第177話


「……エンッ?! エン!? “どうしたの”?!」

『――ン。……ええッ?! カノンッ! 血! 血! 血が出てる!』


 何が起こったのだろう。祭壇の間の床に寝かされていた俺を、覗き込むようにしていたカノンの胸元が血に染まっていた。


 俺は咄嗟に上体を起こし、横になれるようにカノンの肩を掴み、こちらへ引き寄せたのだが、目を合わせたカノンの表情は、苦痛に歪むものでなく、瞼を瞬かせる驚きのものだった。


「……えっ? これは“エンの鼻血”よ? ……あぁ、良かった。……血が消えてる……」


 そのカノンの反応を見て、今度はこちらが同じような反応をしてしまった。一体全体何が起こって、どういう訳かを整理している間にも、カノンは胸を撫でおろして安堵の息をついていた。


 俺はどうやら、あまりにも突然のことに、気が動転してしまったようだ。


 周囲の反応を見てみても、ビビ達が裏切った訳ではないことが分かった。気が付いた時には、カノンの必死の呼び声が聞こえたものだから、慌ててしまった。何かしらの事態が生じ、気絶してしまっていたものかと考えていたが、それも違ったようだ。


 恐らくは、この状況と、この脱力感にも似た感覚から察するに……


『……って、ことだよね?』


 ビビの問いかけの記憶が最後だ。その記憶から、寝かされるまでの間がない。つまり、俺が【リウィンド】を使用したのだろうという答えを導き出した。その問いを、カノンに投げかけてみれば、肯定の頷きが返ってきた。


『……ってことは、そういうことか……』


 消したいと思うほどの過去だったようだ。それは皆の表情を見ても、疑う余地のないほどに窺い知れた。安心の声やら心配の声を掛けられはするが、言葉選びに迷ったり、敢えて黙していたりと、その反応は芳しいものではなかった。


 聞けば、まだ1部だけ、俺の前世の記憶を見ただけのようだ。


 何を見たかまでは聞くことをしなかったが、どこまで見て、話が進んだかの確認をする必要があった。皆に説明を求めると、ビビが引き取り、聞いても差し支えなく、当たり障りのない、上手い具合の言い回し方で伝えてくれて助かった。


 先ほどからの違和感、慰みのような目は、気のせいではなかったらしい。


 今の俺に取って見れば、まるで記憶にないから、そんな目を向けられても困るだけだ。皆に、やんわりそう伝えると、それもそうか、というふうに理解を示してくれたようだったが、しかし、浮かべた笑顔はぎこちないものだった。


 真実を目の当りに出来ると言う2部へ移る前に、ビビからの提案があった。


 それは、俺以外に自らの過去を見たい者がいるかという問い、そして、もしいるのならば他者の過去を覗けば、俺の過去がどういったものだったかを今以上に知ることが出来る、というものだった。


 少しばかりの沈黙、そして、レオンが意を決したように手を上げた。


 しかしながら、見たいか見なくないかで言えば、見たくはないらしかった。訳を聞けば、俺の過去だけを見て知っているのは不義理に思う、というようなものだった。だから俺は、記憶を消す手段がないのを理由に、止めるように説得した。


 すると結局、全員が全員、辞退することになった。


 それだけ、俺の過去が苦々しいものだったということだ。顔や名前を思い出してしまうだけでも、現世における影響は計り知れないものがあるだろう。現状、満足とはいかずとも、納得できていれば、急いて知る必要もないという結論に落ち着いた。


 オーエンは、オーエン。


 そんな皆からの言葉が有難かった。前世の俺の顔と名を知った上での言葉だ。皆が今の俺を受け入れてくれているのなら、俺はそれだけで十分満足だった。そりゃそうだ、と俺が返事をすれば、皆いつも通りに笑ってくれるようになった。


 不安も少しは薄らいだ。


 話の整理も済んだところで、2部への話題に切り替わった。すると、映像を見るのではなく、ビビの口から伝えてもらえないかと皆からの反対の声が上がった。しかし、ビビは、俺の過去を覗いたのならば、意味を知るために見るべきだと言った。


 2部は、女神様の記憶らしい。


 神の記憶なんてものを覗くことが出来るのかと実際のところ半信半疑であったが、そこに眠る女神様の記憶を調べることも、ビビの仕事のうちの一つらしく、どうやら冗談で言っているようではなかった。


 真新しい方の記憶である俺とのやり取りを見つけるのは、容易かったようだ。


 そんな説明をされている内に、まだこちらがどうするとも言っていないのに、ビビは有無を言わさぬといわんばかりに、映像を流し始めた。何がそうさせたのかは分からないが、何かに衝き動かされているみたいだった。


 映し出された光景は、宇宙空間のように見えた。


 天体に浮かぶ星を呼び寄せるところからだった。ぼんやりとした輝き、その女神様の掌に浮かぶ小さな光が、人の魂そのものだそうだ。じっと動かず、他の魂よりも輝きも薄い。そんな小さな魂を女神様は大事そうに両掌の上に抱えた。


 言葉はないが、その魂は握り潰されることを望んでいた。


 首振り悲し気に、何故と問う女神様の掌に何度も体当たりし始めた。周囲の魂は、女神様に近づこうともせず、漂っているばかりなのに、その魂は自らを消し去ってほしいと願うためだけに、女神様へと向かって飛び込んでいったようだった。


 一柱の神と一柱の魂は、そこで出会った。


 女神様は、星を繁栄に導く魂を探していた折、どの魂よりも脆弱そうな掌の上の魂と出会ってしまったようだ。そのか弱く、嘆きに満ち溢れた、救いではなく消滅を願う魂を、捨て置くことが出来なかったのだろう。


 その魂こそが、俺の魂だった。


 なんとも言い難いが、魂というものは願望に忠実なのだろう。理性や本能による縛りがないからか、緩いせいなのか、ありのまま過ぎるほどに感情を露にしているようだった。それだけ、前世が辛いものだったのだと、改めて自覚した。


 光が、魂が、集まってきた。


 女神様の掌の上で駄々を捏ね、泣き叫んでいるのだろう魂の声を聞いたその他の魂が、様子を伺うように近づいて来た。それまでは女神様の周りに近づこうともしていなかったというのに、周辺に集まるどころか、掌の周りを幾つもの魂が漂い始めた。


 次の瞬間、周辺の魂が消えた。


 場面が変わったらしい。ビビ曰く、半年ほどの時が過ぎているようだった。他の魂は既に興味を失い、離れて行ってしまったそうだが、女神様だけは離れずにいた。その間もずっと話を聞いてくれていたようだ。


 女神様は、魂が願う度に、首を振っていた。


 俺の魂ではあるが、いっそのこと消し去ってしまうか、記憶を消してしまうか、浄化されてしまうほうが、慈悲を感じられそうだと思った。しかし、女神様は見捨てようとしなかった。手放さずにいてくれた。ただ寄り添ってくれていた。


 寂しかったのね。


 そう、女神様が呟いたその瞬間、胸が熱くなった。そうだった。全然違った。本当の望みは、消えることじゃなかった。記憶には残っていなかったが、心が覚えていた。この感覚は、そうだ。思い出した。ずっと、ここにあった。


 女神様は、愛を与えてくれた。


 長い間、俺が立ち直れるまで傍に居てくれた。あぶくのように浮かぶ、いくつもの世界を覗き、沢山のことを教えてくれた。嬉しかった。暖かかった。幸せだった。だけど、そんなときにアイツ等がやって来たんだった。


 約束を守れなくて、ごめんなさい。


 そう言った女神様は、とても悲しそうだった。だから、今度は俺が約束したんだ。共に見たこの世界を絶対に救って見せると、何度だって立ち上がると、ずっと一緒にいると、女神様に約束したんだ。


 報いたい。恩返しをしたい。


 その一心だった。だけど、不甲斐ないことに俺一人じゃどうしようもできないことが分かってしまっていたから、俺の知る英雄、憧れの存在、沢山の人に笑顔を齎してくれる人達を連れて、必ず戻ると約束し、元の世界へと助けを呼び行ったんだ。


 それは、とても長い旅路だった。


 女神様と過ごしたのは僅か数年だったらしい。それから、行くだけでも数十年、探して、戻る頃には、その倍以上もの時が流れていたそうだ。それでも、約束から随分と時間が経ってしまったけれど、戻って来た。


 そして、それからも、ずっと待ち続けた。


 女神様が力を蓄えるのを待ち、転生するまでに更なる時を過ごした。この世の地上と地下の二つの世界を眺め、女神様が目を開き、微笑み、会話でき、必要な力を与えてもらえるまでの間、ずっと待ち続けていた。


 そうして、やっと、ここまで来た。


 転生するまでも、転生してからも、数多くの障害を乗り越えた。今まで忘れてしまっていたけど、異世界転生したことも、皆と一緒だったことも、意志を残して記憶を消したことも、何から何までの全ての意味や理由を、思い出すことができた。


 誰がため、何がために、成すのかを思い出した。


 最後に見た、始まりの言葉を呟いた女神様は、微笑んでいた。世界を救ってほしいと言わせたのは自分だが、俺を救ってくれた女神様の、愛したこの世界を救いたい。それこそ、この世に生を受けた理由だった。


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