十二年前の今は雪が降っていた。

 晴天を眺め、そのまま立ち上がろうとして少しふらついた。雲は、ゆったりと、しかし止まらずに流れ、ときおり眩しいほど水面を煌めかせている。短い草を踏み、河原を歩いていく。

 弟が死んですぐ、私はきっぱりと音楽をやめて家業の米屋を継いだ。自分のみならず、もう誰も音楽をやる意味などないと、誰も失われた大きすぎる才能の代わりにはなれないと、大袈裟でなくそう思った。今も思っている。いや、わかっているのだ。彼は決して世紀の天才などではなく、アーティストの中では平凡に分類される程度の才能であり、彼より優れたミュージシャンなどいくらでもいる。それでも、私の世界ではほかの誰も及ばない至高のミュージシャンなのだ。もし死んでいたのが彼でなく私だったなら、きっと彼は音楽をやめなかっただろう。それでよかった。むしろそうであればよかったのだ。

 私は音楽に費やしていた時間のすべてを仕事へまわすようにした。それでも、どうしてもわずかな隙間は生まれた。だから私はそれを埋めるように本を読んだ。映画を見た。それまでまったく触れてこなかった音楽以外の芸術を大量に浴びた。それはなかば必死の行為だった。しかし、Hyp-Henの記事が載った雑誌の切り抜きの一枚を捨てることさえ、私にはできなかった。自室の棚に並ぶを覆い隠すように積んだ本にもビデオテープにも、愛着は決して湧かなかった。何を読んでも、何を観ても、好きだと思える作品に出会うことはなかった。

 音楽が悪い、という極端な思考に走ったこともあった。元をただせば、音楽なんてものがあったから彼は死んだのだ。音楽がなければ私が彼を嫉むことはなかったし、彼が東京へ行くこともなかったし、そもそもすべてのきっかけとなったピアノだって存在しなかった。音楽さえなければ、私たち兄弟はこの田舎で平穏無事に一生を暮らせたはずだったのだ。もちろん、そんなことを考えてもどうにもならないことくらいわかっていた。実体のないものは責任をとってはくれない。仮定の話をいくら重ねても、現実には遠く及ばない。

 ひとつ強い風が吹いた。目にかかった前髪の一本に白色を見つけ、なんだかやけに疲れた気がした。


 翌年の三月三十日の昼ごろ、地震が起こったのだった。大規模なものではなかったが、家の中は惨憺たる有様になった。とりあえずその日は寝る場所の片付けだけをして、次の日、母と私は散らかった室内の掃除に、父は店の掃除にとりかかった。

 午後四時を過ぎ、倒れた棚と散乱するその中身ですっかり埋まっていた自室がようやくカーペット敷の床を三分の二ほど覗かせはじめたとき、廊下で電話が鳴った。居間から母の、出て、という声が聞こえた。私は片手に本を持ったまま大股に電話機へ向かい、受話器を取った。

 雑音のひどい通話口の向こうで、かすかな環境音と知らない男の声がした。聞き慣れない響きのその声が、どうやら片言の日本語を話しているらしいと気づくのに、少し時間がかかった。

 ……が……だ。……が……んだ。……が、しんだ。

 何を言っているかわからないことに苛立ち、はっきり言え、と怒鳴った。感情のわからない音で、相手方が咳払いをした。

 ……タカヒサ・クボの家族だろう?

 弟の名だった。掴んでいたはずの本が右手を離れ、鈍い音を立てて床に落ちた。

 二時間ほど前に、タカヒサの乗っていた郊外へ下る列車が事故を起こした。本当に残念なことだが彼は助からなかった。彼の荷物はこちらから送る。だいたいそんなようなことを男は言った。

 男はドイツ人の音楽家で、弟の仕事の関係者だった。彼がドイツにいたことも、そこで音楽活動をしていたことも、私はその電話で初めて知った。正確にいうなら、それまで知ろうともしなかったのだ。

 一週間ほど経って、青い段ボール箱が送られてきた。鞄や財布、手帳、衣服などに紛れ、何も記されていない封筒が箱の底にあった。手にとった感触では、どうやら紙でないものが入っているようだった。おそるおそる取り出した。赤い布切れだった。あのバーで彼が履いていたズボンの切れ端だと、すぐに気がついた。角がわずかに黒く変色していた。その理由を考えることはしなかった。数本残った煙草のパッケージも入っていた。一本だけそっと抜き取り、上着のポケットに入れた。

 遺体はかけらも戻ってこなかった。親族だけで葬儀を執り行ったが、遺影がずいぶん古い写真だったことも相まってどうにも現実感が追いつかず、終始呆けたような雰囲気で事は進んだ。

 式の最中、まだ若かったのに、と親戚が話しているのが聞こえた。その瞬間、私は衝動的に耳をふさいでいた。ただ、ちょっと前まで生きていた人間を過去形で語られることが、たまらなく嫌だった。不愉快で仕方なかった。そうして過去にされてしまうことに無性に腹が立った。

 誰かが彼を昔のことのように語るたび、叫び出してしまいそうな虚無感に襲われた。誰にも彼を過ぎたことにさせたくなかった。かつての人として扱わせたくなかった。しかし、そう思い続けて十二年が経ったということに、もういい加減気づくべきなのかもしれなかった。

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