九
◇◆◇◆◇
兄の死から十二年の月日を過ごした彼は、十三回忌の日、会食のあと家へ帰るのが嫌で、散歩してくると言って外に出た。かといってどこへ行こうというあてもなく、彼はただ足の向くままに歩き出した。
最初にその歩みが止まったのは、隣町との境の川沿いをしばらく進んだところにある駐車場の前だった。それは彼が兄を亡くして初めて泣いた場所だ。告別式の日から翌日へ日付が変わるころ、彼はそこで敷地を囲うフェンスにしがみつき、声をあげて泣いた。ろくに掃除されていない金網をつかんだ指は埃で汚れたけれど、そうして身体を支えていないことには突然重さを増した悲しみに耐えられなかったのだ。そんなことを思い出し、彼はわずかに頭を振った。それからまた歩いた。いつもより早足だった。
カップ酒の並んだ自動販売機の横を通り過ぎようとして、ふと呼ばれたように彼は立ち止まった。そこで酒を買った記憶がよみがえったのだ。彼が自らの意思で酒に金を出したのは、後にも先にもその一度きりだ。兄の一周忌の日、その明け方に、白んだ空を見上げながらガラス瓶を傾けた。身体に合わないアルコールはすぐ頭痛の種に変わり、半分も空けないまま捨てて煙草に火をつけた。そして吐いた煙の行く末をいつまでも眺めていた。昔のことだ、とため息をついて、彼はまた歩きはじめた。風が吹いていた。
彼はただ進んだ。小さなコンビニの前を過ぎ、陽の当たる道を渡り、喫茶店の先の角を曲がった。そうやって歩く間、彼は思い出し続けていた。染みついたように残る兄の記憶を、自分自身に突きつけるように手繰り寄せていた。
そして、暮れていく空に影を引き伸ばされながら、彼は最後に自然公園の入り口を踏んだ。思うことのすべてをそのまま声にして冷えた大気へ溶かし、ないまぜの感情を吐き捨てて歩み、池の前に崩れた。
すべてのきっかけとなったものの正体は、有り体にいえば失望だった。そもそも、いつだって僕の根底にあったのは兄さんへの純粋な慕情だったのだ。音楽を、ロックを、Hyp-Henを教えてくれた、誰より敬愛するべき存在だと、そう感じ続けていた。おまえこそそんなに煙草吸うんだな、という言葉に、淡い期待を打ち砕かれるまでは。あの瞬間にそれまでの思いは反転し、ある種の怨恨となって煮詰まった。
ごめんね、と言ったのはささやかな報復のつもりだった。そう言うことで劣等感を煽り、嫉妬心に火をつけることができれば、と思った。自分を褒めてくれなかった兄に、かすかにでも痛手を負わせたかったのだ。浅はかな理由だ。しかし、そのときの僕にはそれこそが大義だった。
どうだろう。どうだったのだろう。その言葉に呪われてくれただろうか。兄さんが聞き取れない大音声で喚き散らして外へ駆け上がっていった背後、おぼえた感情は喜びでさえあった。自分の思惑どおり動揺する姿に、いい気味だとも思った。
もちろん、いつまでもそんな子供じみた思考にとらわれていたわけではない。Hyp-Henを抜けるころにはすっかり頭も冷え、皮肉でない本心からの言葉で彼に謝りたいと思うようになっていた。だからこそ設楽さんに六年後のライブで地元へ来てくれるよう頼んだのだ。それが自分なりの覚悟だった。時間の制約に助けを借りてでも、兄さんとの関係を修復したかった。
けれどその思いは叶わないままに彼は死んだ。薄暗いバーでまともに見もしなかったあの姿が最後になると知っていたならあんな物言いはしなかっただろう。自分を恨まずにはいられなかった。
考えるほどに悲傷はつのり、なんとも形容のしようがない感情は鬱積し、屈折し、そしていつしか、死に至るまでに兄さんが考え感じていたことをも想像するようになった。
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