第22話 真の代償
討伐隊との接触後も飛び続け、日暮れ前にはサンプールへと到着した。
陽だまりの都と呼ばれるサンプールは、明るい色調で満たされた都市だった。都市には穏やかな陽光が降り注ぎ、空から見るとまさに光のプールのようだ。
シルルは気が急いているのか、飛び込むようにサンプールの中央広場へと降り立った。慣れない飛行で消耗してはいたが、シルルの表情は明るい。わずかな希望を信じて、疑っていない様子だ。
しかし。
「……うわああっ!?」「ドラゴンが出たぞ!?」「逃げろ……!」
突然のドラゴンの来襲に、市民たちが逃げ惑う。それも当然の反応だろう。サンプールの誰もが、今のシルルのことを〝聖女をさらった悪しきドラゴン〟として見ているのだから。
『ま、待ってください!』
シルルが慌てて叫ぶ。
しかし、それは悪手だった。シルルの声は雷鳴のような轟音となり、さらにパニックが広がってしまう。あちこちで悲鳴や怒号が上がり、のどかだった町の景観が、またたく間に崩れていった。
『ま、待って……みんな、わたしの話を聞いてください』
今度は小さな声で言う。これは言葉として受け取られたのか、何人かが足を止めてシルルを見た。広場のざわめきの種類が変わる。純粋な怯えから、好奇心混じりの怯えといったふうに。
注目の的となったシルルは、ごくりと喉を上下させてから口を開く。
『信じてもらえないかもしれませんが……わたしはシルルーラです。聖女のシルルーラ・トゥ・レイクなんです』
ざわめきが大きくなる。驚きというより困惑のために。
『こんな姿になったのは、呪いの装備に触れてしまったからでして……一時的なものなんです。元に戻ることも、できます。愛する人と〝ちゅー〟をすれば、元の姿に戻れるんです。どうか、協力してください』
シルルは懸命に頼む。しかし、返事はない。人々は顔を見合わせるだけで、動こうとはしなかった。遠くから、シルルに冷たい視線を向けるだけだ。
心なしか、シルルの体が震えている気がした。おそらく、いつも陽だまりの中心にいたシルルは、こんな冷たい視線を向けられたことがなかったんだろう。
『あ、あの……協力を……』
返事がないことで弱気になったのか。ドラゴンが出すとは思えない、弱々しくてすがるような声だった。しかし、おぞましい竜の声にまともに耳を貸す人なんていない。
と、そのときだった。
「――いったい、なんの騒ぎですか?」
初老の女が人混みを割ってやってきた。女はくすんだ白髪の上に司教冠を乗せ、教会の聖騎士を引き連れている。おそらくシルルの言っていた〝司教様〟だろう。
女司教はシルルを見つけると、その落ちくぼんだ目を見開かせた。
それとは対照的に、シルルの表情がぱぁっと輝く。雲間から太陽がのぞいたかのように。これで助かった、と言わんばかりの笑顔だ。
『司教様! わたしです! シルルーラです!』
シルルは必死に訴える。
『信じてもらえないかもしれないですが、本当なんです! 呪いの装備のせいでこんな姿になってしまっただけで……!』
もはや、なりふりかまっていられないんだろう。
シルルは興奮したように一方的にまくしたてる。
『お願いです、司教様! わたしにキスをしてください! そうすれば、人間の姿に戻ることができます!』
「…………」
女司教はしばらく黙って目を閉じていた。
やがて目を開くと、シルルにふっと微笑みかける。
その母親のような慈愛の笑みに、シルルは安心したような吐息を出し――。
「――
『……え?』
突然、氷の鎖が飛来し、シルルの全身に巻きついた。
「な、なにを……」
僕らが戸惑っていると、女司教の持っていたロッドが青白く光り、さらに氷の鎖が現れる。鎖は呆けているシルルを縛り上げ、容赦なく地面に押さえつけた。
「皆さん、今のうちに逃げてください! 私が抑えているうちに……早く!」
突然、女司教が焦ったような叫び声を出す。
『し、司教様?』
「悪しき竜の言葉に惑わされてはいけません! この竜は、食べた人間の声を奪うことができます! やつは……聖女様からも声を奪ったのです!」
『い、いったい、なにを……?』
シルルが無理やり体を起こそうとして……氷の鎖が砕けた。静まり返った広場に、ばきっと氷が弾ける音が響き――その音を皮切りに、わぁっと人々がふたたび逃げだした。
『あ、待って……待ってください』
シルルが懇願するが、今度はもう足を止める者はいない。ドラゴンの言葉に、耳を貸す者はいない。広場からは、またたく間に人がいなくなる。
『あ……あ……』
シルルが呆然とする。その顔からは怒りやショックは感じられない。裏切られたことすら、まだ理解できていないのかもしれない。シルルの顔の上には、純粋な戸惑いだけが漂っていた。
「そう、だったのか」
今の女司教の行動で、ようやく気づくことができた。
さまざまな違和感の正体に。ずっと付きまとっていた不安の正体に。
「……全部、あなたが仕組んだのか」
僕が女司教を睨みつけると。
「なんのことです?」
まるで、本当に知らないかのような表情をする。
『たいした役者ね、この年増』
「ああ」
本当に、たいした演技だ。ともすれば、騙されていたかもしれない。
しかし、彼女はあまりにも落ち着きすぎている。今もドラゴンを前にしているとは思えないほどに。ついさっきまで、ドラゴンを前にして焦っていたとは思えないほどに。
きっと、この演技でシルルのことも騙し続けてきたんだろう。
……とても、不愉快だ。
「あなたが、シルルの自室に呪いの装備を置いたんだろ」
胸の奥にわき起こる気分の悪さから、つい声が刺々しくなる。
「なにを根拠に……」
「あなたたちの持っている氷魔法装備ですよ」
女司教もその部下たちも、手にしているのは全て――高ランクの氷魔法装備だ。僕が装備を見間違えるわけがない。ドラゴン対策としては、もちろん適切ではあるけど……あまりにも適切すぎる。
「あなたたちの持っている氷魔法装備は、あまりにも数が多すぎる。あらかじめ、世界中からかき集めていたかのようだ」
高ランクの魔法装備は、一つ一つがかなり高額だ。この地に生息しないドラゴンが、このサンプールを襲うなんてことを事前に確信していなければ、これほどの数はそろえられないだろう。
「それに、あなたはシルルのことを昔から知っていたらしいね。ずいぶん信頼もされていた。だからこそ、シルルがもっとも恐れているものを知ることができた。だからこそ、事前にこれほどのドラゴン対策をおこなうことができた」
獣ト薔薇の効果は、『装備者がもっとも恐れる姿になる』というもの。
女司教がその効果を知っていたのなら、シルルがドラゴンになることも予測できていただろう。だとすると、この不自然な対応の速さも理解できる。
理解はできるが、わからない。
「どうして、こんなことを……!」
短い付き合いだけど、シルルが憎まれるような人間ではないことは確かだ。
こんな目にあうべき人間ではないことも確かだ。
そもそも、シルルをただ殺すだけなら、もっと効率的にできたはず。女司教はシルルに近づく機会など山ほどあっただろうから。こんな……シルルの尊厳を奪い、苦しめたうえで殺すようなことは、しなくてもよかったはずだ。
「…………」
女司教は沈黙したままだった。下手に答えるとボロが出ると判断したのだろうか。
いつの間にか、女司教の表情からは感情が消えていた。
『ち、違いますよね?』
シルルがおそるおそる尋ねる。
『司教様がそんなことする理由はありませんし……わたしに攻撃したのだって、勘違いしたからですよね?』
女司教はシルルの問いには答えない。まるで聞こえなかったというように。
彼女はしばし沈黙したあと、一つ溜息をついた。
「……いろいろ誤算が重なりましたが、まあいいでしょう。氷魔法装備を多めに用意しておいたのは正解でした」
女司教はシルルから離れると、さっと手を挙げた。それを合図に、聖騎士たちが一斉に武器をかまえる。あらかじめ訓練されていたような機敏さで、あっという間にシルルを包囲する。
聖騎士たちの手には、氷の魔導書。ドラゴンを効率的に殺すための武器。
「あの竜を殺しなさい」
女司教が氷のように冷たく言い放つ。その目には温度がなく、一欠片の慈悲も感じられない。
「猊下、まだ民間人がいますが……」
「かまいません。あの少年は、悪しき竜の仲間です」
「はっ」
聖騎士たちは頷くと、一斉に詠唱を始めた。
四方から、氷の鎖が飛んでくる。狙いはシルルだ。彼女の巨体では回避はできない。
『きゃっ!?』
シルルの体が氷の鎖に押さえつけられる。シルルは抵抗しようとするが、彼女が砕くより早く、氷の鎖が増えていく。
やがて縛られたまま動けなくなったシルルを見て、聖騎士たちが歓声を上げた。
『し、司教様! どうして、こんなことを!』
「……どうして?」
女司教の顔がぴくりと歪む。
「まだ、わからないのですか。本当に愚かな娘ですね」
『え?』
「……決まっているでしょう? あなたが目障りだからですよ」
彼女は呪詛のようにシルルの耳元にささやきかけた。
「あなたは美しいというだけで、全てを手に入れた。聖女としての地位も、名声も、人々からの愛も。私がどれだけ努力しても、手に入れられなかったものを……全て」
『そ、そんなことは……』
「あなたは陽だまりです。あなたの側にいるだけで、私は日陰に追いやられるのです。私がずっと、どんな思いをしていたか……その姿になった今なら、わかるでしょう?」
痩せこけた女司教の顔が、嗜虐的に歪んでいく。まるでシルルとは対照的な、陰険で醜い顔だ。
……ようやくわかった。彼女はシルルに嫉妬したのだ。シルルが全てを持っていることを妬み、彼女からその全てを奪おうとした。醜い嫌われ者に仕立て上げることで。
『そんな……わたしは……』
シルルが呆然としたようにうなだれる。愛していた人に、ここまで明確な敵意をぶつけられたのだ。ショックを受けないほうが無理があるだろう。
女司教は気味がいいとでもいうように、シルルを鼻で笑った。
「皆さん、まだです。今のうちに竜の体温を下げるのです。――
女司教は氷のロッドを振りまわして、細かな氷片を吹きつけてくる。他の聖騎士たちも追従し、またたく間に、吹雪で視界が白く染まった。
『ノロア様!』
シルルが氷の鎖の隙間から翼を動かして、僕を覆った。吹雪から僕を守ろうとしているのだろうか。自分が一番、苦しいだろうに。
シルルの体温がどんどん下がっていく。動きもどんどん鈍くなっていく。その純白の鱗にも、うっすらと傷がついていき、シルルの表情に苦痛の色が浮かぶ。
そして、シルルが傷つき苦しむたびに、聖騎士たちや見物人の市民たちから歓声が上がる。
「ああ、そうか……」
これが、獣ト薔薇の真の代償なのか。
ただ愛するだけでいい。それは、とても簡単なことだと思っていた。
しかし、違ったのだ。おぞましい姿になったというだけで、相手の本性がさらけ出される。醜い感情や冷たい視線を、たくさんぶつけられる。
それでもなお、愛さなければならない。
自分を恐れ、憎み、殺そうとしてくる相手を、心から愛さなければならない。
ドラゴンの姿になるというだけで、こうも他人を愛することが難しくなるのか。
きっと、シルルはもうダメだ。愛していた人たちに失望してしまったはずだ。愛もすっかり冷めて、凍りついてしまっただろう。
これから先、シルルが人を愛せるかもわからない。それだけの仕打ちだった。
『ちょっと、ノロア! なんとかしなさいよ! わたくし冷え性なのよ!』
吹雪の音に負けじと、ジュジュが叫ぶ。
僕は肩を落として、頷いた。
「……潮時、だね」
このままここにいても、シルルが人間に戻れる可能性は少ない。
サンプール市民とも、まともに話し合うことはできないだろう。
ここで粘ってもシルルが衰弱するだけだ。
少なくとも、いったん引くべきか。もっとも、次の機会があるとは思えないが。
「……仕方ない」
敵対行動は慎むつもりだったが、そうは言ってられない。
こちらも命がかかっているのだ。
僕はぎゅっと目を閉じて、血舐メ丸を抜いた。
周囲に人はたくさんいるけど――暴走はしない。
その理由は簡単だ。
血舐メ丸の代償は、『視界に入った生物を殺し尽くすまで暴走する』というもの。
つまり、視界に生物を入れなければ暴走はしない。厳密には、一瞬で暴走が収まる。
だから――僕は血舐メ丸を抜く前に、目を閉じた。
そのあまりに単純な行為こそが、この血舐メ丸の代償の抜け道なのだ。
もっとも、目を閉じたままでは、まともに戦闘はおこなえない。隙だらけになるし、ただやみくもに衝撃波を飛ばすことぐらいしかできない。それでも、この状況を切り抜けるには充分だろう。
血舐メ丸なら、広場にいる人間ぐらいなら一掃することだってできる。最低でもAランクの魔物ぐらいの耐久力がなければ、この刀の最小出力の衝撃波にも耐えられない。
だから、僕は――。
『ノ、ノロア様、待っ……!』
シルルの制止の声が聞こえてくるが、すでに僕は動きだしていた。
血舐メ丸を大きく振り上げ――。
――思いっきり、地面に突き刺す。
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