春の太陽 またはドントクライ、ベイビーブルー

クニシマ

 十三回忌が終わった。


  ◇◆◇


 さすがにもう感傷にひたる者もいない中、会食のあと家に戻るのが嫌で、用事があると嘘をついて外へ出た。見上げた空は透きとおる青色だ。大きく息を吸ってはみたけれど、ぼんやりとした苦しさが晴れることはなかった。私は歩き出した。

 どこへ行こうという気はなかった。けれど、どこかにいなくてはいけないように思った。かといって、いつもは何もなくても行くような、古本屋や映画館なんかに行く気はしなかった。腕時計へ目をやると、時刻を示す針より先に老けた皮膚がやけに目についた。もう四十七だものな、と思って、思ってからなぜか少しその事実に驚いた。四十にもなれなかった弟のことを考えていたせいだろうか。喉の奥にうっすら痰が絡んで、私は軽く咳払いをした。

 午後二時三十八分十九秒、二十秒、二十一秒。ため息をついて目をそらした。歩みを続けていた足はゆるやかな坂を踏みはじめている。このまま、ただどこへまでも歩けばいい。そんな気がした。


 弟は素晴らしい才能を持っていた。こんな田舎にいるにはもったいないほどだった。そして事実、こんな田舎にずっといることはなかった。

 私が五歳、彼が三歳のとき、母の言いつけで一緒にピアノ教室へ通いはじめた。私がまだ彼のことを名前で呼んでいて、彼もまた私をお兄ちゃんと呼んでいたころだ。従順な子供だった私たちは、週に一度の厳しいレッスンに文句ひとつ言わず出席していた。しかし中学生ともなれば次第に嫌気がさしてくるもので、私はさぼりにさぼりを重ねて結局やめてしまった。そして、それと同時にロックに傾倒した。まだピアノ教室に通い続けていた弟にも、強制的にいくつものバンドの曲を聴かせた。

 そうするうち——あれは確か日本でもニューウェイヴが流行し出したころだっただろうか——私たちはひとつのマイナーなバンドに熱をあげるようになった。『Hyp-Henハイフン』というバンド名、メンバー四人全員のスレたような顔つき、十九歳やそこらの若さですでに完成されたサウンド、何もかもが反抗期真っ只中の男子高校生の目には途方もなく格好いいように映った。少し離れた都市のライブハウスに来ると知ったときは、すべての小遣いをつぎこんで二人で見に行った。私の高校生活のすべてはHyp-Henに費やされていたといって間違いない。フロントマンの設楽しだらいさおに憧れてギターだって買った。弟は褒めてくれた。父や母には、うるさいからやめろとしか言われなかった。


 少しだけ急な坂を登りきったそこは、隣の町とを境う川にかかった橋の上だ。道の端には汚れた雪の塊がうずくまっていた。欄干にもたれかかって川面を見下ろせば、川沿いの桜の木に並んだ固いつぼみが水に映ってわずかに揺れている。

 この場所で泣いたこともあった、と思い出した。告別式が終わって何日かあとのことだ。実際彼が死んだという報せを聞いてからはもう何週間も経っていて、それでも私はまだちっとも実感を湧かすことができていなかった。その日の昼下がり、私は今日のようにふらりとここに訪れていた。そうして今のようにぼうっと水面を見るともなく見ていたとき、突然ぽつりぽつりと雨が降り出した。その最初の一滴が首筋に触れた瞬間、どうしてだか涙がじゅぶじゅぶとしみ出しはじめて止まってくれなくなった。溶けた視界がぼとぼとと川へ落ちていって、雨と同じ波紋をいくつもつくった。

 今はもう、何を思い出しても涙が流れることはない。けれど気泡のような虚しさはずっと心に埋め込まれたままだ。

 背後を何台ものエンジン音が通り過ぎていく。私はまた歩き出した。

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