個人経営の小さな喫茶店の前を通りかかった。どうやら今日は営業していないようで、扉の丸窓から覗いた店内に人の気配はない。出窓の内側に飾られている鉢植えは、葉の端に茶色をあらわしている。そうだ。ここに初めて立ち入ったのも、弟がきっかけだった。

 十年前の夏、Hyp-Henの解散ライブツアーのついでに立ち寄ってくれた設楽功と、私はここでコーヒーを飲んでいた。電灯をつけず、開け放した窓から入ってくる午後早くの陽光で明るさをまかなう店の中には、店主の趣味らしきFMラジオがうっすらと流れていた。私たちは入り口からいちばん離れた席で向かい合って座っていた。

 ——このあたりは涼しくていいですね。東京はもう暑くてたまらない。

 彼の最初の言葉はそれだった。ステージ上での姿からは想像もつかないほど優しい声だった。そうなんですね、などと応えただろうか。憧れだった人を前にして、私はいささか気が張っていた。こんな形で会いたくなかったという思いもあった。

 遅くなって申し訳ない。本当はもっと早く来るべきでしたね。

 コーヒーをひとくち飲み、彼はそう続けた。弟の弔いに、ということだと気づくのに少しかかった。そんなことはないですと慌てて手を振った。彼の口元がわずかにほころび、約束していたんですよ、と話し出した。

 ……今年Hyp-Henを解散しようというのは、ずいぶん前から決めていたことなんです。それこそ、彼が抜けたときにはもう。ほかの誰にも言っていませんでしたが、なんとなく彼には教えました。そうしたら、解散ライブではどれだけ赤字を出しても絶対に全国をまわってください、と言われたんです。それで僕の地元に遊びに来てください、って。もてなしますよ、とも言ってたかな。なんだろう、無茶なんですけど、彼の言うことなら聞いてもいいと思えるというか。そういう雰囲気がありますよね。

 面白い人ですよ、と彼は笑った。返事ができなかった。弟はここへ帰ってくるつもりだったのだ。知りたくなかった。

 窓から吹き込んだ風が、ふんわりとカーテンを揺らした。そういう奴です、と、やっとのことでそれだけ言った。ひどく声がかすれた。コーヒーカップに手を伸ばし、口へ運んだ。指先が小刻みに震えてカップを歯にぶつからせた。口に含んだコーヒーはいやに苦く、無理やり飲み込んだ。

 ……あの、自分の話をしてもいいですか。

 急き込んでそう言ったのは、何か別の話に気をそらしていないことにはとても堪えられそうになかったからだった。どうぞ、と応え、彼は椅子に深く腰掛けなおした。

 ……ありがとうございます。その、俺、最初に、本当に好きになったバンドがHyp-Henだったんです。今……今は、Hyp-Henがというより、音楽がもう嫌いなのかもしれません。今、でもないですね。もっとずっと前から、すでに嫌いだったんだと思います。バンドをやってたんですけど、そのときから多分。すみません。失礼なことを言ってしまって。昔は好きだったんです。純粋に、音楽を聴いているだけで楽しかったんです。けどきっと、音楽を、音楽だけを好きになりすぎたんです。音楽は何より優れたものだと思って、ほかのことを好きになろうともしなかったんです。なんなら見下していたぐらいです。だからだと思います。自分で音楽をつくろうと考えてから、どれだけ行き詰まってもほかのことに逃げられなくなって、好きでいられなくなったんです。だから俺、あいつが、弟が死んで、もう音楽なんてやる意味がないと思って、それでやめたんですけど、本当は最初から音楽をやる資格だってなかったのかもしれないです。音楽が好きでした。でも、好きにならなければよかった。好きにならなければ、嫌いになることもなかった。

 うつむいて喋る私の言葉を、彼は黙って聞いていた。うわずった声だっただろう。それでも彼は怪訝そうな色ひとつ見せずにいてくれた。

 話し終えてわずかに視線を上げた私の目を見るともなく見ながら、やっぱり兄弟ですね、と彼は言った。似たようなことを彼も話していた記憶があります。穏やかな声音だった。それがなんだか息苦しかった。彼はコーヒーカップを傾け、また口を開いた。

 ……これは私の持論ですけれど、音楽をやっていけるのはそういう人なんですよ。あなたは音楽以外のものを見下したことを恥じているのかもしれませんが、そうやって慢心できるくらいでなきゃミュージシャンなんてやってられない。あなたには確かに、音楽をやる資格が、音楽をやっていける資質があると思います。……彼にも同じことを言ったんですよ。懐かしいなあ。

 彼は微笑んだ。心の底からの親切をもっての言葉であることは明らかだった。けれど私はそんなものが欲しいわけではなかった。このくだらない感情の機微のすべてを肯定されてしまうのが苦痛だった。そして何より、そう感じてしまっていることへの申し訳なさがたまらなく重かった。

 何か言わなければいけないと思った。しかし、どうしても声が出なかった。なんでもいいから反応を示さなければならないはずなのに、涙すらこみ上げてはこなかった。ただかすかに口を開けて沈黙するよりほかなかった。ラジオから漏れる雑音混じりの歌謡曲がやたら大きい音のように響いた。喉が渇いていた。

 風が流れ、陽が射し、影が濃く地面に映る。どうにも呼吸しづらいような、そんな感覚になる。やはり、何度思い出しても苦い記憶だ。

 あのあと私は、こちらを気遣ってまた喋ろうとした彼を遮り、ぬるまったコーヒーを一気に飲み干して笑った。どこから出てきたかわからない笑いだった。どうしてそんなふうに笑えたのか、それは十年経っても後悔として残ったままだけれど、涙を流すよりは遥かにましだったのだろうと今では思う。あのとき生まれていた感情は、泣き出して片付くようなものではなかった。

 暖かい気候ではないのにも関わらず、耳の裏で汗が走ったように思う。何かに背を押されるふうにして、私はまた足早に歩きはじめた。

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