歩き続けるうち、いつのまにかこの町に一軒しかない小さなコンビニの近くまで来ていた。店の前には古びた木のベンチが置かれている。掃除さえ諦められた吸い殻の山がその下の地面に積み上がっているのを見つけ、ふとあの中に自分の捨てたそれがあるような気になった。

 もちろんそんなわけはないのだ。あのときポケットに入れた煙草を、私は一ヶ月ほどそのままにしていた。そしてある夜、百円ライターを買ってここに座り、慣れない手つきで火をつけた。吸い込んだその味が私の知らない弟のすべてを象徴している気がして、ひと息たりとも吐き出したくないように思った。けれど好きでもない煙をそう長く吸っていられるはずもなく、結局半分ほどの長さになったところで火を消して地面に落とした。すでに落ちている無数の吸い殻と見分けがつかなくなるように、執拗に踵で踏みつけた。そうでもしないとすぐ拾い上げてしまいそうだった。

 店内に入る。あのとき、口の中に残る煙の味を飲み込むために買った安い缶ビールが、アルコール類の並んだ棚に変わらない容器で売っている。もし死んでいたのが私だったなら彼は酒を飲んでくれただろうか、となんとなく思った。彼は酒が好きではなかった。これも彼が死んでから知ったことだ。

 何も買わずに店を出た。アスファルトに舗装された道を進む。不意に、詫びの言葉が口をついて出た。許されたい思いからではない。むしろ逆だ。心にもない謝罪をしていれば許されずに済む、そうすれば罪を抱えたままでいられる。自分でも認識していない思考の奥深くに、きっとそんな短慮があるのだ。

 謝らなければならないいくつものことが、私と彼とを結ぶよすがだ。許されたらそれは失われてしまう。私は彼に忘れられてしまう。自分でもおかしな考えだと思う。忘れられるも何も、死人に記憶はない。けれどなぜだかそんな気がする。理屈ではないのだろう。

 道端の草の鮮やかな緑が、まばたいた視界の隅でちらついた。


 たとえばあのときピアノをやめていなかったら、私は今も彼と肩を並べられていたのだろうか。それとも彼を巻き込んでピアノをやめていたらよかったのだろうか。いや、それでも結局変わりはしなかっただろう。私がやめた時点ですでに彼の演奏は群を抜いて優れており、同年代はおろかアマチュアの大人をも凌ぐほどの腕前だった。

 では、ロックを知らなかったなら、知っても好きにならなかったなら、好きになっても彼に勧めなかったなら、彼がロックミュージシャンを志すこともなかったのだろうか。それが無理でも、彼が東京に行くのをどうにかして止めていればよかったのだろうか。私も一緒に行っていればよかったのだろうか。あのバーで私が先に口を開いていればよかったのだろうか。彼を知ることを拒まなければよかったのだろうか。

 いや、きっと、どれも意味はなかっただろう。どうすれば彼は死ななかったのだろう、という後悔は結局のところ、、という自責に帰結する。あの地震が起こったとき自室にいたなら、集めるだけ集めたもののすべてが年季の入った棚とともに私を押し潰してくれていたはずなのだ。そうしてそこで私が死んでいれば、母か誰かが彼に帰ってこいと連絡して、彼は事故を起こした列車に乗らずに済んだはずなのだ。何度考えなおしてみても、これが最善の方法だとしか思えなかった。そうやって彼が生きて、そして私を悼んでくれたなら喜ばしいことだ。ちょうど今の私のように、こうして。

 どうすれば兄さんは死ななかったのだろう、と考えてくれるだろうか。あのときピアノをやめていればよかったのだろうか、ロックを好きにならなければよかったのだろうか、東京へ行かなければよかったのだろうか、Hyp-Henに入らなければよかったのだろうか、あのバーで何も言わなければよかったのだろうか、ドイツへ行かなければよかったのだろうか、そう悔やんでくれるだろうか。それでも彼は、自分が死んでいればよかった、という結論には至らないのだろう。私の死に痛いほど哀感をおぼえ、嘆き、憂い、苦しんだとしても、彼は決して生も音楽も放棄しはしない。

 彼は、私を失ってからの十二年をどうやって過ごすのだろう。最初に泣くのはいつなのだろう。最初に眠れなくなるのはいつなのだろう。最初に昔のことを思い出すのはいつなのだろう。それから何度思い返すのだろう。どうやって気を紛らわそうとするのだろう。何も手につかない日々はいつはじまり、いつまで続くのだろう。

 私の死は彼に少なからぬわだかまりを与えられるだろうか。町を歩くたび思い出に息を詰まらせ、道端にくずおれてただ小さく呻くしかなくなるような思いをさせられるだろうか。花のにおいにすら吐き気をもよおすほど考え込ませることはできるだろうか。罪悪感を抱かせたいわけではない。しかし、抱いてくれたなら嬉しいようにも思う。

 逃避する先は音楽だろうか。それとも他人だろうか。誰かに愛され、誰かを愛するのだろうか。結婚はするのだろうか。子供は持つのだろうか。いつか、幸せな家庭を築くのだろうか。それでもときには私を思い起こしてくれるだろうか。一滴でも涙をこぼしてくれるだろうか。法要のたび過去を振り向いてくれるだろうか。そして十三回忌の日、町の端々に落ちた私の面影を拾い集めてくれるだろうか。

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