七
よみがえった心苦しさがしつこく胸中にまとわりついている。さっき、あの喫茶店の前で足を止めさえしなければ、ここまではっきりと思い出さずに済んでいただろうに。確かに遠ざかっているはずなのに、背後からの圧迫感じみた気配が消えない。むしろ、じわりじわりと私の身体をも侵食しているように感じる。
駆け込むように丁字路を曲がった。道端の木陰に自分の影が溶けたことに安堵する。そのまましばらく空の一点を見つめた。そうだ。もし弟が生きていたら、彼は約束通りに設楽と再会し、思い出話にでも花を咲かせたのだろうか。あのライブがどうだった、あの曲がどうだ、あのときのことが今どうなった、そんなことを懐かしげに語り合ったのだろうか。彼はどんな声で、どんな口調で、どんな表情で、自分よりいくらか年長者である設楽と向き合うのだろう。
私は耳をふさぎ、浮かんでくる思考のすべてを口に出しながらふらふらと歩いた。余計な感情が生まれないように、脳内がそのことだけで埋まるように、うるさいほど大きな声でひとりごちた。
きっと彼は家からほど近い自然公園へでも設楽を案内するのだろう。こんな片田舎にはそこくらいしか観光できる場所がないのだ。そして、だだっ広い敷地を歩きながら言うのだろう。
……僕、昔、設楽さんに、音楽が嫌になったって話しましたよね。音楽を特別なものだと思ったのが間違いだったって。覚えてます? あのとき設楽さん、何も間違ってない、そう思えない奴に音楽はできない、って言ってくれたじゃないですか。言ってましたよ。まだそんな物忘れするような歳じゃないでしょ。だから僕、Hyp-Henをやめるときも音楽ごとやめようとは思わなかったんです。だって、どれだけ音楽を嫌いになっても、ほかのどんな芸術よりも優れてるって考えは変わらなかったから、そう思えるなら、少なくとも設楽さんは僕をミュージシャンとして認めてくれるじゃないですか。……すいません、喋るの下手なの、ぜんぜん成長してなくて。わかりづらいですよね。笑ってくれるの、設楽さんくらいですよ。ほかの人には苛つかれちゃって。
そうやってきっと二人で笑うのだ。もしかすると、彼はあの赤いズボンを履いていたかもしれない。設楽の先に立って歩く彼の姿は、一面に広がる緑の中でくっきりと映えるのだろう。
そこで私は耳から手を離した。だいぶ落ち着いたようだ。車通りのない赤信号を律儀に待ちながら並ぶ白線の奥を見やって、ちょうど自然公園の前まで来ていたことを知った。歩み出すと信号は青に変わり、私は迷いなく公園へ足を踏み入れた。
閉園の時刻まで一時間を切った園内に、人影はほとんどない。くすんだような色の芝生と葉の少ない木が視界を占めるばかりだ。ここに立ち入ったのはいつぶりだろうか。幼いころはよく家族で訪れていたはずだ。敷地の中央に大きな池があり、そのほとりで貸しボート屋が小さなボートを貸し出しているのだ。私と弟は、ここへ来るといつも親にねだって二人でボートに乗り、係員に閉める時間だと言われるまで延々と池を漕ぎまわっていた。あの貸しボート屋は今もまだあるのだろうか。当時でさえあまり繁盛してはいなかったから、もう潰れているのかもしれない。
雪混じりの土の上を進む。だんだんと陽が傾いている。顔をかすめた風を冷たく思った。昔より道幅が狭くなったような気がするけれど、それは私があのころよりずっと成長したというだけのことなのだろう。
しばらく歩いていると、行く先の道が二つに枝分かれしているのが見えてきた。そのどちらへ進めば池があるのか、案内板を見ずとも足が覚えていた。記憶よりだいぶ錆びて文字がところどころ剥げたそれの前を通り過ぎ、私はただ一歩一歩を重ねていく。
そういえばあの池には鯉がいた、と思い出した。そばの売店に一袋十円で餌が売っていて、私は弟がそれをやたらと欲しがるのを小馬鹿にしていたけれど、父に買ってもらっているのを見ると羨ましくなり、結局奪い合うようにして水面に撒いたのだ。互いの身によじのぼるようにして群がってくる大量の鯉はどことなくおぞましかったが、そんなことは気にもかけずに私たちはその無数の口へと餌を投げ込んだ。
想起した光景は、それが何気ないものであればあるほど重くのしかかってくる。彼もそんな感傷をおぼえるだろうか。この記憶は彼の脳裏にも浮かぶだろうか。設楽とここへ来たとき、それとも私の十三回忌の午後にこうして町をそぞろ歩きしているとき、ふいに幼い日を思い返すだろうか。
子供のはしゃぐ声がする。見渡すと、芝生の広場で走りまわる子供と、ベンチに座ってそれを眺める夫婦が視界に入る。池へは広場を横切れば近道だということも覚えていた。早足で突っ切る。かゆくもない頭を乱暴に掻き、あふれそうになったため息を押しとどめた。
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