旅立ち編・3章 竜になった聖女

第15話 陽だまりの聖女

 聖女シルルーラ・トゥ・レイクの祝詞の儀は、本日も満席だった。

 本来、祝詞の儀というものは長くて退屈なだけ。古代神聖語で行われる儀式も、会衆のほとんどには理解できないものだろう。義務でもなければ、好んで参加するはずもない。しかし、ことシルルーラの祝詞の儀においては、誰もが席を取り合って参加するほどだった。


 どうして、そうまでして祝詞の儀に出たがるのか。

 その理由はとてもシンプルだった。

 シルルーラの容姿が美しいからだ。

 〝陽だまりの聖女〟といえば、この辺りで知らない者はいない。春の陽気のような淡い琥珀色にきらめく髪。Aランクの職人装備でも再現不可能と言わしめた整った目鼻立ち。そして、なによりシルルーラの人格からにじみ出ている善のオーラは、見る者の心を浄化する。もしもシルルーラに光輪や翼でもついていようものなら、天からの使いだと疑う者はいなかっただろう。

 誰からも愛される聖女……それがシルルーラ・トゥ・レイクという少女だった。


 やがて、シルルーラが終わりの句を口にして、ふぅっと息を吐く。

 祈りの終了の合図だ。厳かに沈黙していた礼拝堂の空気がにわかに緩んでいく。退屈な儀式が終わり、さてようやく一杯飲みにいける……と、普通ならば思うところだが、彼女の儀式では帰ろうとするほうが例外だった。


「聖女様! うちで採れた野菜、食ってくれ!」

「ずるいぞ! あんなやつの野菜より、俺のが……」

「当家の晩餐会に、ぜひ……!」

「せいじょさま、お花あげる!」


 シルルーラの周囲には、すぐに人々が群がる。

 老若男女関係なく、競うように貢物をわたそうとする人々。


「え、えへへ……ありがとうございます」


 シルルーラは眉尻を下げて、はにかむことしかできなかった。

 あれよあれよという間に、シルルーラの前には貢物の山ができてしまう。

 それは今日が特別というわけではなく、あくまでシルルーラの日常の一部だった。その事実一つ取っても、彼女がいかに慕われているかがわかるだろう。


「……ごほん」


 やがて、人だかりの外から咳払いが響いてくる。

 その音で、ざわめいていた人々が一気に静かになった。

 女司教が来たのだ。彼女はしわだらけの初老の女だった。その痩せて落ちくぼんだ目の奥には、厳格そうな瞳が冷たく輝いている。


「皆さん、聖女様はご多忙の身です。その辺りで……」


 女司教の声が、礼拝堂に冷え冷えと響く。その言葉はいつもの解散の合図だった。野暮だ、無粋だ、と信徒たちはぶつくさと不平を垂れるが、高位の聖職者に対して、面と向かって噛みつける狂犬はいない。信徒たちは皆、犬に追われる子羊でしかない。

 まるで悪者のような扱いをされた司教様は、むっと少しだけ顔のしわを濃くするが、それも一瞬のこと。すぐに無表情に戻る。


「聖女様も、断るということを知ってください。物を受け取りすぎるのも好ましくありません」


「は、はい……ごめんなさい」


 シルルーラは、しゅんとうなだれる。

 彼女にとって、自分を慕ってくれる人にNOを突きつけるのは、とても厳しい試練だった。しかし、それではいつまで経っても、女司教のような立派な聖職者になることはできない。

 ただ、シルルーラには少しだけ不満もあった。


「あの、司教様……」


「……私のことは、〝猊下〟と呼ぶように」


「で、でしたら! わたしのことも〝シルル〟って呼んでください! 様付けも、ちょっと……」


 聖女としての立場ができてからというもの、女司教はシルルーラに対して冷たく突き放したような態度を取る。聖女になれば彼女の手伝いもできると思ったのだが……。

 女司教は目をつぶったあと、静かに口を開く。


「それより、次のお仕事が入っています。早くお仕度を、聖女様」


 それから、思い出したように付け加えた。


「しっかりお仕事をしなければ、竜がやって来ますよ?」


 竜がやってくる。それは、女司教が昔から使っている、しつけのための文句みたいなものだ。シルルーラは条件反射的にびくっとしてしまう。


「……そうですね」


 結局、今回も煙に巻かれてしまった。しかし、次の仕事があるというのも事実。信徒たちの対応をしていたせいで、時間はあまりない。早く準備をしなければ。

 今のシルルーラの人気は、その容姿の美しさがあるからこそだ。

 逆に言うと、今はそれしかない。女司教のように高ランクの聖具装備をつけることもできないし、聖典や聖歌を全てそらんじることもできない。

 勉強も、運動も、聖務も、人前に立って話すのだって、あまり得意ではない。

 それでも、いつまでもマスコットではいられない。マスコットのままでいたくない。女司教の手伝いをするためにも、女司教のような立派な聖職者になるためにも、もっと頑張らなければ……。

 シルルーラはそう自分に言い聞かせて、気合いを入れるのだった。



 シルルーラは次の仕事へ向かう前に、着替えのために自室へ戻った。

 宗教の儀式というのは面倒なもので、儀式ごとに正装が変わってくる。毎日、結婚式の花嫁のように七変化する必要があるのだ。

(あ……)

 自室に入ったシルルーラは、ふと、机の上に視線を留める。

 机の上には、見覚えのない髪飾りが置かれていた。白薔薇を結って作られたような美しい髪飾りだ。ただのアクセサリーだというのに、どこか匂い立つような気品が感じられる。

 誰かが間違えて、ここに置き忘れたのだろうか。


(……綺麗)


 シルルーラは薔薇の香りに誘われるように、ふらふらと髪飾りに近づいていった。彼女はこれほどまでに美しいものを見たことがなかった。

 物欲が乏しいシルルーラでも、心が惹かれる。理性を溶かすような魔性の美しさ。

 この髪飾りをつければ、自分はもっと美しくなれるだろう。もっと美しくなれば、もっとたくさんの人から愛されるかもしれない。

 こんな、なにもできない自分でも……ずっと愛してもらえるかもしれない。

 ふと、そんな考えがシルルーラの脳裏をよぎる。


(……ほんの少しだけ)


 いけないと思いつつも、シルルーラは髪飾りに伸ばす手を止められなかった。

 聖女といえど、まだ一〇代の娘。おしゃれにだって興味はある。

 でも、けっして盗むわけではない。少しだけ髪につけて、鏡の前でポーズを取ってみるだけだ。それでも、シルルーラにとっては背徳感を禁じ得ない大冒険だったが。

 胸をどきどき鼓動させながら、彼女はその白薔薇の髪飾りに触れ――。


「きゃっ!?」


 その瞬間、シルルーラの全身を雷が貫いた。

 体が内側からぐるんとひっくり返るような、強烈な苦痛と不快感。

 気がつけば、シルルーラは悲鳴を上げていた。


「聖女様!」


 女司教が扉を蹴飛ばして、部屋に飛び込んでくる。悲鳴を聞きつけたのだろう。

 彼女はシルルーラの姿を見るなり、顔に刻まれたしわをさらに濃くした。

 そして、血相を変えて叫ぶ。


「――竜です……! 竜が襲ってきました……!」

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