二
大学一年のとき、私は高校からの友人たちとバンドを組んだ。Hyp-Henがメジャーデビューを果たし、だんだんとその知名度を上げていたころだった。私たちは、誰がどのポジションにつくかで一週間ほどもめた。初めて人前でオリジナル曲を披露したのはその一年後の学祭で、十数人しかいない客の大半は寝入っていた。ちゃんと聴いてくれたのは来ていた弟だけだった。そういえば、そのころもまだ彼はピアノをやめていなかった。
弟が東京へ行くと言い出したのは、彼が大学に入って最初の年の冬だった。大学はどうするの、と母に尋ねられると、彼はこともなげに、やめる、と答えた。もちろん両親は怒った。けれどその数ヶ月後には、弟は本当に東京に行った。行ってしまった。私は彼を少しだけ軽蔑しながら、バンド活動を続けていた。Hyp-Henは三枚目のアルバムを出していた。
弟から、バンドをはじめた、と連絡があったのは、私が大学を卒業できないことが確定したその日だった。家族全員気が立っていて、どうでもいい勝手にしろ、となかば怒鳴るような声で電話を叩き切った。それから三、四年ほど、彼からの連絡はほとんどなかった。
その間、Hyp-Henは断続的に活動休止と再開を繰り返していた。明言はされていないが、原因はメンバー間の不仲だったといわれている。聞いた話では、どこか地方でのライブの最中にメンバー同士で殴り合いの喧嘩がはじまったこともあったそうだ。この状態のままずるずると続けていてもファンは離れていくだけだ、早いところ解散するべきだ、などと批評する人もいた。
私から見ても、確かにそのころのHyp-Henは迷走していたように思う。遠のく客足をなんとか回復させようとさまざまな試みがなされていたが、その意図は裏目に出るばかりで、色物バンドと揶揄されるようになっていった。中でもいちばん不評だったのが、新曲を音楽雑誌の付録のみで発売したことだ。当時のライブのMC中に、入手できなかったファンによるブーイングまで起こったほどだった。
そうした不穏な流れが断ち切られたのは、私が二十六になった年の秋口だった。今後はこのメンバーに変更して活動を続ける、と発表があったその日のことを、私はまだはっきりと記憶している。『新生Hyp-Hen』とのちにファンから呼ばれることとなるそのメンバーの中には、弟がいたのだ。
そのときから五年間、弟はキーボード担当としてHyp-Henの一員であり続けた。私は何度か慣れない東京へ足を運び、ライブを重ねるごと次第に増えてゆく客に混じって彼を見に行った。そのたびに、地元でくすぶり続けている自分が嫌になっていった。
そのころ一度だけ弟と話したことがあった。確か彼の二十七の誕生日、ちょうどその日だったはずだ。Hyp-Henの三大都市をまわるライブツアーがはじまる直前で、私はそれを知ったうえで彼を呼び出した。狭い階段を辿ってネオンに紛れたバーへ降り立った彼からは、父と同じ煙草のにおいがした。
カウンターに並んで座ってからも、彼はあまり呑まずに何本も煙草を吸い潰していた。おそらくは一時間以上、私たちは何も喋らずただそこにいた。彼の履いていたサテンのような生地の赤いズボンと、それに色を重ねる店内の照明だけ、いやに覚えている。
何杯もグラスを空けてから、私はようやく彼に何か言おうと口を開いた。何を言おうとしていたのかはもう覚えていない。言えなかったからだ。
兄さん、そんなに酒飲むんだね。そんな言葉だったように思う。久しぶりに聞いた彼の声は、記憶にあるそれとずいぶん違っていた。顔も見合わせずに、おまえこそそんなに煙草吸うんだな、と応えた。そこからまたしばらくの間、二人ともあらぬ方向に視界をもって黙っていた。
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