三
すぐ後ろからベルを鳴らされなくとも、普段よりずっとのろのろ歩いていることくらいわかっていた。反射的に河原へ避けると、数人の学生だろう男女が自転車で通り過ぎていった。幸福そうな笑い声が響く。私は川べりまで降りる石段の途中に座り込んだ。痺れるほど冷たい川の流れに沿って視線をずらし、遠く薄い雲の奥へ目をやる。空はまだ澄みわたっている。
これまで何度も巡らせた思考がよみがえってきた。幼いころの些細な喧嘩で大人に味方されるのはいつも彼で、甘やかされるのも彼で、ピアノがうまかったのだって彼だった。学校に通うようになってからでも、テストの点がいいのは彼で、宿題を忘れないのも彼だった。なぜいつも彼なのだろう。なぜ私じゃないのだろう。いつだってそう思っていた。思春期を越えてもそれに変わりはなかった。先にロックを知ったのは私なのに、どうして彼はプロになって、私はずっと地下の小さなライブハウスで声を枯らしているのだろう。そう考えた夜など数えきれない。なぜすべて彼なのだろう。なぜ私じゃないのだろう。
息を吐くと少し喉が痛んだ。向かいの河原に、大型犬を散歩させている姉妹らしき少女たちが見える。犬に引っ張られて転びそうになりながらも、彼女たちは楽しそうに歩いていく。それはこの上なく微笑ましい光景に違いないのだけれど、こんなにも目を伏せたく思うのはなぜだろうか。彼が生きていたなら、あれくらいの歳の子供がいてもおかしくない年齢だ。
かすかに動かした唇に細く亀裂が入ったようだ。舌先で湿らせる気にもならなかった。
午後十一時三十八分。秒数までは記憶していないけれど、その時刻だったことは絶対だ。彼が再び口を開いた時刻だ。
——ごめんね。
それがどういう意図で発されたものなのか、私にはわからなかった。今でもわからないままだ。しかし私は、その言葉ひとつで簡単に激昂した。自分でも驚くほどの大きな声で怒鳴り散らした。何を言ったかなど思い出せもしないが、ひどい言葉で喚いたのだろう。それでも彼は動揺するそぶりも見せず、ただ少しうつむいた姿勢を保ったまま黙っていた。それがいっそう私を苛立たせた。子供のように乱暴な動作で席を立ち、つんのめるようにして階段を上り外へ出た。一度も振り向かなかったけれど、彼がこちらを見ていなかったことだけはわかった。その後、どこに行き着いて、どのように目覚めたのか、もう覚えていない。
それからどれくらい、二度と東京へなど行くものか、とくだを巻くばかりの日々を過ごしただろう。あれほど好きだったHyp-Henの曲はいっさい聴かなくなった。集めていたドーナツ盤もソノシートもカセットテープも棚の奥で埃をかぶっていた。Hyp-Henだけではない。私は自分以外の人間がつくるすべての音楽を妬ましく思うようになり、何もかもを遮断してひとりよがりの音楽をつくることに没頭した。ちっとも売れない自分のバンドも未練がましく続けていた。皮肉なことに、仲だけはいいバンドだった。
三十一になったころ、弟がHyp-Henを脱退したことを知り合いからの伝聞で知った。一度、後継のキーボードプレイヤーが演奏する音源を聞いたが、たいしたものではないように思った。
Hyp-Henをやめたあとも、弟は東京から帰ってはこなかった。ほとんど絶縁状態だった。母はたまに電話で連絡をとっていたようだったが、その内容について何か報告されることを私は徹底的に避けていた。そのうち母も何も言わなくなった。
私は曲をつくり続けた。ついてきてくれるバンドメンバーのほうだけを向いて、自己完結できているなどという思い込みを繰り返した。俺たちの音楽が日本一、いや世界一だ、と場末の居酒屋で何度も語り合った。今思えば、本気でそんなことを考えていたわけではなかったのだろう。自分たちが日の目を見ることなどないとどこかで理解していて、それでも認められずに必死で目をそらしていただけだったのだ。
だから、それはほとんど奇跡だった。忘れもしない。バンドを結成してから十六年が経った年のクリスマスの日、私たちはついにインディーズ・レーベルからデビューしたのだ。デビューシングルの八センチCDを手にした瞬間のあのえも言われぬ感覚は、真新しい印刷面の独特なにおいとともにまだ記憶にこびりついている。
その日の夜、ベーシストの家で祝杯をあげた。喜び以上の感情からみんな号泣していた。これが俺たちの出発点で、ここから俺たちがはじまるんだ、と興奮して、吐くほど泥酔しても酒瓶を傾けるのをやめなかった。ようやく報われるときが来たのだと心の底から思った。私たちは確かに幸せだった。
そして、それからすぐ、唐突にそのときはやってきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます