第2話


・・・$@#テ


 夢の中で優しい声が聞こえた。それまでは戦場に立つ英雄の背中を眺めていたように思う。声が聞こえてくると同時、今まで見ていたのが夢であると理解した。気が付けば見ていた場面が変わり、目の前には白い衣に身を包んだ髪の長い女性が立っていた。そして、そっと抱きしめられた。


・・・*‘%テ


「……きてっ、……おーきーてっ!」


 眩い光に目がくらみ、その眩しさの余りに顔を顰める。ぼやけた視界と思考から、光と音を逸らすように、手元にあった布の感触を頼りに薄手の掛け布団で遮るが、肩の揺れまでは収められそうになかった。寝ぼけた俺は母の声によって、その日の朝を迎えた頃を理解した。


「オーちゃんっ起きてって、ほらっ、ねーえー?」

『んぁ……うぁ、はげっ激しいよっ母さんっ、分かった、起きたっ、起きたから、ストップ!』

「もう全然起きないんだからーっ、もう朝食出来てるから起きて顔を洗いなさい……ほらっ、よいっしょ」


 無理に俺の手を引いて起こそうとする母さんは、まるで釣り上げたクジラでも船の上に引き上げるかのように、全体重を後ろに乗せて踏ん張っていた。あまりに勢い良く引き起こすものだから、寝起きの頭は揺れ動き、折角脳みそへと昇り始めたばかりの血液が、段々と下がっていくような感覚を残して、ぼうっとしたままだった。


「あらー? 可愛い寝ぐせちゃんねー……つんつーん、ネグリンちゃんはとっても元気でちゅねー」

『変な名前付けないでよ……寝ぐせは寝ぐせじゃん』

「あーっ、ぐしゃぐしゃにしたー……可愛かったのにぃ……もぅ母さんふて寝しちゃうっ、久しぶりにオーちゃんもこのまま一緒に寝る?」

『――起きましたっ、おはよう母さんっ! 起こしてくれてありがとうっ、今日も良い一日だねっ、絶好のダンジョン日和だっ!』

「ちぇっー……ふふっ、……オーエン、おっきくなったね」


 ベットから抜け出て、背伸びする俺を見た母が嬉しそうに微笑む。ほおっておけば甘やかし過ぎる母の優しさに、ついつい甘えてしまうのも、この人の性格と前世の記憶が何らかの作用を起こしてそうさせている気がする。甘えられる内に甘えておくのも親孝行と言う気がする。とは言え、俺が一人で出来る事でも頼らずにいるとすぐ拗ねる母も困り者なのだが、随分慣れてしまったように思う。


『これからもっと逞しく、男らしくなるよっ、帰って来る頃には一回りも二回りもねっ。その為にもまずは顔を洗って寝ぐせ直して歯を磨いてくる!』


 俺の成長を改めて確かめ、感慨深く見る母に、気恥ずかしさを感じた。力瘤ちからこぶを作って誤魔化して、その勢いのまま洗面所へと駆け込むように向かう。


 鏡を見ると頬が赤らんでいる事が分かり、今度は耳まで赤くなる。その熱を冷ますように手桶で水を汲んで頭から被ると、心地よい冷たい感覚が頭皮から首筋を伝い、暈けた頭を覚醒させた。


 飛沫を飛ばしながら顔を濯ぎ、張り付いた前髪を払うように顔を上げると、男らしさとは程遠い、幼い顔が鏡に映った。萎れたネグリンを櫛で梳かして馴染ませて、肩に掛かる後ろ髪を紐で結い、前髪を流して見ても、やはりまだ子供らしさは抜けていなかった。


 髭でも生えれば、と期待を膨らませつつ、歯磨き用の木の枝を動かしていく。鏡に映る顔は、自分自身で言うのもどうかと思うが、どう見ても容姿は整っている方だった。この感覚は以前の俺と比べているのかも知れないが、如何せん思い出せない事だ。だからだろうか、この顔に馴染むのも早かった。だが少し、女性っぽさが残っているのが悔やまれる。


 これが、オーエン・スディ、この世界の俺である。


 男らしく短髪にしても、小僧らしさが増すばかりで、少しの抵抗の意味もあって男にしては長めの髪にしている。今はまだ歳を重ねるに連れて、それ相応の男らしさを増すことに賭けている最中だ。


 この世界にはダンジョン以外で日光を当たることが出来ない。だから、年がら年中、肌の色味は白く、男らしく肌を焼くことすらも出来ない。


 白い肌が女性っぽさを助長しているのは自分でも分かっている。母のお気に入りの銀髪金眼の色合いも淡く、儚げに見えてしまうのもコンプレックスの一つではある。だからこそ筋トレを続け、多少なりとも男らしさに磨きをかけ、女の子に間違われないようにしている。


 だがしかし、鏡に映る力瘤ちからこぶは筋張るばかりで盛り上がりに欠けていた。昨日までなら溜息の一つを付いて洗面所を後にするが、今日は鏡に映る自分自身を見て大きく頷いた。やる気の表れが目筋に力強さを持たせているように思えた。


『うしっ、完了っと……今日は、目一杯頑張るぞぉー!』


 口を濯ぎ、濡れた髪の水気を解ほつれた布で取り払った俺は意気込みを口にしてから、母の待つ食卓へと向かった。


『お、干しマトマと卵炒めだっ、それにっ、パンにベーコン乗ってるじゃん!』

「今日は精を付けなきゃだし、母さん頑張りましたっ!」

『母さんありがとうっ! 御馳走だっ! スゲー美味そうっ、いただきまーす!』


 普段なら夕食でさえテーブルに並ばないような色彩も鮮やかな御馳走が並んでいた。一般的な家庭ならこれが当たり前なのかも知れないけれど、貧しい家庭では数日分の食費を費やしている事がすぐに分かった。だから俺は、俺を育てる為に貧しい思いをさせてしまっている母には頭が上がらない。


 俺は余計な事を詮索せずに、口へ詰め、掻き込み、感謝の気持ちと共に味わった。喉を通る度に、込み上げる物があったが、咽た振りして誤魔化して、水で流し込むようにして飲み込んだ。気付けばあっという間にテーブルの上の御馳走を平らげてしまった。


 口に入れる度に美味い美味いと言い過ぎてしまったからか、俺の食べる勢いに驚いていた母が、半分以上残ったままの自分の皿を俺の方へと差し出して、お腹一杯になったから母さんの分まで食べて欲しい、と言った。そんな誰でも分かる嘘を鵜呑みにして、そこそこに膨れていたはずの腹に無理に詰め込んだ。


 普段から、こんな事しかしてやれないけど、と母は思っているだろうが、これ以上に無いくらい母は俺に甘い。昨日、誕生日を迎えた俺に母は短剣を買ってくれた。決して質の良い物でないと分かっていても、俺にとっては掛け替えのない物になった。


 母は今この時も息子が死ぬかもしれないという恐怖を抱えているだろう。母の本心からしてみれば俺がダンジョンに行くことを望んでいない事は分かっている。だけど母は口に出してダンジョンに行くことを止めない。それは今も母であろうとしているからだ。


 だから息子として応えたい。そんな母をみればこそ。死ぬつもりなんて、初めからありはしないが、尚の事だ。決して、死なずに戻って来る、と密かに決意した。


『あ、母さんっ、今日の夜空けといてっ』

「……まぁ、……まぁまぁまぁ? オーちゃんっママをデートに誘ってるの?」

『ん……まぁ、そんなとこっ』

「あらーっ! ママっドキドキしちゃう! 楽しみーっ! 何着て行こうかしらっ」

『ログのおっちゃんの酒場まで、迎えに行くから待っててよ』


 テンションが上がった時の母は自称がママになる。これすなわち喜んでいると言うことだ。少しでも母の不安が薄らげば、と思ってやったことだったが、効果覿面だったようだ。


 ミルクティーみたいな色の髪の毛を揺らし喜んでいる母もまだ24歳と若く、尚且つ独身だ。俺がいるせいで恋愛も出来ずいるが、列記とした女性である。


 目鼻立ちは整っており、綺麗な大人しめのお姉さんと言うような印象で、ピンク色の瞳が愛らしさを際立たせているように思う。ひいき目なしに見ても美人だ。俺が居なければ引く手あまただろう。


 俺が独り立ちできると分かれば落ち着けるだろうし、愛情の矛先も分かれるはずだ。それまでは母の愛情を受け止め、男らしく紳士的に立ち振る舞おうと決めている。


『御馳走様でしたっ、美味しかったよ母さんっ! あ、片づけ手伝うよ』

「お粗末様でしたっ、うふふ、オーちゃん優しいー」


 頭の上に音符が浮かんだままの母と共に朝食の後片づけを行う。母が洗った皿を受け取って水けを拭いとる。特段会話をしていた訳でも無かったが、母が俺を見てまた嬉しそうに笑う。俺にも母の鼻歌が移ってしまっていたようだ。そうしてる間にも、片づけが終わってしまった。


 それから俺と母は、各々の支度を済ませて共に家を出た。俺の腕に、腕を差し入れて来た母が、寄り添うようにして歩く中、俺は反対側の手で、母から送られたダガーや持たされた乾パンと水筒を手で確かめていた。


 布の服にベルトとダガー、ポーチを買う金も無いからポケットに棒状の乾パンを直接入れて、水筒はベルトから吊り下げている。正直、ダンジョンに向かうにしては心もとない装備だ。それほど高く昇るつもりも無いが、駆け出しのダンジョン登頂者以下である。


 そして最後にダンジョンを昇る為に必要な登録証を感覚で確かめた。首から下げた革ひもに釣られたコインが歩く度に揺れ、服の内側で俺の鼓動に合わせるようにして、高鳴る胸を打っていた。普段は感じることの無かった母の鼓動も時折、腕を伝って来ているのが分かった。


 家を出た時は楽し気に会話していた母も、母の働いているログの酒場が見えて来る頃には口数が減り、目の前まで来た頃にはただ何も言わず静かになり、着いたというのに離れようとせず、俺の腕を抱きしてるようにしていた。


『……ほら、母さん、着いたよ』

「……うん、……私、……お母さん、待ってるから」

『デートの時間に遅れないようにしないとね?』

「うんっ、絶対絶対、絶っぇー対っ、だからねっ? オーちゃん約束よっ?」

『分かってる。……はいっ、やーくーそーくーっ!』

「ふふっ、小指ーぎゅーっ!」


 小指同士で約束を交わす。この世界では誰もしない事らしいが、以前の記憶のせいで、ある時自然にやった事から俺と母だけの約束する時の仕来りになっていた。


 何故、指切りげんまんと唱えないかは、言葉も拙い幼児が指切りげんまんと唱える不自然さに寸でのところで気付いたからだ。約束の方法が俺の知るものとは違ったままだが、それはそれでよかった。それ以来、母と俺は目を瞑り、願いを込めながら、小指に力を入れて約束している。


『じゃあ、行ってきます!』

「……うんっ、行ってらっしゃい!」


 互いに笑顔で挨拶を済ませるが、母は店の中に入ろうとしない。俺は手を振りながら、ダンジョンの方向へと駆ける。ここで振り返ってしまえば、心配性の母が追いかけて来兼ねないので、さっと通りの人混みに紛れながら、ダンジョンのあるゲートと呼ばれる場所へと向かうことにした。


 母がああまで心配するは俺がまだ若すぎるからだ。12歳と言えばまだ学校へ在学しているのが普通だ。12歳までは少年部、12歳からは青年部へと進学して、成人となる15歳まで通うのがこの世界の当たり前だ。


 ダンジョンには昇ることが出来るのは12歳からだ。普通なら青年部へと進学して学校の課外授業のような形式でダンジョンを昇る。そうしてまだ子供である学生に少しずつ経験を積ませる。


 12歳を迎えたばかりの子供が、学園に通わず、更には一人でダンジョンを昇るのには理由がある場合がほとんどだ。そのもっとも足る理由は、食うにも困る程に金が無い、と言うことなのだが、俺は母のお陰で辛うじてそうはならずに済んでいる。俺が望めば進学することも出来たし、母は学費を稼ぐつもりであった。だが、俺は進学を望まなかった。


 俺が進学しないという事を決断した時、母は驚いていた。頭を下げるにしても、進学させて欲しいと言われるものだろうと母は考えていたからだ。俺が15歳になった頃には、母も幾分か覚悟をしていたはずだろうけども、早すぎる決断をした為、母には余計な心配を掛ける結果となったのだ。


 そうまで分かってもいても、俺はいち早くダンジョンに昇りたかった。


 許されるのならば12歳に満たずともダンジョンに通っていたはずだ。現に幾度か、忍び込めないものかと、ゲート付近で遊んでいる振りをして、ダンジョンのある上層を目指したこともある。結果は、言わずもがなであったが。


『……お、見えた』


 そうこう考えている内に、街の中央に存在するゲート付近へと着いた。ゲートとは転送装置のようなもので、石畳の上に輝く魔法陣が描かれており、そこに乗って行きたい階層を言えば転送してくれる魔法のエレベーターのようなものだと俺は自己解釈している。


 ダンジョンに通じる唯一のゲートが、街の中央の大きな広場に存在していて、周りにはギルドや商店が立ち並んでおり、この周辺はいつも賑やかだ。


 有名な探検者になると、ゲートから帰って来たのが分かるや否や、商人やらギルド職員やら、はたまたファンまでもが駆け寄って、ちょっとした騒動が巻き起こる。


 俺もいつかはそんな風になりたいと思いつつも、ダンジョンゲートへと歩みを進めていた。


 すると、少しして、先の方から聞き覚えのある嫌な声が聞こえて来た。

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