第176話


 僕は、愛されていなかった――……


 僕が、本当の父親と思っていた人は、2番目の人だった。母さんのあの笑顔は、いつもに向けられるものだった。僕は、虐待されていた。何故そうなったのかは、分からなかった。物心ついた頃には、すでに始まっていたからだ。


 僕が虐待されていたのだと理解したのは、母さんと3人目、いや、4人目の彼氏が消えた時だ。それまでは、全て僕が悪いから、だと思っていた。母さんが苦しんでいるのも、僕のせいだと思っていた。それが当たり前だった。


 母さんと母さんの彼氏以外の人間を知らなかったからだ。手を差し伸べられたとしても、受け入れられなかった。母さんと母さんの彼氏が全てであり、それ以外は信じられなかった。それ以外、世界の全てが敵だと思っていた。


 手を差し伸べて来る人間は、僕を陥れようとする悪魔の化身かなにかと思っていた。そう思っていたけど、本当は違った。施設に移ってから、普通というものを知った。施設の子を見て、勝手に笑ってもいいのだと、僕はその時、初めて知った。


 声を出すことも、いつも許可が必要だったけど、そんなものは必要ないと言われた。食事を取っただけで褒められたし、落ちた物は食べなくていいと言われた。隅に入れば手招きされた。部屋の真ん中に立っても怒られなかった。


 傷を隠さなくても良くて、反対に見せなければいけないと言われた。顔を伏せていなければ殴られていたのに、顔を伏せていると頭を撫でてくれる人が居た。泣けば、もっと殴られていたのに、好きなだけ泣いても良いと言われた。


 朝起きてから、顔を洗って、歯を磨くことを知った。学校へは毎日通うものだと知った。愛する人に、暴力は振るってはいけないのだと知った。余程常識とは思えない経験、それが常識であると知った。


 あの時、僕は知った。愛というものがあることを、そして、僕は愛されていなかったということを知った。そのことを知ってから、僕は僕自身が分からなくなってしまった。何のために産まれて来たのかを、ずっと探していた。


 施設を出てからも、ずっとだ。もう一人で生きていけると思って、生きて行かなければいけないのだと思うようにした。だけど、そんな時になってから、また母さんと、母さんの新しい彼氏という人が現れたんだ。


 気付けば、病院のベットの上だった。九死に一生、命だけは助かったらしい。だけど、首から上だけしか動かなくなっていた。どうしてそうなったのかは、記憶が欠落していて分からなかった。後になって保険金目当ての犯行だったと聞かされた。


 それからは眺め続けていた。ずっと、ずっと、ずっと、ベットの上で眺め続けていた。苦しみから逃れるために、空想や創作物、他の誰かの人生を垣間見て、現実以外の世界に没入して、いつ終わるとも分からない僕の人生を過ごしていた。


 長い間そうしていても、母さんへの憎しみが消えることはなかった。だけど、愛情さえも消すことさえ叶わなかった。いくら恨みつらみを重ねようとも、どれだけ憎くても、心のどこかでは赦してしまっていた。


 僕も母さんも、ただ愛されたかっただけだ。そうと気づいてしまってからは、憎しみと哀しみが混ざり合い、憐みの心さえ湧いて出て来てしまったせいで、責めるための矛先を失ってしまった。


 そうして、生きる気力を失ったから、全てを終えることにしたんだ。追い求めることも叶わぬ身体になっても、願わくば愛を知りたいと思い、焦がれ続けていた僕は、信じてもいなかった来世に賭けることを選んだんだ。


 最後は願いながら、息を止めて終えた。僕の最後の記憶は、こちらを向いて笑う母さんの笑顔だった。そこに居るはずもなく、そんな笑顔を向けるはずのない、僕の願望が齎した母さんの姿だった。

 

 ……――それが、僕の人生だ。


『……ゥ、ヴ、ゥァアア゛アアア゛ッ!!!!』


 だめだ。ダメだ。駄目だ。いやだ。イヤだ。嫌だ。


 俺の人生は。俺の記憶は。俺の今は。ちがう。チガウ。違う。


 思考も感情も何もかもが、前世の記憶によって濁ってしまう。


 オーエン・スディとして、この世に産まれてからの自分が、まるで自分自身じゃなかったかのような感覚にさえ思えてしまう。そんな訳がないと分かっていても、違和感を覚えてしまっている。


『ダメ、だッ!! 無、理だッ!! 普通ッ、じゃあないッ!!!!!』


 意識あれど、意思が違えば、意志さえも変わってくる。


 そんな気がしてならない。これまで不安に思うことのなかったことであれ、毎日の生活を送ることすら難しいと思ってしまっている。こんな俺には帰る場所はない。ホームでの生活なんて出来るはずもない。


 どんな顔をして、どう接すればいい。母さんにログさん、それに孤児院の子供達はすぐに俺の異変に気付くことだろう。身体を動かせることにも、少なからずの違和感を覚えているというのに、俺はいったいどうすればいいんだろうか。


 もはや、こうなってしまったのならば、いつも通りにはならない。そう振舞うことを続けるしかなくなってしまった。そんな俺を見た皆は、きっと俺が変わってしまったと首を傾げるだろう。


 記憶を取り戻して初めて、前世の記憶を消し去ったのかを理解した。


 もう十分だ。必要ない。全てを忘れた訳じゃない。魂にでも刻まれた願いや思いがそうさせていたのかも知れないが、記憶まで戻ってしまえば、今までの俺が俺じゃなくなるどころか、それ以上の不都合が齎されると確信してしまった。


 以前の俺は恐れていた。虐待を受けていた子供が親となることを恐れるのと同じように恐怖していたから、不必要な記憶だけを消し去ってしまったんだ。喉から手が出るほど求めていたものを得られると知ったからこそ、自己を失うことを良しとした。


『……ァアア゛、だからか、クソォオッ! ビビィイイイイ゛イ゛ッ!!』


 そのことをビビは、記憶を覗いて知っていた。そして、以後の記憶さえも覗き見ていた。だからビビは、記憶を取り戻した後の俺が、そうするだろうことを分かっていたはずだ。


「――エンッ! “どうしたの”! ねぇ! ねえってばッ!」

『……ビビィイイ! お前はッ、辛かったんだろ……だから』

「“どういうこと”なの?! ビビ?! エンは、エンは?!」

『……記憶を、見せたんだな? そうだろ……なァあッ?!』

「エン?! 座って! 血がッ、沢山、“血が出てるわ”!!」

『アァ、もう無理だ、……伝えてくれ、……この事を、頼む』


 今のビビが、どんな顔しているかなんてわからない。カノンにもたれ掛かるようにして、身を任せることに精一杯で、様子を見る余裕なんてない。だから、可哀想だが、後のことは任せるしかないだろう。気を失う前に、やれることはやれたはずだ。


 ビビも、出来ることならば、そうしたかったのかも知れない。慰めてもらいたいと思っておらずとも、分かち合うことくらいできる人間が傍に居て欲しかったのかも知れない。聞いて、知って、分かってもらいたかったのかも知れない。


 過去の記憶を知らねば分からないことを、身をもって知った。知るべきことを知れた。これ以外の方法で、他にも知る術はあったはずだけど、最悪ではあるが最善の方法を取ったに過ぎない。


 責任と術を持つ俺が犠牲になることで、ビビのように辛い思いをする者を生み出さないようにするための手立てだったのだろう。本当はビビも、記憶を取り戻した俺が一番最初に思ったことを、出来るのならばそうしたいと思ったのかも知れない。


 記憶が混ざり合う感覚は最悪だ。こんなことは二度と経験したくない。以前のビビがどうであれ、二度と後戻りできないのなら、どの自分が本当の自分か分からなくなるような、この感覚を持って生きるのはとても苦しいはずだ。


『……ビ、ビぃ、ゴメン、な……』



――【リウィンド】――



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