お風呂

「風下くん」


「は、はい」


「さっき見たものは可及的速やかに忘れてください。でなければ、私は風下くんの記憶が吹き飛ぶまで背負い投げすることになります」


「そんなことされたら死んじゃうよ俺……」


 てか、死相の原因それなんじゃないの? 

 俺、今日、桜咲に殺されるんじゃないの? 


 そう考えたら、急に怖く……はならないな。やっぱり、俺はオカルトは否定派だ。

 死相なんてものを信じられるほど、俺の頭はお花畑ではない。


 さて問題なのは、これからのことだ。

 これから、俺と桜咲は一緒に風呂に入る。


 トンデモ展開にも程があるが、桜咲の意思は固いし、もう風呂に入る準備をしてしまった以上、後には引けない。


 さっそく風呂場に入ると、俺は風呂椅子に座るよう促された。どうやら、先に髪を洗う権利をくれるようだ。……と、思ったのだが。


 ──ガチャっ


「え?」


 嫌な予感がする効果音とともに、俺の両手に何かがくっつけられる。俺の隙をついた見事な手際だった。いや感心してる場合じゃないな。


「風下くんが良からぬことをするかもしれません。なので、両手の手錠で封じさせてもらいました」


「何もしないし、そんな不安があるなら一緒に入らなきゃいいだろ?」


「それだと、お風呂場からの脱走を図る可能性があります」


「だからしないって。てか、これじゃどうやって髪とか洗うんだよ」


 俺と一緒に風呂に入ることで、心配な側面があるなら絶対に一緒に入るべきではない。両手を封じるという解決策は、めちゃくちゃにもほどがある。


「問題ありません。私が風下くんの髪を洗います」


「は?」


 俺がポカンと口を開ける中、桜咲はシャワーを出すと俺の頭部めがけて浴びせてくる。


「え、じょ、冗談だよね?」


「ジッとしていてください」


 桜咲は、俺の髪の毛に触れると、お湯に馴染ませるようにやさしく揉み始める。

 俺の手とは違う柔らかい感触。丁寧にもみほぐされ、皮脂が洗い流されていく。


 床屋で男の人に髪の毛を洗われる経験はあったが、女……それもクラスメイトの女の子から髪を洗われる経験は初めてだった。普段よりも感度が上がり、俺は身体を縮こめてしまう。


 緊張で心拍の上昇が止まらない。だが、一つだけ言えるのは、自分で髪を洗うのとは違い、心地が良いことだ。だから、自然と抵抗する気も失せて、桜咲にされるがままにされてしまう。


 シャンプーにトリートメントまでしてもらうと、ようやく桜咲は俺から手を離した。


「かゆいところはないですか?」


「聞くタイミング間違ってない? 髪洗いながら聞くやつだろそれ」


「ではまた洗い直します」


「いや、しなくていいから。かゆいところも特にないし」


「そうですか。じゃあ、次は身体ですね」


「や、さすがに身体は……」


 身体となると、髪の毛以上にセンシティブな場所だ。いくらなんでも、それはやり過ぎである。


「わかっています。タオルで隠されているエリアは、触りませんから」


「そういう問題では……」


「じゃあ全身くまなく洗った方がいいですか?」


「それはやめて!」


 俺は桜咲の暴走を止めるべく、咆哮する。

 しかし、桜咲はハンドタオルにボディソープを染みこませると、揉み込んで泡を立て始めた。


「ほ、本気でやるのか?」


「はい」


 桜咲は、一切の逡巡を含まずにハッキリと頷く。

 ハンドタオルを、俺の背中に押し当ててきた。程なくして、背中に強烈な痛みが走る。


「いっ!」


「大丈夫ですか?」


「ちょ、ちょっと力入りすぎじゃないか?」


「ごめんなさい。経験がないので、力加減を見誤りました」


 俺が痛みに顔をゆがめると、桜咲が申し訳なさそうに頭を下げてくる。

 と、今度はタオルとは違う感触が背中を襲った。


「……ひっ」


「まだ痛いですか?」


「い、痛くはないんだけど、タオルはどうしたの?」


「タオルだと力加減が難しいので、素手でいこうかと」


「お願いなのでタオルを使ってください」


「安心してください。絶対に痛くしませんから」


「いや、別のところが安心できないというか」


「……?」


 桜咲が、小首をかしげて疑問符を浮かべる。

 俺の言いたいことは伝わっていない様子だな。まぁ、伝わっても困るが。


 女子の手が俺の身体を直に触ってくる。そもそも、女子と一緒にお風呂に入っている。そんな非現実的な状況で、理性を保つ難易度の高さわかるだろうか? 


 ある種の拷問だぞこれ。


 桜咲は、そんな俺の心情を理解するよしもなく、再び素手で俺の身体を洗い始める。俺は脳内でお経を唱えて、雑念を振り払うことに必死だった。



 上半身をくまなく洗い終えると、桜咲は、すっくと立ち上がった。


「あとは風下くんが自分でやってください」


「手錠つけられた状態でどうしろと?」


「もちろん外してあげます」


「最初からそれでよかったと思うんだけどな」


 絶対それでよかったと思う。仮に俺が、欲情して本能の赴くままに桜咲に襲いかかったところで、返り討ちに遭うだろうしな。


 俺が両手の自由を確保した安堵に浸っていると、桜咲が浴槽へと移動して体育座りをした。お湯は張っていない。


「一分間目をつむっているので、その間に身体を洗ってください」


「あ、おお」


 目をつむってたら見張りの意味ないんじゃ……と思ったが、余計なことは言わない方がいいだろう。

 桜咲が瞑目したのを確認して、俺は下半身を洗い始める。お湯でボディソープを洗い流すと、桜咲に声をかけた。


「終わったよ」


「そうですか。では出てってください」


「え? いいの?」


「はい。これから私が身体を洗うので、風下くんに見られるのは恥ずかしいです」


「今更恥じらいをもつのか……てか、俺が出てっていいのかよ?」


「そんなに私のお風呂場での様子を観察したいですか?」


「……ッ、ち、ちがッ、そんなつもりで言ったわけじゃないから!」


 俺は、赤くなった顔を隠すと、そそくさと風呂場を後にする。

 足拭きマットの上に足を置くと、近くに置いてあるバスタオルで身体を拭いた。


 茶色のカゴの中を覗くと、男物の服が用意されていた。これに着替えろってことかな。


 桜咲に一言断ってから着替えるべきかと思ったが、絶賛シャワーの音が流れているお風呂場に向かって声を上げる勇気はなかった。

 着替えを済ませると、俺は扉の外に出る。と、そこで一息つくと、早速出口へと向かった。


 くくく、桜咲め。何を考えているのかわからない女だが、ここまでツメが甘いとはな。


 桜咲が風呂場にいる以上、俺は監視の目もなく逃げ出すことができる。このチャンスを逃すまいと、早速ドアノブに手をかけ──


「暗証番号式じゃねぇか」


 すぐに挫折した。

 暗証番号式のキーレス錠。0~9までの数字と、アルファベットABのボタンがついている。何桁の暗証番号か不明である以上、無限に等しい組み合わせが存在する。


 扉はずっと俺の死角にあったし、唯一逃げるチャンスがあったときには、すぐに背負い投げをされたため、鍵を観察する時間がなかった。


 俺は額を右手で支えると、重たい吐息を漏らした。これ、いよいよ壁壊すとかじゃないと、逃げ道ないじゃねぇか……。

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