添い寝
逃げ出す方法がない。
俺はその事実に、苦い顔をするしかなかった。
窓は存在するが、俺が抜け出せるほどの大きさはない。カーテンのようなものを掛けられているため、外の様子を伺うこともできなかった。
頼みの綱である携帯だが、……実は俺、携帯を持っていないのだ。月々の料金とかバカにならないからな。節約のために、携帯は所持していない。
どうしたものだろうか。
結局、解決策を見つけるよりも先に、風呂上がりの桜咲が戻ってきた。しっとりと水気を含んだ髪が、肌に張り付いている。妙に艶めかしいその様子に、俺はごくりと生唾を飲み込むと、視線をあさってに逸らした。
「さて、そろそろ寝ますか?」
二十二時になったか、なってないかの時間帯。寝るにはまだ早いが、これ以上起きていても仕方ない。
「ああ、てか、明日になったらちゃんと帰らせてくれるんだよな?」
「風下くんの死相が消えれば、です」
「それは困る。明日はバイトがあるんだよ。だから……」
「命よりもアルバイトの方が大切ですか?」
「金稼がないと生きていけないだろ。繰り返しになるけど、俺は死相なんて信じちゃいないんだ」
「私、嘘はつかない主義ですから。風下くんの顔には死相が見えます。消えるまではこの部屋で私と一緒に居てください」
まっすぐな穢れのない瞳。冗談で言っているわけではないのだろう。
だが、それでも、死相なんて話を信じられるわけがない。俺は小さく嘆息する。
特に言い返すことはしなかった。これ以上、この話をしても平行線だと思ったからだ。
わずかな沈黙の時間を経て、俺は自分の肩を揉みながら切り出した。
「てか、寝るって言っても、俺椅子に座らされながら寝るのか? それは勘弁してほしいんだけど」
「ちゃんとベッドで眠ってもらうので大丈夫ですよ」
「そうか。ちょっと安心した」
「はい、じゃあ、歯磨きしましょうか」
桜咲は俺との距離を詰めると、慣れた手つきで手錠を嵌めてくる。俺が安堵して気を抜いた瞬間を狙った見事な犯行だった。感心してる場合じゃないね。
「歯磨きだよね? これいらないと思うんだけど」
「風下くんが逃げ出さないためです」
「さっきまで散々自由な時間あったのに逃げてないだろ……大体、暗証番号が分からない以上、逃げ出す方法がないっての。てか、これじゃどうやって歯を磨くんだよ」
「私が歯を磨いてあげます」
「は? いや、だ、だったら、歯を磨かなくていい! もう寝るから!」
「ダメです。そういう怠慢が虫歯の原因になるんですから」
「あ、ちょ、え、まじですか……」
桜咲はどこからともなく、歯ブラシを取り出すと、俺の口元へと近づけてくる。
「はい、あーん」
抵抗もむなしく、桜咲に懇切丁寧に歯を磨かれる俺だった。
★
……プライドがそこはかとなく傷つけられた気がする。
歯科衛生士の人に歯を磨かれるならいざ知らず、クラスメイトの女の子に歯を磨かれるという、稀有なシチュエーションを経験した俺は、心身共に疲弊した。
特に、歯を磨きうがいした後に口元を拭かれるのが、屈辱的で、それでいてドキッとさせられた。
すぐにでも寝て、体力の回復を図り、今日の記憶を抹消したいところ。
歯磨きを終えた後、早速ベッドがあるという部屋に移動する。と、桜咲は俺から手錠を外した。
寝るときまで、両手の自由を奪う気はないらしい。ホッとした。
しかし、安堵する以上に、俺は気にかかる点があった。
「なんで、ベッドが一つしかないんだ?」
近くに布団もない。一人用にしてはやや大きめのベッドがあるだけだった。
「寝ている最中に風下くんが、逃亡を図る可能性を危惧しました」
「まさか一緒に寝るとか言わないよな?」
「この状況でそれ以外、何がありますか?」
「い、いやいや、それは本当に度が過ぎてるって!」
よく見れば、枕が二つベッドの上に置いてあった。
冗談で言っているわけではないようだ。いや、これまで桜咲が冗談を口にしたことはなかったな。しかも、毎回毎回、それをキチンと履行していた。
「どうしても拒否するのであれば、椅子に座った状態で、手足を縛らせてもらいますが」
「そ、それは……っ」
そんな状態で寝れば、身体を崩してもおかしくない。明日はバイトがあるし、身体に不調が起こるのは避けたい。
俺は下唇をかみしめると、ぐっと眉間に皺を寄せる。
覚悟を決めるしか、ないか……。
「どうしますか?」
「べ、ベッドの方で」
「了解です。ではそこに寝てください。電気消しますので」
「お、おう」
言われるがまま、ベッドに向かい、枕に頭を置いて布団を身体にかぶせる俺。
桜咲は電気を消すと、俺の左隣の枕に頭を預けてきた。俺と一緒に眠ることに抵抗感とかないのだろうか。そういえば、俺と桜咲は運命の赤い糸で結ばれているだとか、なんとか言っていたよな。いや、今それについて掘り返すのはやめよう。
変に意識してしまいそうだ。
「おやすみなさい風下くん」
「あ、ああおやすみ」
……桜咲の声を耳元で感じる。
鈴を転がしたようなきれいな声色。落ち着いた息づかいが聞こえてくる。
やばい。絶対寝れないやつだこれ。
俺はせめてもの抵抗に、右側に寝返りを打つ。桜咲に背中を向けている状態なら、まだ冷静でいられそうだ。……と、思った矢先だった。
背後から、桜咲が俺に密着してきた。
「……っ、さ、桜咲……?」
「こうしておかないと、風下くんが逃げるかもしれないので」
「に、逃げないって」
「……」
「え? 桜咲? お、おーい」
「……」
桜咲からの返答がない。名前を呼んでみるが、特に言葉は返ってこなかった。
やがて、心地よさそうな吐息だけが聞こえてくる。まさか、寝たのか?
どんだけ寝るの早いんだよ。てか、この状態で寝れるか普通……。
俺は、胸の奥から熱を上げると、必死に素数を数え始める。椅子の上で拘束されていた方が、マシだったかもしれない。
俺は、1が素数に入るのか入らないのかを、記憶の引き出しから探しながら、理性を保つので精一杯だった。
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