな成果だ。
「はい」
「維花ってほんと思うまま行動するから、立夏ちゃんがそのあたりも含めてきっちりコントロールするといいわよ。立夏ちゃんはできる子だって思ってるから」
経験数が違い過ぎて藍理には全く太刀打ちできないと感じていたが、それでも自分たちの背を押してくれる人がいるのは少し嬉しいと感じていた。
「できるんでしょうか、私にあの自由すぎる人を」
「そんな維花がいいんでしょう?」
惚れた弱みだと、立夏は肯きを返していた。
その夜。
「今日は藍理さんにお昼ご飯に誘われました」
後々ばれるというか藍理から維花に伝わるよりは、と立夏は帰宅した維花に一番にそのことを伝える。
「藍理と? もう、藍理は……ごめんね。びっくりしたでしょう」
立夏に顔を近づけた維花は、ごめんねと繰り返しながら立夏の頭を撫でる。
「びっくりしましたけれど、憎めない人ですね藍理さんって」
「藍理、人たらしだしね」
「ぽいですね」
「ていうか、余計なこと言ってないかな、藍理」
「維花さんが昔同期とつき合っていたっていうのは聞きました。大学時代にもつきあっていた人がいたとか」
「…………もう」
瞑った目の目頭を手で押さえる維花は、どうやらあまり触れて欲しい話題ではなかったらしい。
「私も過去に恋人はいたので、そこまで気にしてないですよ。維花さんにもそういう頃があったんだなって思うだけで」
「あの頃はわたしであってわたしでなかった」
「そこまで言わなくても」
維花の様がおかしくくすくす笑っていると、ぎゅっと抱き込まれる。
「人と同じことをしないといけないって思い込みでしかつき合ってなかったから、本気で好きになったのは立夏ちゃんだけだから」
「ありがとうございます。じゃあ、着替えてきてくださいね。ご飯食べましょう」
「その前に何か忘れてない?」
にこにこと微笑むその人は、それでも立夏を離さない。そういうことか、とつま先を立てて立夏は維花の顔に自らのそれを寄せてキスをした。
「お帰りなさい、維花さん」
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